林岬
田中の後ろにいた林岬は、
「先生のおかげで救われた人は沢山いますよ。私達だけではなく、家族も介護士さん達も皆、助かってるはずです」
伊丸岡は曖昧に笑う。確かに介護士や他の医療従事者からは好評ではあった。しかしその評価にはどこが棘が有った。
「何度も同じ事を訊かれなくなって楽になりました」
「あのクソババアが静かになってくれて嬉しいです」
「暴言、暴力を繰り返すババアを危うく殺すところでした」
陰口に近い。確かに認知症の介護は過酷ではあるが、利用者への敬意が全くないのも問題だ。伊丸岡は複雑な気持になった。
林は、
「私はボケた時の記憶が残っているけれど、介護士さん達に酷い事をしてきました」
「謝らないで下さい」
伊丸岡が制す。林は認知症の時は介護士達を何度も窃盗犯や性犯罪者扱いしたり暴言を吐いたりしていた。フィリピンやベトナムから来た女性介護士にも「売女」と罵ったりもしていた。介護士達は怒りで震えていた。認知症でなくとも介護は過酷なのに暴言を吐かれる。それで叱責したらパワハラだと騒がれる。非常に不条理な職場である。
林は悲しそうな顔で、
「けれども、そんな酷い私にベトナムからの介護士さんが、『これで貴方は死ななくなりました。良かったですね』と、屈託のない笑顔でおっしゃったんです。まだ三十歳にもなっていないのに」
伊丸岡は小さく頷いた。確かに認知症が治れば死亡率は下がる。転んだ時に受け身が取れるし誤嚥の可能性も低くなるし、危険な所には近寄らなくなるからだ。伊丸岡も林の言うベトナムの介護士と何度か会った事がある。彼女は確かに治療前の林に暴言を吐かれて怒りに震えていた。しかし、林に報復することは決してなかったし、専門職としての矜持はあった。彼女ならば治った林を素直に祝福するだろう。彼女は以前に、
「高齢者からの暴力よりも死を看取るのが苦痛です」
と、伊丸岡に吐露していた。彼女の様に考える介護士は少なくない。介護士への迷惑行為や暴力は決して許されるべきではないけれど、必ず来る死別は介護現場では大きな重圧と苦痛となる。
林は穏やかな顔で、
「先生。無責任な人達が先生を逆恨みするかもしれませんけれど、挫けないでくださいね」
「有難うございます」
伊丸岡は返事をした。伊丸岡本人に文句を直接言ってくる者は今のところいない。しかし伊丸岡本人は自分が確立した治療に疑問を感じている。再起した老人達が無理して怪我したり鬱になったりしてまだ荷物扱いされているのだ。伊丸岡は無責任な社会に憤りを覚えている。