伊丸岡健
伊丸岡健は幼い頃から母方の祖母に育てられていた。父親は医師、母親は看護師として多忙を極めていたので週に一回会えれば良い方だった。健は両親となかなか会えなくて寂しい思いをしていたが、祖母の説得もあって患者の為に尽くしている両親を尊敬してもいた。祖母は、
「医師も看護師も患者の命を預かる大事な仕事」
と、何度も力説していた。健は自然と子どものうちから医師か看護師になろうと決めていた。
母方の祖父は建築士だったが、健が小学生の時に引退して、祖母と一緒に健の面倒を観た。父方の祖父は医師、祖母は保健師としてまだ現役だった。健にとっては母方の祖父母が親代わりだった。
中学高校もサッカー部に所属していたが、健は上手くなかった。健自身も期待していなかった。その代わり、勉強を頑張った。文系を好んだが、医師になる為には理系の科目にも挑戦した。
大学は見事に志望校に合格した。四人の祖父母も両親も喜んだ。けれども医学生は多忙で過酷だった。研修医時代は更に苛烈を極めた。
そんな時、母方の祖母が認知症になった。物忘れが酷くなったばかりではなく、人が変わったように怒鳴り散らすようにった。時折、暴れたりもする。家族は認知症の為の特別な施設に祖母を入れた。健は見舞いに行ったり介護したりしたかったが、研修医として研鑽するだけでも精一杯であった。
晴れて医師になっても、祖母は完全に健を忘れていた。それどころか敵意を剥き出しにしていた。祖母は男嫌いになっており、あらゆる男を寄せつけなかった。健は変わりに変わった祖母を見て涙を流した。これでは介護も見舞も難しい。代わりに母親が見舞いに行ってるが、祖母の態度は冷たい。息子の面倒を観させた負い目で母親は耐えているが、祖母の変貌はあまりにも大きい。
過ちをじっくり諭すような祖母、優しい祖母はいない。
経済的な負担は大きい。祖母は何年生きるのか。二十年三十年も生きたら家族の人生計画も狂う。施設に預けているとはいえ、精神的な負担も大きい。口にこそ出さないが、家族は祖母の死を願うようになった。
認知症が治療出来れば、親族を思い出せれば、まだ希望は持てる。健はそう思うようになった。一度認知症になれば悪化するばかりで回復はしない。そんな残酷な事実を突き付けられて家族は途方に暮れた。
認知症さえ治れば介護士に暴言も暴力も振るわなくなるはずだ。認知症でなければ家族を排除しないはずだ。認知症という病が疎ましい。
健は認知症の治療に専念するようになった。だが、治療法が確立する前年に祖母は亡くなった。