帰省
「貴方が率先して気負うことは無いでしょう」
伊丸岡の母親が言った。伊丸岡は妻と息子と一緒に実家に帰省していた。七十歳前後の母親は既に看護師を引退し、家事の傍ら外国人と交流するボランティアをしていた。
休暇を取る前、伊丸岡は盆でも正月でもなかなか帰省出来なかった。五年ぶりである。息子は久し振りに会った父方の祖母に緊張していたが、祖母の料理を美味そうに食べていた。
妻は困った顔をして、
「そうですよね、お義母さん」
母親は頷く。伊丸岡は、
「そんなつもりはない。認知症になったら二人共、本当に治療を受けるのか?」
「そりゃあ、せっかくだから受けるよ」
母親が答えた。妻も、
「受けない理由なんて無いでしょ」
息子は不思議そうに伊丸岡を見つめている。伊丸岡は、
「介護士や家族に全く遠慮するつもりが無ければ、認知症が進行したまま天寿をまっとうしたい人もいるんじゃないのか」
妻は不快そうに眉をひそめて、
「記憶が無くなっていく恐怖がそんな軽いものじゃないでしょ。貴方は専門家でしょ」
伊丸岡は肩をすくめて、
「最初はそう思っていたけれど、認知症が治った後も辛い思いをしている人達が多いじゃないか」
息子は、
「父さん。この間、患者さん達から誉められたのにまだ認めないの?」
うーん、と、伊丸岡は唸る。母親は、
「人生なんて苦労の連続なんだから、認知症が治ってもそれは変わらないでしょ」
妻は、
「渡辺君の言ったように議員に立候補すれば?」
息子は、
「父さんの治療を受けた後、患者さんが不幸になっても父さんのせいじゃないよね」
「ただいま。お、本当に帰ってきたか」
父親が病院から帰宅してきた。父親は仕事量を減らしているがまだ現役だ。皆が、
「「「「おかえりなさい」」」」
と、返事をする。父親は孫を見ると破顔した。孫はぎこちなく笑った。孫は祖父母を嫌っていなかったが、あまり会う機会が無かったので緊張しているのだ。
父親は、
「今は休めば良いけれど、辞めるのは勿体ないぞ。色々納得いかない事が起きるのが医療現場だ」
「そうだけど⋯⋯」
伊丸岡が言い淀むと父親は、
「天国でお祖母ちゃんが心配しているぞ。今すぐでなくて良いから元気出すんだ」
一家が揃ったので夕食を食べた。