渡辺宏
研修医時代に同期だった渡辺宏が伊丸岡に会いに来た。渡辺は伊丸岡夫妻の結婚のキッカケを作った。外科医である彼女を麻酔科医である渡辺が伊丸岡に紹介したのだ。
今は昼時で息子は学校にいる。渡辺は総菜を買い、伊丸岡は酒を出した。友人二人の昼食だ。
伊丸岡一家が以前よりも仲睦まじく暮らしているのを知って渡辺は安堵した。伊丸岡の妻は夫の愚痴を言わなくなった代わりに誉めるようになったし、表情も穏やかになった。妻と渡辺は職場が同じだ。渡辺も気が楽になった。
渡辺は、
「休むのは良いけれど、辞めるのは勿体ない」
伊丸岡は苦笑いして、
「みんなそう言うけれど、僕がいなくても治療出来るからね」
渡辺は不思議そうに、
「手柄を横取りされるようなものじゃないか」
伊丸岡はハハハと笑う。渡辺は、
「鬱なんだろ。ちゃんと精神科に行っているのか」
伊丸岡は肩をすくめて、
「精神科で治るようなもんじゃないんだよ」
渡辺は訝しそうに、
「どういう意味だ」
伊丸岡は社会への不満を吐き出した。高齢者への冷遇と差別される老女達。渡辺は、
「社会批判するなら選挙で立候補してみれば良いだろ」
伊丸岡は困って目を細め、
「なんか違う」
渡辺は、
「そうか?政治家になった医師なんて沢山いるだろ」
伊丸岡は宙を睨んで、
「お婆さん達の気持ちを分かったような態度で偉そうに演説するのはやっぱり違う」
渡辺は、
「じゃあ、いつかは復帰するんだよな」
「暫くは復帰したくないな」
伊丸岡が吐露すると渡辺は、
「やっぱり鬱なんだ。精神科に診てもらいなよ」
伊丸岡は暗い声で、
「生産性の無い奴は生きる資格が無いのかな。そんな社会の為に治療してきたわけじゃないんだけどね」
「相当精神状態が良くないな」
渡辺が言うと伊丸岡は缶ビールを飲む。渡辺は、
「これ以上、酒を飲まない方が良いんじゃないか」
「いつもは飲まないよ」
伊丸岡が答える。渡辺は、
「僕だって色んな患者を観ている。病気や怪我の後遺症で動けなくなった患者なんて沢山いるさ」
伊丸岡は焼鳥を食べる。渡辺は、
「確かに高齢者への風当たりは強いけれど、いちいち気にしていたら俺達、仕事出来なくなるぞ」
伊丸岡は暗い声で、
「以前は認知症に皆が向き合って患者の最期を迎えてたのにな」
渡辺は、
「そうでもないさ。介護殺人なんて沢山あっただろ。君は時代を切り拓いたゲームチェンジャーなんだ。自信持てよ」
「ありがとう」
伊丸岡が礼を言うと、渡辺は、
「一度、精神科に受診してみなよ」