カラクリ
ライブハウス『ノクターン』――ストリップショーが催される場所ではあるが、基本的には外部のバンドを招いてのライブを主軸にしている。その夜も二十二時まで、どこぞロックグループによるステージが行われ、観客たちが帰路につき、機材の撤収も済んでようやく静けさが戻ったのは、深夜〇時を過ぎた頃のこと。ガランとしたステージの中央で、紅葉が汗を光らせながら黙々とステップを踏んでいた。
「練習熱心ですね」
リリザが、客席の隅から優しく声をかけると、紅葉は息を整えながら頷く。
「むしろ、こんなにいい練習場所、他にないですよ」
『ノクターン』のステージは広く、天井も高く、ダンサーにとって理想的な空間だった。リリザはここで寝泊まりしているらしいので、その迷惑にならない範囲で、こうして空いている時間に使わせてもらっている。もちろん、音は控えめに。スマホから流れる音源を頼りに、今日も紅葉は黙々とレッスンに励んでいた。
しかし、ふとリリザが舞台裏のほうに視線を移して、そこにいる何者かに声をかける。
「あら、お久しぶりですね」
それで、紅葉も来訪者の存在に気がついた。でも、こんな時間に? もうイベントの後片付けさえもとっくに終わっている。だが、相手の様子はどことなく親しげだ。
「リリザさんもお変わりなく。で、ステージある?」
ステージ――その単語に、紅葉は動きをぴたりと止めた。女の声――だが、独特の抑揚と間延びした口調は、どこか夢の中のようなぼんやりした響きがある。誰だろう? もしかして、新しい踊り娘……?
気になって、そっとステージから覗き込む。そこで目にしたのは、見たことのない風貌の女だった。少し暗めの赤ジャージとその上からふわりと羽織っているのは何故か白衣――しかも、長い髪をそのまま背中に垂らしているが、頭頂のあたりにぴょこんとひと房の毛が立ち上がっている。夜の照明に照らされたその姿は、まるで学会から逃げ出してきた研究者のようでもあり、どこか異世界の住人のようにも見えた。
訝しげな視線に気づいたリリザが、紅葉に紹介する。
「こちらは、ハロクドさんです」
「は、ハロクド……さん……?」
思わず、名前を復唱してしまった。華やかな源氏名が飛び交うこの世界で、その響きはあまりに浮いている。まるで咳止め薬か怪しい組織のコードネームのようで――ストリッパーの活動名とは思えない。あまりの違和感に、紅葉の頭の中で軽く疑問が渦を巻く。だが、顔に出すのは無粋だろうと、黙って会釈だけにとどめておいた。
すると当のハロクドは、紅葉の反応に頓着することもなく、首を傾げてひと言だけ。
「そろそろボクの出番だったと思うから、“地上”に来たんだけど」
「“地上”……?」
紅葉は思わず、目を瞬かせる。なら、彼女はどこから来たのだろう。地下? 地底? いや、冗談としても、その発言にツッコミを入れるのも面倒くさい。この界隈、変な人ばっかり……。そう心の中で呟きながら、紅葉はようやく、少しだけこの場所での自分の立ち位置に慣れてきたことを感じていた。
実際、リリザは何も気にしていないし、紅葉に詳細や事情を説明することもない。
「こちらは、楓さん」
リリザが芸名で紹介していることからも、このハロクドという女がライブハウス関係者だということを理解した。しかも。
「ハロクドさんと同じ、ダンスチーフです」
“同じ”――そのひと言が、紅葉の胸をざわめかせた。初めて聞く肩書きであったが、意味はなんとなくわかる。自分が、新月やスピィをまとめていたように、このハロクドという女もまた、グループの中でダンスを牽引する立場にあるのだろう。
だが、“同じ”と括られるのは気に入らない。自分と肩を並べるというのなら、それなりの覚悟と実力を備えているはず――そうでなければ、到底認められない。
「楓です。よろしくお願いします」
紅葉は柔らかな笑みを浮かべ、芸名で挨拶を返す。だが、その瞳の奥では静かな炎が揺れていた。
「普段はどちらでご活動を?」
それは、単なる挨拶の延長ではない。動画投稿をしているか、あるいはコンテストで何度も入賞しているのか。自分と“同じ”とされる以上、相応の活動歴があるはず――そう思っていた。
「活動って、ストリップのほうだよね」
ハロクドの返し方は妙にくだけていて、初対面としてはなれなれしい印象を受ける。紅葉の眉がわずかに動いた。だが、イラつきが表情に出る前にそれを覆い隠したのは、数々の面談の経験といえる。
「“そっち”は、ここだけだよ。他にストリップやれるとこなんて知らないし」
あっけらかんとした口ぶりだったが、紅葉にとってはあまりに無神経に聞こえた。
その空気を、リリザがすぐさま察する。紅葉の苛立ちを感じ取り、そして、それをどうやって拭えばいいのかも、彼女は心得ていた。
「ハロクドさん、身体はナマってませんね?」
軽く問いかけたその声に、ハロクドが即座に反応する。
「もちろん! ダンスはボクの大切な“息抜き”だからねっ」
息抜き――その言葉に、紅葉の眉がまたぴくりと動いた。自分にとってダンスは、ただの表現ではない。生き方そのものであり、戦いだ。軽く“息抜き”などと言われては、心中穏やかではいられない。
「では、踊っていただきましょうか」
リリザの促しに、ハロクドは「うん、いいよ」とあっさり頷く。
さて、どんな曲がかかるのか――紅葉が耳を澄ませていると、リリザのスマホから流れてきたのは、コツコツコツ……と、単調なメトロノーム音。一体何の練習か――紅葉が訝しげに眉をひそめると、四小節目――十六音目の“コツ”に合わせて、ハロクドの身体がキリッと動き始める。その動きは、一見シンプルだが――紅葉には見慣れない揺らぎが見えた。バレエにおけるプリエのようだが、さらにゆったりとした捻りが加えられている。アレンジ……? いや、違う。おそらくハロクドは、誰かに師事したことはない。もしかすると、ダンスというものにほとんど触れたことがないのではなかろうか。それでいて――本能的に『美しく魅せる』ということを理解している。センスの塊――知識と研究で理詰めを重ねてきた紅葉には到底出せないシルエットであり、感嘆に似た畏怖の念を禁じ得ない。
そのうえ、リズム感にも優れ――感情を込めたそのステップは、味気ないメトロノームの上に旋律で彩っているようだ。いや、上半身がメロディだとしたら、その足取りはパーカッション――ひとりですべての楽器を担当するジャズのようにさえ感じる。
さらにそこから、ハロクドは白衣を脱ぎ捨て、中に着ていたジャージの前を開くと、そこからチラリと覗くのは、おそらくカットソー。体育着同然の装いに、紅葉は思う――――それは演出なのか、それともただの普段着なのか。紅葉にはハロクドの“キャラ作り”の方向性がよくわからない。そのジャージを脱ぎ、半袖姿になれば、まさに体育の授業そのものだ。
だが、一つひとつの挙動にブレはない。きっちりと緩急をつけた所作が続いていく。細かく刻まれたビートの後にピタリと止まり、ポーズを決めた。その姿勢は、わかりやすく胸を誇張したり、腰をくねらせたりと、見る者に媚びるような仕草が目立つ。正直、紅葉の好みではない。だが、ここはストリップ劇場である。ゆえに、そうした演出が効果的であることは否定できない。
ズボンを下ろせば、ショーツというより短パン。上下揃って男子の体操服のような色気のなさに、紅葉は思わず首を傾げた。だが、その上からでも乳首のふくらみがわかる。ノーブラか。それを計算してのことであれば、実にあざとい演出である。
さらに、リズムに合わせてシャツを脱ぎ、パンツを滑らせ、タンタンタン……と足音を響かせて腰をストンと落とせば、観客を惹き込む“御開帳”――その体勢に、品はない。だが――その足のラインの美しさに、紅葉はわずかに目を見張る。きっちりとした筋肉の付き方に、日頃の練習量が現れていた。
そして、最後の一手。身体を小さく折り畳み、うずくまることで見せるその曲線は柔らかい。決めポーズとしてしっかりと考えられている。
ここで――リリザの手がスマホに触れ、メトロノームの音が止まった。――沈黙が、場に訪れる。
紅葉は無言のまま、ハロクドを見つめていた。認めたくはないが、確かに“踊れている”――それが、彼女の率直な感想だった。
ハロクドの踊りには、新月やスピィたちには到底出せないものがある。振り付け一つひとつは基礎的で、複雑な技術を使っているわけではない。けれど、その組み合わせ方――展開の妙というべきか、それが絶妙だった。それでいて、どれも基本から少しずつズレている。初心者には真似させられない奔放さがあった。
だが何より印象に残ったのは、間に挟まれる“官能のポーズ”――大胆で、あざとく、露骨。だがそれでいて、目が離せない。ストリップという土俵においてなら、自分の上をいくかもしれない――と紅葉は苦々しくも認める。
「だ、ダンス歴は……長いんですか?」
ようやく絞り出した問いに、ハロクドはあっけらかんと答えた。
「ん~……三、四年かな。研究の合間にちょこちょこ、って感じ」
紅葉の心に一瞬、怒りがよぎる。たったそれだけの年月で――自分の半分にも満たない。だが、ときとして――自分が努力で積み上げた時間を、いとも簡単に越えていく者がいる。そういう“天才肌”の存在はこの世界でも珍しくない。最初は嫉妬もしたが、いまは……もう慣れた。慣れるしかなかった。
それに、ハロクドの踊りはストリップに特化したもの。自分とは、土俵が違う。競う必要はない――そう自分に言い聞かせて、紅葉は深呼吸した。自分はあくまで生粋のダンサーとして、観客の期待に応える。それが責任であり、仕事。いわば“ライスワーク”。生活のためだ。必要以上の感情を介入させることはない。
――土俵が違う。紅葉はもう一度、心の中でその言葉を反芻した。けれど、やはり気になる。ハロクドと“同じ”ダンスチーフとして、もし同じステージに立つことがあったら――いや、ない。おそらくは今後もそれぞれ別々のチームを率いていくだろうから。
だが、初心者ばかりに囲まれて、どこか気が緩んでいた自分に気づいた紅葉は、胸の奥で久々に湧き上がる“対抗心”に気を引き締める思いだった。
さて――おそらく次のステージでは、ハロクドを中心に据えて、カリンたちが踊ることになるのだろう。それは間違いない。しかし――紅葉は改めて舞台を眺めて首をかしげる。
「このステージに……四人も……?」
あの狭い台座のことを思い出す。特に寸劇の後の脱衣パートにおいては、スペースが極端に限られる。三人でさえも窮屈そうだった。そこに四人など、無謀に等しい。
「さすがにそれは無理ですね」
リリザも承知していたようだ。
「やはり、三人が限度でしょう」
彼女は穏やかな声で言うが、それはすなわち、誰かが弾き出されるということ。
「え……?」
思わず紅葉の口から声が漏れる。カリンたちは、三人で構成を考え、方針を決めていたはずだ。そこに急にハロクドが加わるというのである。
しかし――紅葉自身も、察していた。ハロクドが入ることで、舞台が一段と映えるのは間違いない。問題は、“誰が外されるのか”。
ハロクドの踊りには、“自由”があった。テンプレートに頼らず、自分の身体で語りたいように語っている――しかも、あのメトロノームに合わせた構成。極めて柔軟で、どんなジャンルにも応用が利く。今回のテーマであるエアロビ――“体操”に近いジャンルとなれば、それこそ親和性も高い。ハロクドであれば、しっかりと“魅せるストリップ”として成立させるだろう。
「ボクは誰とでもいいけどね」
ハロクドが肩をすくめながら簡単そうに口にする。
「ただ、共同研究には相手の情報を把握しておかなきゃだから」
また“研究”――どうにもツッコミ待ちのような気がして――紅葉はその衝動をどうにか抑える。そもそも何の研究なのか、その説明も一切ない。どうせただのキャラ付けか、さもなくば研究者に扮した引きこもりか何かだろう。そんなものにつきあわされてもキリがない。
そんな空気の中、リリザがにっこりと口を開く。
「では、オーディションとしましょうか」
軽いな口調で放たれたあまりに重いひと言――いや、重く受け止めているのは紅葉だけか。
「ボクが選ぶの? ま、いいけど」
ハロクドは飄々と受け入れる。だが――大変な事態になってしまった。カリンたちから相談を受け、共に振り付けを再検討してきた紅葉にとっては他人事ではない。あのうちの誰かひとりが抜けるとしたら――おそらく、美春になるだろう――モチベーションの差で。しかし、それは気持ちの都合であり、簡単に覆せる。一体自分は、誰を応援し、誰を手助けすればいいのか――長らく自分のことだけで精一杯だった紅葉の思考は、慣れない状況を前にすっかり迷走していた。
オーディションを行うという方針が定まると、次回出演予定だった三人――カリン、あやの、美春にはすぐにその連絡が飛んだらしい。そして、間髪入れずに紅葉のスマホにカリンからメッセージが届く。
『練習つき合って!』
これに、何やら拝んでいるようなアニメーションのスタンプ――さらには青ざめて震えているスタンプまで。なるほど、これは必死さが伝わってくる、と紅葉は妙に感心していた。
とはいえ、紅葉からすれば、深夜から早朝にかけてノクターンで練習するのはいつものことであり、バイトのない日の日課のようなもの。ついでに誰かを見てやるくらいのことなら何の負担にもならない。ただ、ひとつだけ思うことがあるとすれば――『どうせ同じ方向なんだから、一緒の車に乗せていってくれてもいいのに』――もちろん、口には出さないけれども。
ともあれ、その日、紅葉は初めてカリンのダンスを目にすることになったわけだが。
――そもそも、身体が硬い。明らかにストレッチ不足である。基礎の段階で、すでに不安しかなかった。
「ぎ、ぎぇ~……地球人の関節はそこまで曲がるようにはできてないでしょ~!」
単純な前屈でさえ、泣きそうな声を上げてカリンはへたりこむ。
「じゃあ、私はどこ星人よ」
やすやすと手本を見せながら紅葉が呟くと、カリンはへらりと笑って誤魔化す。フィジカル的な観点で見れば、あやのが三人の中ではトップだろう。気持ちの問題で美春が落ちるのでは、と紅葉は予想していたが、こうして見ると実力次第ではカリンが落とされる可能性もある。
「……はぁ、どうしてエアロビなんて言い出したのやら……」
そう紅葉が愚痴をこぼすも、カリンに不安はないらしい。
「だって、カッコイイじゃん~」
そんな能天気なことを言ってはいるが、その“カッコよさ”を体現するためには相応の努力が必要である。これを機に、その一端くらいは知ってもらいたい――そう願いながら、紅葉は黙々と指導を続けていた。
自分のレッスンついでと思っていたが、これは存外骨が折れるかもしれない――そんなことを考えながら、紅葉はペースを落とし気味で付き合っていたが――
「……?」
ここでふいに、舞台の袖から小さな顔がひょっこりと覗く。控えめで申し訳なさそうな表情。背も低く、ツインテールの髪がやけに愛らしい。
「あ、ピーチちゃん」
カリンが手を振る。また新しい踊り娘か、と紅葉は把握した。だが、ここまで話題に挙がっていなかったということは、次回のステージには出演予定がないのだろう。つまり、練習生の中でもさらに練習生ということか。
とはいえ、時刻は夜中の三時過ぎである。終電を逃したにしては遅すぎるし、始発には早すぎる。どうしてこのタイミングで? という疑問は消えない。
嫌疑の目を向けられているのを自覚しているのか、ピーチはステージに踏み込むことなく、少し離れたところから控えめな声でふたりに頼む。
「えーと……ダンスが上手な人が来てるって聞いて……あたしも練習に混ぜてもらって……いいかな?」
その言葉に紅葉は頷きながら、自然と笑みが浮かんでくる。最年少らしきその雰囲気からか、教えたい気持ちも湧いてきた。導いてやれる余地がある、と思わせてくれる存在である。
だが、舞台袖から現れたピーチの姿を見た瞬間、紅葉は愕然とさせられた。――む……胸に……何を入れてんの……? 見間違えを疑うほどの、圧倒的な巨乳。しかも、背は小柄で、そのアンバランスさが際立っている。紅葉の目線あたりにツインテールがあり――おそらく一〇センチ以上は下だ。
この低身長でこの胸――いや、もしかして、背丈に回るはずだった栄養をすべて胸が横取りしてしまったのでは……? あまりのボリュームに、頭が三つあるようにさえ錯覚してしまう。重心が明らかにおかしい。あんな体型で踊れるのか? 歩くだけでも大変だろう。肩をちょっと押せばコロンと転がりそうな印象すらあった。
――ダンスに向いてないから、胸の脂肪を削ぎ落としてから出直してきなさい――そんな言葉が喉まで出かかった。けれど――
「ぴ、ピーチです。よろしくお願いします……」
不安げな目で見上げるその瞳に、紅葉は何も言えなくなった。あぁ、まただ――と、紅葉はふと思い返す。先日、“天賦の才”に出会ったばかりだが、今度は逆に、生まれついての“ダンスに不向きな才能”に出会ってしまったのである。……ああ、“だからストリップ”なのか――そんな、ひどく失礼なことを、紅葉は内心で考えてしまっていた。
しかし――脱げば、たしかに見応えはあるだろう。その巨乳が、ステージの光の下でどう映るのか。観客の反応はどうなるのか。ストリップという舞台が、そうした身体的特徴を“武器”に変える場であることは間違いない。
紅葉の頭の中では様々な思いが巡っているが――自分に求められている立ち位置は『ダンスが上手な人』である。やはり、それは嬉しい。
「じゃあ、一緒にやってみましょうか」
その乳をどうアジャストできるかはわからない。だが、精一杯やってみたいと思わせるキャラクターが、ピーチには備わっているようだ。
さて、どうやらピーチはダンスの基礎については一通り学んできているらしい。関節も柔らかいし、リズムもそこそこに取れている。けれども、問題はその大きすぎる胸だ。ターンすれば静止がブレるし、跳ねればバランスを崩す。すべての動作にわずかに遅れが生じるが、その原因は――言うまでもなく、胸にある。どうしても、踊りたいならその脂肪の塊をどうにかしろ――と紅葉は言いたくてたまらない。
この日は、カリンとピーチのふたりに、紅葉が指導するという形だった。テーマは、例のエアロビ。リズムに合わせて何度も繰り返すステップ、腕の上げ下げ、体幹を支える動作――そのひとつひとつを丁寧に指導していくが、紅葉の目から見れば、もしピーチが今回のハロクドによるオーディションに参加していたとしても、まず選ばれることはないだろうというのが正直な感想だった。
練習も終盤に差し掛かり、カリンが通しで一曲踊っている間、紅葉はその振り付けを監督しながら、ふと思ったことを口にする。
「そんなに焦ることもないと思うけど」
視線は合わせていないが――その言葉はピーチに向けられたものだった。紅葉は、どうしても彼女がこの舞台に適しているとは思えない。
すると、ピーチがぽつりと漏らす。
「でも、夜野さんが……」
「夜野さんって……ここのオーナーの?」
「うん」
思わぬ人物の話題に、紅葉の視線が一瞬だけカリンから外れた。が、すぐに我に返り、通し中の彼女に戻す。あの男のことなど、すっかり忘れていたのに――初めてノクターンに来たとき以来、挨拶さえも交わしたことはなく、紅葉の中で悪印象のまま変わっていない。
ピーチは、少し口ごもるように言葉を続けた。
「ここだけの話なんだけど……夜野さんから、そのー……ビデオに出ないか、って」
「……あぁ」
すぐに紅葉は察した。つまり、AVの話なのだろう。その身体なら、売れる。たしかに、商品価値は高そうだ。
「でも……ね?」
ピーチは、少しだけ残念そうに微笑む。その笑顔に、紅葉にもかすかな同情があった。ストリップ劇場であれば、まだステージと観客の間に隔たりはある。けれども、AVとなれば――
おそらく、ストリップでの実績を残さなければ、そのままそちらの話が本格的に進められてしまうのだろう。それで焦っているのかもしれない。そう考えると、胸を言い訳にできないほど、ピーチの現状は切実なものに感じる。
ちょうどそのとき、カリンのダンスが終わった。
「ど、どうだったかな……?」
汗をぬぐいながら、息を切らしたカリンが問う。
「うーん……言いたいポイントは何点かあるんだけど……」
紅葉は思案しながらそう前置きすると、回答を聞く間もなくカリンが目を輝かせる。
「それじゃ、ファミレス行かない? カリンがご馳走するよっ!」
本当に、金持ちムーブだなぁ、と紅葉は呆れ半分で心の中でつぶやいた。けれど、正直助かる、という本音は偽れない。おそらく、カリンの中では『奢らないと紅葉は渋る』と思われているのだろう。実際、ファミレスのメニューは高い。下手をすれば、一食で自分の三食分に相当してしまう。
紅葉は何も言わなかった。だが、その無言を“合意”と見なしたカリンは、すぐにピーチの方へ顔を向けて、「ピーチちゃんも来る?」と声をかける。
だが、ピーチはちょっと困ったような顔をして、
「んー……あたし、このあと高校があるから……」
その言葉に、紅葉の心はざわついていく。――高校。自分が通うことのできなかった場所。深夜に働き、昼間に眠る生活を繰り返すうち、その手の人種とは無縁の生活を送ることができるようになっていた。それでも、久々に“高校”という言葉を聞いたことで、胸の内側をざらりと撫でつけられたような妬ましさが湧きあがる。
だからこそ、ピーチが朝食の席――ファミレスの食事の輪から自ら外れてくれたことに、紅葉は内心ほっとする。――いや、その場に居てほしくなかった、というより――いまの紅葉にとって、ピーチの“普通の生活”が、あまりに眩しすぎたのかもしれない。
というわけで、紅葉は――こんな早朝でも開けてくれているファミレス『ファメリア』にて優雅なモーニングにありついていた。配膳ロボットで運ばれてきたのは、こんがりと焼かれたトーストにスクランブルエッグ、ベーコン、サラダにヨーグルトのついたプレート。湯気を立てるコーヒーが香ばしい。決して自分の財布からは出せない贅沢品である。けれども、それらはすべてカリンの奢りだ。紅葉は、バターがじゅわりと染みたトーストを噛み締めながら思う。――自腹では得られない味覚を満喫しなくては、と。
そんな紅葉の感動をよそに、店内は静かだった。始発の時間が過ぎたせいか、深夜の賑わいよりも落ち着いている。新歌舞伎町という夜の街の性質上、朝方のほうが人影はまばらだ。明るい窓際の席には、寝落ちしてしまったタクシー運転手と思しき男性や、新聞を広げる年配のサラリーマンがぽつりぽつりと座っているだけ。妙に眩しい店の照明が、妙に場違いながらも紅葉に安心感をもたらしてくれる。
向かいの席では、カリンがナイフとフォークで器用にソーセージを切っていた。彼女のダンスについて、紅葉としては言いたいことが山ほどある。そもそも関節の硬さから、一つひとつの動きに対して重心が不安定だ。正直、基礎から押さえ直したほうがいい。だが、それをそのまま口にしたところでやる気を削ぐだけ。細かい欠点は脇に置き、いまは目前のオーディションに向けて効果がありそうなポイントに絞ってアドバイスした……つもりだったのだが。
「ふぇ~ん……どうしよう……せっかくのステージなのに~……」
カリンはいまにも泣きそうな声で肩を落とす。その気持ちは、数々の落選を繰り返してきた紅葉には痛いほどよくわかるが、どうにもならないこともわかっていた。
「この際、ハロクドさんが出てこなければ、色々丸く収まったかもですけどねー……」
たしかに、ステージの完成度を第一に考えるのであれば、あれだけの個性と技術は無視できない。が、客がそれを求めているのだろうか? 結局のところ、仲間内で楽しく踊っているほうが、みんな幸せだったのでは――そんな本音がつい口を突いて出る。
だが、カリンがそんな――“紅葉らしからぬぼやき”を真に受けることはない。
「ハロクドさんはねー……いつもどこにいるかわからないから」
「地下、でしたっけ」
「それはそうなんだけど」
紅葉の茶化した回答に、カリンはくすりと笑ってそれに返した。どうやらハロクドは、カリンを含めた全員に対して『地底人キャラ』で通しているらしい。
「気が向いたときだけ出演る、ってことで、踊り娘やってるみたいだよー」
なんと気楽な働き方か、と紅葉は内心ため息をつく。仮に、あまりの多忙さに『地下』とやらで事実上の軟禁生活を送っていたとしても――それだけ仕事があれば、貯金には困っていないのだろう。実力だけなら自分と大差ない。だが、同じ働き方をしようと思っても、自分には“本業”がない。何から何まで、自分とは別次元――ここまでくると、もはや羨む気も湧いてこない。
「それにしても……こんなにみんな出演たがってるのなら、もっと開催頻度を増やしてもらいたいものですけど」
紅葉が何気なく提案すると、カリンは首を横に振る。
「出演たがる女のコがいても、お客さんのほうがねー……」
「そうなんです?」
スケベな男なんていくらでもいるだろうに――と紅葉は首を傾げたが、すぐに気づいた。確かに、本気でいやらしい目的なら、もっと“直接的な店”に行くだろう。それは、このライブハウスに所属するときから抱いていた疑問――『もしかしたら、あえて』……などと逆転の発想で自分を納得させようとしていたが、現実はもっと素直でわかりやすかったらしい。
だが、あえて、だからこそ。
そんなご時世でも“あえて”ストリップ・ショーを見に来る観客というのは、ダンスや演出に少なからぬ関心を持っているといえるのかもしれない。変な意味で――紅葉はライブハウスにやってくる男たちを見直していた。が、我ながら変な発想だ、と思い返し――静かにコーヒーを一口すする。
「けど、だったら……なんでこの時代にストリップ?」
朝食の余韻が残るファミレスのテーブルを前に紅葉がぽつりと漏らしたことで、その疑問の大きさに改めて気がついた。
それは、紅葉が生まれるよりさらに前のこと。いまから約三〇年前に起こった制度改革――そこから始まり、現在に至るまで続いている『自己責任社会』と呼ばれる何でもアリな風潮。それを機に、かつて規制されていた過激な性風俗が一気に表舞台へと返り咲いたと聞いた覚えがあった。
旧き時代の中で廃れていた歌舞伎町を“新”歌舞伎町として再起させたのも、その流れの中のひとつである。けれども、いまどきストリップなんて――やはり、時代錯誤だったのだろう、と紅葉は我がことながら冷めていた。
口の端にコーヒーカップを運ぶカリンの眼差しは、どことなく優しい。
「んー……カリンも詳しいわけじゃないんだけどね」
と、前置きを入れつつ、思い出すように言葉を続ける。
「ちょっと前まで、結構流行ってたストリップ劇場があったんだって」
「新歌舞伎町に?」
「うん」
この街で一時でもブームを起こしたというなら、経営者の手腕は並ではなかったに違いない――少し感心しかけたが、カリンの次の言葉で即座に落胆する。
「けど、突然取り潰しに遭って」
「ああ」
やっぱり、と紅葉は眉をひそめるしかない。結局、そんなものなのだ。煌びやかに見えた舞台の裏には、結局ロクでもない“仕掛け”があったのだろうと容易に想像がつく。
だというのに。
「それで、夜野さん……いわゆる二匹目のドジョウを狙おうとしてるみたいで」
カリンが肩をすくめて笑う。紅葉も思わず鼻で笑った。ショーは流行り廃りの人気商売である。後発で先行例をなぞったところで、むしろ大失敗しそうなものだが。特に、“何が原因で潰されたのか”――その内幕に無関心なまま再挑戦するなど、無謀とすらいえる。
「表ではストリップ劇場やりながら、裏では違法なAVを撮ってたとか?」
紅葉の言葉に、カリンは「うーん……ありそう」と頷く。確かに、そんな手段でも使わなければ、儲けの出ないストリップ劇場を維持するのは難しい。ピーチから聞いた話もある――人目のつかないところでは、やはり何かしらの“汚れた事情”が動いているのだ。
「いまのライブハウスでも……あんまりグズグズしてるとソープに流されるって噂もあって」
カリンの口ぶりだと、ピーチから聞いたわけではないようだ。つまり、まことしやかにささやかれる公然の秘密――もしかすると、夜野はそこまで見越してストリップ事業を興したのかも――そう考えると紅葉は、ダンスに釣られて気づけば地雷原に足を踏み入れてしまったのかもしれない、と背筋を凍らせる。
だが、それでも――あのステージは“楽しかった”。
「それで、リリザさんは出演の機会を均等にしようと……?」
紅葉の問いは、あくまで善意的な推測にすぎない。だが、出番を減らされた者が“別の店”に回される……そんなリスクを抑えるためだとしたら、リリザの采配には筋が通っている。
「それは、わからないけれど」
と、カリンは言葉を選ぶように答えつつも、彼女の選択は決まっていた。
「カリンはもっと、“ストリップ”のステージで踊っていきたいから」
まっすぐな瞳で語るその姿に、紅葉は無言で頷く。できれば自分は――脱がずに踊りたい。けれども、それは口にしない。黙って同調したフリをする。そんなの、カリンにはきっと見抜かれている。
それでも、それでも――カリンなら見抜いてくれていい。
紅葉は、そう思えるくらいには彼女を信頼していた。




