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理解の及ばない領域

 本名が『紅葉(もみじ)』だから『(かえで)』――これでは、花梨のことは言えないな、紅葉は苦笑する。だが、せっかく“仕事”として踊るのだから、プライベートで配信している自身のダンス動画にもつなげたい。……もちろん、ストリップとつなげることには少なからず抵抗はあった。しかし、劇場のほうは撮影や配信をしているわけではない。“そういうの”が見たければ劇場に来てくれ――という形で宣伝にもなるだろう。

 しかし、何よりも嬉しかったのは、“仕事として”踊れるということ――もちろん、有償のダンス動画も配信している。だが――このライブハウスのワンステージで、これまでの収益を上回ることだろう。だからといって、決してここの出演料が高額なわけでもないのだが。

 それでも、例の接写希望者には『今はそういうのはやっていない』――あくまで、“今は”――今後はどうなるかわからない。警戒を解くことはできない。それでも――不本意な依頼をひとつ断ることができたことに、紅葉は自分で自分の人生を歩いている手応えのようなものを感じていた。


 さて、リリザから改めて話を聞いてみると、花梨からも聞いていたように『ノクターン』にストリップが取り入れられたのは、ごく最近のことらしい。出演者も、紅葉やリリザのようなステージ慣れした人間ばかりではなく、これから始める初心者も多く含まれているという。

 だからこそ――紅葉には、ある任務を託された。

『ふたりの新人を従え、ステージを盛り上げてほしい』

 それが、リリザからの正式なオファーだった。しかも、脱ぐ必要はないという。冒頭のダンスパートと、寸劇の前半だけ。後半の脱衣シーンについては、その新人ふたりだけで披露する形で良いとのことだ。

 つまり、紅葉にとっては、まぎれもなく“純粋なダンスの舞台”である。

 ――まさか、ストリップ劇場で夢のような仕事がもらえるなんて。

 身に余る感激。戸惑いと驚き。紅葉の心は、否応なく昂っていた。

 しかし問題もある。時間だ。本番は、たった一週間後。ラストのパートは参加しないとはいえ、最後はお前らで勝手に脱げばいい――と無関心でいられるほど身勝手でもない。

 だから翌日、紅葉は早速リリザに段取りを頼み、新人ふたりとの緊急ミーティングをノクターンで開くこととなった。時刻は夕方――紅葉にとっては“早起き”に相当する時間帯である。

 紹介されたのは――それぞれスピィと新月(まどか)という芸名らしい。スピィはすらりとした体躯で、どこか舞台映えする派手さを備えていた。衣装も髪型もごくシンプルで、胸元のボリュームはありそうだが、過度に強調されていない。飾り気のない巻き髪をラフにまとめ、メイクも最小限にとどめている。靴もローヒールで、歩きやすさを優先したものだ。それでも、立っているだけで周囲の空気を変えるような華やかさがある。

 対する新月は見るからに小柄で、どこか幼さの残る雰囲気を纏っていた。前髪はぱっつんと切り揃え、後ろは高めの位置でツインテールに結い、その毛先はくるんと内側に巻かれている。ふわりとしたニットワンピースに身を包み、表情は柔らかく、人懐っこい笑みを浮かべながらも、その瞳には妙な挑発めいた光が宿っていた。寒い一月にしては広く開けている襟元も、どこか“見せること”に対する躊躇のなさを物語っているようでもある。

 しかし――試しに軽く踊ってみてもらった瞬間、紅葉の背中に冷たい汗がにじむ――これは、マズイ。学生が踊るショート動画に毛が生えた程度のレベルであり、これでお金をもらうのは……ああ、主な収入源は裸体のほうだったか――と、つい甘えそうになる。だが、それは紅葉自身の商業的価値を全否定することに他ならない。

 ゆえに、性的な要素はふたりに任せるとして、紅葉はあくまでダンサーとして最善を尽くすと決めた。手っ取り早いのは……彼女たちには“彩り要員”として後ろで当たり障りなくリズムを取ってもらい、自分がメインを張ることだが――そのような提案ができるほど紅葉に図太い精神は備わっていない。どうにかして、ふたりにも最大限にダンスを魅せてもらいたいと努めているにも関わらず――

「えーっ、最初は“脱がない”の!?」

 新月が、まるでがっかりしたように声を上げた。

「てっきり、最初から裸で踊るものだと思っていましたのに……」

 続くスピィの言葉にも紅葉は耳を疑う。……なんで、残念そうなの、アンタたち。この場に漂う冗談のようで真面目な空気を、紅葉はまったく理解できなかった。

 理解はできないが、思い出す。……ああ、そういえば、ここは“ストリップ劇場”だったか。そもそも、露出することに憧れを持つ者が集まる場所なのだろう。女としては“異端”だとしても、ここでは自分のほうが“異端”であることを改めて思い知らされる。

 けれど、こんなことで心を乱されるわけにはいかない。『内には、すべての不安を押し留め、外には、ただ踊るだけ』――動揺や葛藤は見せないように努め、粛々と決めるべきことを決めなくてはならない。

 紅葉は大きく深呼吸して、気を落ち着かせる。ノクターンの控室には、香水とリップグロスの混じった、甘く柔らかな残り香が漂っていた。壁際には姿見が置かれ、端正な鏡面がこちらを見返してくる。そこに、三人はパイプ椅子に腰を下ろしていた。

「まずは、コンセプトから詰めていきたいんですけど……」

 自己紹介とか、そういうのは紅葉の柄ではない。意見を出し合う中で見えてくる個性があるはず――そう考えていたものの――ふたりから紅葉の言葉に続くものがない。方向を変えたほうがいいか――紅葉は少し発想を柔らかくして尋ねてみる。

「どんな衣装を着たいか、希望はありますか?」

 その問いに、即座に答えたのは新月だった。瞳を輝かせ、まるで待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。

「それはもちろん、セクシーランジェリーですよー!」

 声の調子が弾んでいる。だが、その提案は紅葉の期待する方向性ではない。

「それは、脱いだ後ですので、その上に着る服をお願いします」

 紅葉の返答は素っ気ない。新月は唇を尖らせて小さく「うーん」と唸った後、あっけらかんと笑う。

「それはお任せでいいかなぁ」

 一転してこのやる気のなさである。これにはさすがの紅葉も返す言葉が見つからない。ため息をひとつ吐き、もうひとりの参加者に目を向ける。

「では、スピィさんは?」

 スピィは真面目な表情で短く考え込み、そしてポツリと答える。

「……ストリップとは、裸で踊るショーだと伺ったのですが」

 誰からよ――紅葉は思わずツッコミかけたが、その言葉は飲み込んでおく。ここで無駄に相手を刺激するのは得策ではない。

「最終的に裸になるだけで、脱いでいくショーがストリップです」

 紅葉は冷静に説明した。客のニーズを考えれば、スピィの考えのほうが正解かもしれないが、彼女自身がそれに従う理由はない。自分はあくまで、ダンサーとしてやるべきことをやるだけだ。

 スピィはというと、姿勢を崩すことなく、まっすぐ紅葉と向き合う。その眼差しに、どこか無邪気な強さがあった。加えて、彼女はどう見ても豊満な胸の持ち主である。そこに紅葉は、つい妙な邪推をしてしまう。まさかとは思うけど……この人、もしかして……見せたくて仕方ない露出狂なの?

 だが、口に出すのは当然やめて、代わりにこう助言する。

「ブラを着けたほうが、シルエットも綺麗に見えますよ」

「でしょうね」

 スピィはすぐに頷く。しかし。

「けど――」

 どこまでも真剣な面持ちのままで。

「――それってズルくないですか?」

「は?」

 思いも寄らない切り返しに、紅葉の口から間抜けた息が漏れる。

「だってそれって、いい下着を持っている人ほど、いいラインを見せられるってことじゃないですか」

 スピィの声はまっすぐだった。それが単なる妬みやコンプレックスではなく、彼女なりの正義感から来ていると、紅葉にも伝わる。確かに、下着や衣装で見せ方に差が出るのは事実だ。だが、演出とはそういうものだと割り切っている紅葉にとって、その感覚はどこか子どもじみて感じられる。

 スピィの思いはあふれ出し――言わずにはいられない――そんな面持ちで語り始めた。

「私……昔、お金がなくて、ちゃんとした運動靴を買えなかったんです」

「はぁ」

 話は思いがけない方向へ展開してしまったので、紅葉はつまらなそうに相槌を打つ。だが、スピィはそんな反応にも構わず、静かに話を続けていた。

「それで、運動会で……いい靴を履いてる子がビュンビュン走って……悔しくて、たまらなくて……」

 そのときの思いは、いまも彼女の中で燻っているのだろう。スピィの声には熱がこもっていた。言葉を遮ることができず、紅葉は沈黙する。小学生の頃の話をいまだにひきずっていることに紅葉は呆れるが、スピィにとっては、いまなお生きた記憶なのだろう。

「……あの日、裸足で走っていたら、私のほうが速かったんです!」

 紅葉は、スピィの靴がレース中に脱げた情景を思い浮かべていた。もし、それが現実にあったのだとすれば、少しだけ同情の気持ちが芽生えないこともない。

 ひとしきり語ったところで、スピィは遠くを見るように呟く。

「そう考えると……スポーツって、一体何なんでしょうね……」

「はぁ……」

 主語がいよいよ大きくなってきたので、紅葉はついに興味を失った。

「国際大会なんて、もはや装備の開発合戦じゃないですか」

 控室の空気が、スピィの強い語調でピリリと締まる。すらりと背の高い体躯に豊かな胸元、存在感あるその容姿とは裏腹に、彼女の声はどこか真っ直ぐで、無垢で純粋な熱を帯びていた。

「そ、それは……」

 スピィの熱量に押されたからか、紅葉はどこか納得し始めている。ある程度以上の技量が拮抗している世界では、道具の違いが結果に直結するものだ。たとえば、動画の撮影にハイスペックなドローンを、撮影した動画に編集ソフトを用いれば、もっと多くの人に、もっと魅力的に、ダンスを届けられる。

 だからこそ、紅葉には、スピィの叫びがただの愚痴ではなく、真っ当な叫びに聞こえた。

「ですから、ストリップも――裸ひとつで勝負するべきなんです!」

 拳を握りしめてスピィはそう断言した。彼女の言葉には勢い、そしてある種の正当性が感じられる。

 だとしても。

「いえ、ですから……ストリップっていうのは、“脱いでいく”ダンスなんです。最初から裸では脱ぐものがありません」

 紅葉が自分の姿勢を崩すことはない。

「……それは、盲点でした……」

 こんなことで落ち込まれたところで、紅葉にはかける言葉がない。ただ、物わかりはいいようで、そこだけは安堵することができた。拍子抜けしていた紅葉の代わりに、新月が慰めの眼差しを向ける。

「じゃあさ、脱ぎ終わってからが勝負、って思えばいいんじゃないです?」

 そんな都合のいいことを……と、紅葉は呆れるが。

「……そうですね! そういうことなら、負けませんよ!」

 スピィの目がキラキラと輝く。紅葉には、ふたりの意気投合の理由がまるでわからない。が、その勢いに付き合う気もなかった。どうせ、自分は脱がないステージに立つのだし。裸の勝負は、おふたりでどうぞ――そんな皮肉は胸のうちにしまいこみ、紅葉は次のステップへ進めることにした。

 ここまでのふたりの発言から、ダンスにも衣装にもあまり関心がないことは明らかである。ならば、自分が主導で進めてもよいのだろう。そういうことであれば……と、紅葉は独断で方針をサクサクと決めていく。そこに異論が出ることもない。

 曲は『温泉むすめ』というアイドル・ユニットの『お湯のまにまに』とした。ちょうど三人組だし、銭湯というテーマもストリップと親和性がある。明るくて、ほんのりとした色気もある曲だ。

 アイドル三人のうちのひとり――『にごり』という名のメンバーが、とんでもなくダンスが上手い。紅葉はそのパートを担当するつもりだ。問題は残るふたり――新月とスピィのスキルが、あまりにも及ばない。かといって、ふたりのレベルまで自分の振り付けを落とすことなど、念願の舞台を前に紅葉には耐えられない。

 だが。

 ふたりの実力が急変することもないし、あとは自分で工夫するだけか、と開き直ることにした。それより、問題は後編の“寸劇”である。歌入りのミュージカルは到底無理だ。台詞の掛け合いすら危うい。紅葉自身も人のことはいえないが、それでも、三人揃ってセリフ劇をやるには荷が重すぎる。

 ということで、パントマイムに落ち着いたのだが。

「はいはいはーい! 温泉“脱衣”卓球~!」

 新月による提案がいきなりこれだ。

「脱衣は余計ですよ」

「ですよねぇ」

 紅葉のツッコミにスピィも頷いてはいるが。

「ちなみに、最初から脱いどけって意味じゃないですから」

「えっ!?」

 紅葉の念押しに、スピィが真顔で反応。そこ、驚くところじゃないでしょ……あまりの噛み合わなさに、紅葉は内心で顔を覆いたくなってきた。脱ぐのは“寸劇”の最後のパートのみ――この説明、何度目だ――と紅葉は悲しくなってくるが、ようやく理解してもらえたようで、納得した様子で頷いてくれた。

「じゃあ、まずは“脱衣パート”から考えましょうよ~!」

 新月が目を輝かせてそう言うと、紅葉はにっこりと笑って、

「そこは、おふたりでお願いします」

 と、きっぱり断った。はっきり言えば、“脱衣パート”を軸に“寸劇全体”を構築して演じきれるほどの実力など、自分たちにはない。そう断言できる。リリザくらいの演技力があれば対応できるのかもしれないが――改めて思い出しても、あの寸劇パートはしっかりした。

 ただし――前編のダンスと後編の寸劇で内容に一貫性がなかったのが悔やまれる。だからこそ――全編通してテーマ性を設けたい――そのほうが観る側の印象にも残りやすいだろう。

 ここではさまざまな案が飛び出したが、結局、ストーリーは『女湯側から男湯を覗こうとする』というネタに落ち着いた。紅葉としては、そんなものを覗きたいと思ったことなどない。しかし、別の意見を出したところですり合わせられる気がしなかった。脚本は任せるから、前半のダンスパートは自分の好きにさせてほしい――そんな暗黙の了解を込めて、紅葉は新月の案を渋々飲んだ。

 だが、問題はそれだけに留まらない。

 方向性が定まり、その日のミーティングはお開きとなった。紅葉はダンスを、新月はパントマイムを。本番当日までにブラッシュアップは必要だとしても――お互い、事実上一晩で叩き台を作り上げてきた。

 時間もないので、三人は早急に練習を始める。ミーティングの翌日から――始発合わせのような早い時間だというのに、文句も言わず、休まず参加してくれることはありがたい。

 しかし、練習中――ところどころで紅葉の眉が釣り上がる。

「……えーと、新月さん、いまのは?」

 上体がブレた、というより、明らかに意図的に大きく反らしている。

「え? ほら、ここで胸チラ入れたら、お客さん喜ぶかなー……とか」

 こんな感じで、妙なアレンジを入れてくる。

「それはいいんですけど、そこからのターンが遅れるとチーム全体としてのバランスが崩れますので」

 ……そういうことは、基本を押さえてからやってくれ……! と思いながらも、紅葉は口に出さない。空気を悪くしたくないから。そのうえで、提案がダンスの流れを大きく阻害しないのであれば、できる限り取り入れていく。

 しかし、そうこうしているうちに、ついに週末へと差し掛かってしまった。明ければ月曜日を挟んで本番である。日数の少なさを実感し、紅葉の焦りも否応なしに大きくなってきた。

 それで、つい。

「……なんでそんな変なことしたがるんです?」

 まさに直球――日曜日の練習中、無駄にお尻のところをめくろうとする新月に、紅葉は思わず本音をこぼしてしまった。

 しかし、新月は――ニヤリと笑い、臆せず返す。

「だって……“面白い”じゃないですか」

「はぁ」

 何ひとつ共感の余地がなく、紅葉は完全に塩対応である。それでも新月にはまったく気にしている様子はない。

「男たちが私たちの身体にガッツいて……それを、安全な場所から眺めながら、刺激だけ提供してあげるんですよ。手の届かないところで焦らして、ちょっとだけ夢見させて……。他にそんなWin-Winな舞台、他になくないです?」

「……はぁ」

 紅葉は塩対応を繰り返す。理解できないというより、理解する気力が湧いてこない。少なくとも、紅葉にとって人前で脱ぐことにWinの要素は皆無だ。無表情を保っているつもりでも、目元がわずかに引きつっているのが自分でもわかる。

 だが、新月は飄々と、まるで独白のように話し続けた。

「ま、もちろん、ヘタクソに犯されたりするのはごめんですよ? そういうんじゃなくて……ギリギリのところで止められてるから、ちょうどいい、というか」

 何がちょうどいいのか、紅葉には意味がわからない。ゆえに、現実を口にする。

「……あの男たち、女なら誰でも良さそうですけど」

 そんな連中に自分の身体を披露することは、紅葉にとって極めて屈辱だった。金のためだと割り切っていても、胸の奥底から嫌悪がこみあげてくる。そこにどんな意味を込めようとも、見られているのは“表現”ではなく、ただの“裸”という記号だけ――それが、堪らなく腹立たしかった。

 しかし新月は、やはり軽やかに受け流す。

「ま、ね」

 と頷いたうえで、さらりと続けた。

「でも、脱ぐのが男じゃダメなわけでしょ?」

 予想外の観点に――紅葉は思わず言葉を失う。

「それに、女が男の裸見て、同じくらい楽しめるかって言うと……そこまでじゃあないですよね?」

 紅葉は、演出としての官能は理解していても、単なる露出に芸術的な価値を見出したことはない。だが、これが男女逆だと、商業的な価値すら見出されない――この人……案外、色々と考えてるんだな――ふざけているようで、冷静に男女関係の構造を見つめている――そのバランス感覚のようなものに、紅葉は少し驚かされた。

 新月は腕を組み、ふんわりと笑う。

「こういう楽しみ方って、女ならではー、だと思うんですよねー」

 その言葉には、妙な説得力があった。同意は、できない。けれど――紅葉は思う。自分にはまだ、その域に達する余裕も感性もない。ただ、そんなふうに前向きに、積極的に、ステージに立とうとしている新月の後ろめたさのない真っ直ぐな眼差しがどこか眩しく見えて――少しだけ、羨ましかった。それは、悔しさに似た、小さな敗北感、といえるのかもしれない。


 そして火曜日――いよいよ本番のステージの日がやってきた。観客で賑わうライブハウスの空間は、開演前から期待と熱気に満ちている。舞台袖で紅葉は浴衣の襟元を気にしながら深く息を吐いた。緊張ではない。ただ、心が少しばかりざわつく。やはり――自分は脱がないにせよ、これがストリップの舞台であることには違いないのだから。照明が落ち、観客が静まり返ったその刹那、ステージに明かりが灯った。もう引き返すことはできない。

 前編は、銭湯むすめにちなんだ浴衣ダンス。とはいえ、完全なコピーではない。これまで彼女たちが身につけてきたダンススキルに、盆踊り風の雅な要素を取り入れたアレンジ版。和とポップが融合したその踊りは、まるで夏の夜に咲く打ち上げ花火のように華やかで、一気に観客の目を引いた。

 踊りながら、紅葉は心の中でカリンに感謝する。この場に導いてくれたおかげで、こうして――自分のダンスを提供できるのだと。

 ――ただし。

 ふと、視界の端で――新月が振り返ったとき、襟元からちらりと覗いた胸元に、観客の視線が吸い寄せられているのに気づいてしまった。――あのコ、こんな大切な舞台で余計なことを――! 紅葉は踊りのフォーメーションを維持しながらも、小さく舌打ちする。

 そして――

 後編は、歌ではなく、ミュージカルパート――といえば聞こえはいいが、やってることはコントに近い。バックで流れるBGMに合わせて、リズミカルにわざとらしく身体を動かして演じることで、芝居にテンポを加えよう、という目論見だ。セリフは一切ない。だが、それでも物語はちゃんと伝わったようだ。これもまた新月の脚本力の賜物だろう。間の取り方や仕草の一つひとつに感情が宿っていた。

 観客席からは自然と笑いや手拍子が起き、ステージと客席が一体となる瞬間を、紅葉はたしかに感じている。次は、声優さんにアテレコしてもらったら面白いかもね。もちろん、劇場のお金で――紅葉はふとそんなことを考えながら、自分のパートを終えると、舞台袖へと引き下がった。

 そしてその後は――紅葉にとってノータッチの部分。だから本来、関わる必要はない。

 けれど――無視するのも、ちょっと違うか――後ろ手にタオルで汗を拭きながら、紅葉は舞台の端からそっと様子を窺う。

 ボーカルのないカラオケ音源に合わせて踊る新月とスピィ。曲はまた銭湯むすめ関連のもので、耳馴染みのあるメロディが流れていた。そこに乗せられるはずの歌詞はない。やはり、このパートはそのほうが良いのだろう。観客の視線は、否応なくふたりのパフォーマンスへと集中していた。

 新月は、襟元を弄るようにして、ブラのストラップを見せたり隠したり。明らかなる“焦らし”。一方、スピィはといえば、相変わらず何も脱がず、浴衣のままで様々な立ちポーズを決めている。それを、紅葉は――そうやって足を開くなら、つま先の角度を考えないと……! ――教え子を見守るコーチのような面持ちで見守っていた。

 だが、ついに新月がショーツを脱いだ瞬間、客席からどよめきと歓声が上がる。それで、紅葉の中にあった温かな気持ちが一気に吹き飛ばされ、現実に戻された。あぁ……結局、男どものみたいものはこれなのだと。

 しかし、ここで。

 スピィが、音も立てずに自身の帯に手をかける。するすると解かれていく浴衣。何かを決意したように背筋を伸ばしたスピィの身体から布が落ちた瞬間――会場の熱気は一気に膨れ上がる。――中に何も着ていない――その一枚を剥いただけで、ステージの光が彼女のすべてを神秘的に照らす。そして、台座の上に立ったふたりは、足を上げ、腰をひねり、くまなく魅せながら堂々と踊っていた。

 その光景を見つめながら、紅葉は思う。――どうして、あのふたりはあんなにも楽しそうに脱げるのか。あれほど堂々と、舞台で肌を見せることに迷いがないなんて――紅葉には到底、理解できない感性だった。理解したいとも思えないけれど。


 こうして、『ノクターン』の“楓”としての初めてのステージが終わった。それは、あっけないほど静かな幕引きだったといえる。もっと高揚感があるかと思っていた。達成感、充足感、そんな美辞麗句に彩られる感情が自分の中に溢れるのではないか――紅葉はどこかで期待していた。けれど、胸には別の感情が燻っている。

 たしかに、観客たちの拍手や歓声は嬉しかった。互いに見せたいもの、見たいものが食い違っているのは承知しているので――あくまで、それなりに、ともいえるかもしれないけれど。だが、それ以上に彼女の内側に渦巻いていたのは、次への焦りと、不確かな立場への不安だった。

 このステージが、次へとつながる確信があればいい。けれど――紅葉は知っている。どれだけ踊っても、どれだけ喜ばれても、『一度きり』で終わってしまうのが常なのだと。紅葉とてオーディションに受かったことが、なかったわけではない。けれど、そこから新たな日々が始まることはなかった。努力も誠意も報われない――それが、何度も身をもって味わってきた現実である。

 ここで“踊り続ける”こと――その実感が、まだ得られていない。それがもどかしくて、紅葉はただただ祈っていた。次も、ステージがありますように――と。

 一方で――どうやらカリンは“男性側”から紅葉たちの舞台を見ていたらしい。そのほうが、本来の観方だから、と。もっさりとした男の群衆の中のキラキラ女子――きっと、ものすごく浮いていただろうな、と紅葉は思う。だが、それはいい。紅葉にとって、きちんと自分の意図を汲み取ってくれる人間のほうが、真の観客なのだから。

『次、カリンたちがステージに出るので、ぜひ相談に乗ってほしいです』――続けて、ウサギのキャラクターがぴょこんと手を合わせるスタンプが添えられていた。そのひと手間に、紅葉としては苦笑というか、恐縮さえしてしまう。いずれにせよ、花梨にはチャンスを与えてもらった。無下になど、できるわけがない。

 前のステージから次のステージまでの一週間がどれだけ貴重か、紅葉はその身をもって知っている。ということで、早速翌日。集合場所は、新歌舞伎町の奥まったところにあるファミレス『ファメリア』だった。夕方という時間は、例によって紅葉にとっては“早起き”に相当する。同じく深夜バイトの花梨も似たような生活サイクルのはずだが、他のふたりに合わせたのだろう。

 新歌舞伎町には何軒かファミレスがある。その中でも、このファメリアは駅からやや離れた一画にあった。繁華街の喧騒から少し外れたその場所は、どこか裏路地めいた空気をまとっており、暗い。だが、そんな中でも、チェーン店としての明るさだけは妙に保たれていて、不自然なほどに浮き上がって見えた。

 紅葉は、うっかり自分が一番乗りになってしまい、次に来た初対面の相手とふたりきりで待つ――その状況を避けたいがために、時間ギリギリに店へと足を踏み入れる。

「……やっぱり先に来てるか」

 店内を見渡せば、暇を持て余している学生や、タブレットを広げて何やら作業をしている若い社会人、ひとりで遅めの昼食だか早めの夕食だかを取っている中年男性などがぽつぽつと席に点在している。日が傾き始めた店内には、ほどよい喧騒と疲労感が漂っていた。

 スマホのチャットルームには『窓際の席です』とあったので、そこへ視線をやると、女ふたり組のボックス席が目に入る。テーブルにはカップがふたつだけ。すでにドリンクバーを堪能しているようだ。

 一見してすぐ目を引いたのは、この季節にノースリーブでへそ出しのトップスを着た女のほう。冬の装いとは到底思えない格好だが、紅葉はすぐに気づいた。肩のラインが異様にシャープで、筋肉の付き方に無駄がない。明らかに運動をしている身体だ。

「……アスリート?」

 ならば、少なくとも体力的な問題はないのだろう、と紅葉はそこに期待する。

 紅葉が席に近づくと――アスリートの彼女はバッと席を立ち、深々と頭を下げた。一瞬で視線が上がる。立ち上がった彼女の体躯は、他のメンバーより一回り大きく、まるで舞台のセンターに立つダンサーのような存在感を放っている。

「あっ、楓さん……ですよね……っ。はじめまして! わたし……あやの……と、いいます……」

 最初こそキビキビしていたが、語尾がだんだん小さくなっていく。その様子に、紅葉は不安になっていた。そんな弱気なことで、ストリップなどできるのだろうかと。それに何より――『楓』――源氏名で呼ばれるのに慣れていない。ダンス動画配信のほうだって、コメントをもらったことなどここ数年ないのだから。ゆえに、そちらの名としてはさほど愛着などない。もしかすると、この先、『楓』はストリッパーとしての名として侵食されるのか――侵食されるほど仕事をもらえればいいが――そんなことのほうに、思考が引っ張られていた。

 一方――もうひとりの女性は、対象的に口数も挙動も少ない。

「……私は、美春(みはる)

 紅葉が目を向けると、美春は淡々とジャージの裾を引き直した。どうやらレッスン帰りのようで、上下ともにスポーツウェア。髪はコンパクトにまとめられたショートボブ。洗練というよりは実用的、といった印象だった。……まあ、喋らなくて済むなら、それに越したことないけど――無愛想とも受け取れる態度も、紅葉にとってはむしろ気を使わずに済むので楽だった。

 席に着いた紅葉は、スマホを確認する。花梨からは既にメッセージが入っていた。

『ちょっと遅れます~』

 ――やっぱりか。花梨の遅刻はもはや予定調和である。かといって、待ち合わせ場所を変更する様子もない。仕方ない、と紅葉は観念し、ドリンクバーを注文することにした。

 ということで、飲み物を取りに行っている間はひとまず席を外すことができる。ティーバックを選ぶタイプの紅茶であれば、さらにもう少し。席に戻れば、初対面のふたりが待っている。こんなことなら、外で花梨と待ち合わせて一緒に入店すれば良かった――カップにお湯を注ぎながら、紅葉はそんな後悔とともに顔見知りの到着を待ちわびていた。

 しかし、あまりゆっくりしすぎるのも不自然なので、紅葉は覚悟を決めてドリンクコーナーから戻る。美春のほうは相変わらずスマホをいじっており、ほうっておいても問題ない感じだ。厄介なのがあやので――何か喋らないと、と気を使うタイプらしい。紅葉としては、花梨が来るまで黙っていてもらえるのがありがたいのだが、気遣いが歓迎しない方へと向いている。

「え、えーと……今日は、そのー……ありがとうございますー……」

 こうも、下から遠慮がちに覗き込まれると、紅葉としては、どう対応すれば良いものか戸惑ってしまう。面接のような圧力的な場は慣れているが、自分が教えを請われるのには慣れていない。

「あっ……はい」

 ぎこちない声で返しつつ、スマホの様子ばかり気にしている。篠田さん……早く来て……。あ、この場ではカリンって呼んだほうがいいんだっけ――あやのへの対応もおろそかに、紅葉は手元のグラスをそっと指先でなぞる。決して社交的とはいえない紅葉にとって、不慣れな相手との間を持たせるなどということはなかなかの苦行だ。

 あやのは、彼女なりに会話を広げようとはしていたらしい。だが、美春からの援軍もなく、孤軍奮闘できるほどのトークスキルもなく、結果として気まずい空気がそのテーブルを支配していた。全員ドリンクバーを注文しているはずだが、誰ひとりとして追加で飲み物を汲みに行く様子はなく、この空気を変えようという空気さえない。紅葉は背もたれに深く身体を預け、目の前で流れている時間を忘れようとしているかのようにタブレットに流れるスライド広告をぼんやりと眺めていた。画面の中では、期間限定メニューや企業の取り組み、スタッフ募集の案内が淡々と映し出される。あぁ……新歌舞伎町だけに、時給も高いなー……などと、紅葉は少し憧れの目を向ける。この金額なら、たしかにバイトも頑張れそう、とも思うが、遠すぎる立地に、それも現実味はない。それに何よりこの地域の物価は高く、家賃も高い。この程度の賃金では完全に足が出るだろう。

 こんな話じゃ広がらないだろうな――そう思っていた矢先、ついに救いの手が差し伸べられる。

「ごめんなさ~い、遅れました~」

 花梨が、いつものコートを翻しながら軽やかに現れる。どこかふわっとした空気を纏いながらも、その登場はまるで空気に色を差すようだった。

「今日も空が混んでたんです?」

 皮肉混じりの紅葉の問いに、花梨はにへらと笑って返す。

「いえ~、今日は駐めるところに困っちゃって~」

 優雅なこと――自家用車で新歌舞伎町へ乗りつける生活。それが当たり前であるかのように話す花梨に、紅葉は心の中で皮肉を呟いた。

 花梨は席につくや否や、カップだけが三つ並んだテーブルを見て、メンバーたちに問いかける。

「んんん~? 皆さん、お夕飯は~?」

「食べてきた」

 美春は淡々と答える。

「私も、軽く」

 本当は何も口にしていなかったが、紅葉はそう誤魔化した。ここで何かを注文する流れにしたくない。ファミレスといえど、メニューは決して安くないのだから。

 そして、最後にあやのが口を開く。

「わたしは、そのー……必要なタンパク質は摂取しておりますので……」

 その答えに、紅葉はほんの少し目を見開く。やはりこの人は、本格的にアスリートらしい。おそらく、日常的にトレーニングしているのだろう。さらには、身体づくりを意識した食生活――少なくとも、新月やスピィとは違いそうだ。

「そっかー」と頷いた花梨は、すぐに笑顔を向ける。

「じゃ、食べ物のほうはカリンが奢るよー」

 あっさりと、そんな豪勢な言葉を口にした。つまり、ドリンクバー代は自分で払えってことか、と紅葉は苦笑する。そもそも、ドリンクバー単品でさえ紅葉にとっては一食分相当の値段だ。ゆえに、相談に乗る立場である以上、食べ物代くらいは出してもらってもバチは当たらないだろう。

 そして、花梨が卓上のタブレットを操作し始める。ポテトや、ナッツの盛り合わせなど――どれも摘まみやすく、気軽にシェアできる品ばかりを選んでいるようだ。

 ナッツは……栄養素を気にしてるあやのさん向けかしらね――紅葉は黙ってその様子を見つめる。少しは場の空気も和らいでくれた。けれど、人見知りな紅葉の心の内にはまだどこか緊張が残っている。

 一通りの注文が済んだところで、花梨は自分の分の飲み物を取りに行き――戻ってきたところで、ついに本題の打ち合わせが始まった。小さなファミレスの奥のテーブル席。壁際のシートにはあやの、向かいに美春、そして各々の隣には紅葉と花梨が控えている。雑踏の音は遠く、甘いコーヒーの香りだけが静かに漂っていた。

「えーと、テーマは簡単には決めてたんだけど」

 花梨がちらりと視線を送ると、あやのが小さく頷いた。

「はい、エアロビクスにしよう……って、三人では、一応……」

 何となく、あやのらしいな、と紅葉は思う。おそらく、今回引っ張っていくのはあやのになりそうだ。

「それで、曲は……?」

「ほら、最近流行ってる、Nya-oX(にゃおっくす)の……」

 花梨の言葉に紅葉は内心、ため息をついていた。最近、体操風のポップな音楽が妙に流行っている。それも、やたらとわかりやすく、踊りも単純で、少し幼稚に思えるものが。その源流が『Nya-oX』という名前のコミックバンドらしい。紅葉も名前は知っている。というのも、彼女はコンビニでバイトをしているため、店内BGMでしょっちゅうその楽曲が流れてくるし、コラボおにぎりやスナック菓子が棚に並んでいるのも見かけていた。しかし――大の大人が真顔で子供のような振り付けにハマってるのもどうしたものか――そんな動画を見かけるたび、紅葉は世の行く末を憂わずにはいられなくなる。

「確か……コンニャク体操とか言いましたっけ」

 紅葉が眉をひそめて言うと、カリンがやや申し訳なさそうに訂正した。

「コン“ニャン”体操だよー……。キツネの“コンコン”と、ネコの“ニャンニャン”で」

「……はぁ」

 説明を聞いても、紅葉の心に響くことはない。そこへ、あやのがスマホを取り出し、おずおずと画面を見せてくる。

「で、でも……そのままってわけじゃなくて……わたしなりに、アレンジは……」

 すこしげんなりしてきたところで、紅葉はこれにちょっとした期待を抱く。これで、あやののスキルが如何ほどかはっきりするだろう。

 しかし、それ以前の問題だった。

「……こんなところで脱いでいいんです?」

 画面にはフィットネスジムが映っており、あやのが例の音楽に合わせて踊っていた。自分たちがストリッパーであることは重々承知しているが、不覚にも不意を打たれてしまい、紅葉の頭に肝心のダンスが入ってこない。

「それはですね……メンテナンス中で、お客さん入ってませんし……そっ、それに、服を着ていたら伝わらないんじゃないかとっ!」

 服を着てない所為で、むしろ伝わらなかったんだけど……と紅葉は思うが、新月やスピィとの掛け合いを経てきたおかげか、深く考えずにスルーすることができた。

 なので、冷静にひと言だけ。

「……最初のダンスは着衣ですよ」

「えっ!?」

 またか……と紅葉は胸の奥で小さく呟く。しかし、もう驚くことはない。何しろ、私たちはストリッパーなのだ。全裸エアロビも見慣れてきたし、紅葉は淡々とその振り付けについてのみ評する。見た限り、ダンスそのものには熱心なようだし、動きの滑らかさは標準以上だ。

 が、問題はそこ以外にある。全裸であることを除いても。

「これ、かなりキツい振りですよね。腕、ほとんど上げっぱなしですし」

「えっ!?」

 あやのが目を丸くした。これにすかさず、カリンが納得したように声を上げる。

「やっぱりキツいやつだったんだ!」

 紅葉は、その反応にわずかに口元を緩める。美春が一瞬あやのを見やったが、またすぐにストローへと視線を戻した。言いたいことはあったが、カリンが代弁してくれた、ということなのだろう。

 そして、紅葉もまた経験者として。

「ふたりのレベルに合わせてください」

 筋力レベルに、という意味で。エアロビクスというのは、もともと全身にしっかりと負荷をかけるよう設計されている。無理をすれば、簡単に身体を壊しかねない。忘れてはならない基本だ。

「で、でもぉ……」

 あやのは伏し目がちに、遠慮がちに、しかし。

上腕二頭筋(じょうわんにとうきん)から僧帽筋(そうぼうきん)にかけての流れって、どうしても見せたい部分でして……。それに、ほら……引き上がる大胸筋(だいきょうきん)も女子ならではのポイント……というか……」

 相変わらず、語気は尻すぼみになっていく。だが、紅葉には伝わっていた。その瞳の奥には、一切の曇りがないことを。どんなに控えめな素振りを見せようと、あやのの胸には情熱の炎が燃え盛っている。

 が、それはそれとして。

「それは終盤の個人技でやってください。最初から飛ばすと、他の人がバテます」

 現実として、おそらく無理だ。紅葉とて、振り付けそのものはともかく、これをこなしてから寸劇パートなど……短距離走を何本もこなしてからステージに上がるに等しい。

 芯の通った口調にカリンが感心して声を上げる。

「楓さんって、筋肉の名前わかるんだ……」

 そんなところに感心してほしかったわけではないのだけれど。

「有名どころくらいなら」

 あやのは小難しい正式名称を挙げているが、ようは腕とうなじと胸のことである。

「ひとまず、振り付けについては一考の余地があるとして……衣装を変えれば、それなりに華やかにはなりますけど」

 紅葉の言葉に、誰からも返事はなかった。代わりに、美春はフライドポテトを静かにつまみ、そのまま口元に運んでいる。何でもいい、という無言の意思表示なのかもしれない。

 空気が重くなりそうな中、カリンが少し気まずそうに言葉をつむぐ。

「楓さんみたいに、引っ張ってくれる人がいれば良かったんだけどなぁ……」

 紅葉は少し目を細めた。どうやら今回のメンバーには、前線で舞台を牽引するタイプがいないらしい。……本当に、この三人でステージを成立させられるのかと不安がよぎる。

「リリザさんは?」

 紅葉としては、ダンススキルの面でも信頼できる存在だと思っている。が、それに答えたのはあやのだった。

「リリザさん、出演のローテーションを均等にしたいみたいで」

 つまり、しばらくのあいだリリザ自身が舞台に立つことはない――ということか。それを聞いて、紅葉はほんの少しだけ残念な気持ちになる。リリザよりさらに直近で出演した自分の出番は、しばらくないのかもしれない。

「ところで、ふたりのダンス経験は?」

 紅葉の問いに、カリンはにこっと笑って「これからだよ~」と答え、美春はそっけなく「特になし」とひと言だけで済ませた。ため息を堪えながら、紅葉はなるべく穏やかに提案する。

「じゃあ、やっぱりあやのさんを中心にしましょう。先ほどのエアロビ動画をベースに引っ張ってもらって……(しの)……」

 うっかり本名を口を滑らせそうになり、紅葉は一瞬だけ言葉を詰まらせる。

「……カリンさんと美春さんは、まー……コンニャン体操原作寄りで」

 しかし、ここでカリンは寂しそうに呟く。

「カリンのことは、呼び捨てでもいいんだよ?」

 もしかすると、紅葉がコーチ的な立場にあるからかもしれない。とはいえ。

「……それは、まあ、追々」

 いまは、まだあくまで仕事の関係として。何より、源氏名で呼び合うことさえ慣れていないのに、下の名前同然で呼ぶのはさすがに敷居が高い。なんとも落ち着かない気分のまま、紅葉はあやののスマホ画面に目を戻した。

 全裸体操――としか形容できない映像を、彼女はシークバーで何度も戻したり進めたりしながら確認していく。サンプルくらい服を着ていてくれ、と心底うんざりしながら。

「サビのところ、いくらなんでもニーアップ多すぎです。しかも、腕を上げながらとか……もう少しどうにかなりませんか」

 冷静に指摘すると、あやのは真剣な面持ちのままうつむいている。

「そ、そこは大殿筋(だいでんきん)から大腿二頭筋(だいたいにとうきん)への滑らかさを見せたいところでして……さらにはそこから広背筋(こうはいきん)も……」

「大腿……えーと、ハムストってやつでしたっけ」

 紅葉はわずかに首をかしげながら訊ねる。大殿筋という単語は何となく知っていた。ならばその隣り合う筋肉も、たぶんそれだろうと推測して。

 概ね正しかったようだが。

「厳密には、ハムストリングスは大腿二頭筋に半膜様筋(はんまくようきん)半腱様筋(はんけんようきん)を加えたものですけど……」

「……はぁ」

 あやのの説明が細かすぎて、正直どうでもよくなってくる。

「ともかく現状、他のふたりの体力がもちません。刻みを半分にして、Bメロではステップタッチ中心に組み替えましょう。サビに備えて、温存しておかないと」

「あ、なるほど。じゃあ下腿三頭筋(かたいさんとうきん)を魅せる構成に……」

 そのあたりになると、もう紅葉の理解の範疇を超えている。たぶんヒラメ筋あたりのことを言っているのだろう、と勝手に解釈して、話を続ける。

「それから、“曲げY”は初心者にはまず無理です」

「うぅ……Y字から妥協したんですが……」

 膝から先を上げるか上げないかだけの違いでは妥協したうちに入ってない、と紅葉は思う。

「それは、個人技でやってください」

 脱衣パートでは、グループというより各々が競うように魅せていく。だから、そこで存分に競ってもらえばいい。

「はい……けど、残念です。Y字バランスって、内転筋(ないてんきん)から大陰――」

「ファミレスですよ、ここ」

 嫌な予感が走り、紅葉は抑えた声で即座に遮った。無思慮に身体の特定部位の名をそのまま口にするには、あまりにも場違いな環境である。止めて正解だった――紅葉はそう確信している。

「それにしても……どうしてこんなハードな振り付けを……」

 あやのの控えめな素振りに反して、その過激さには控えめの『ひ』の字もない。

「えっ!?」

 どうやら、あやのには心底自覚がないらしい。

「だ、だって……わたし“ごとき”にできる振り付け程度、皆さん当然……」

「いや、あやのさん、相当体力あると思いますけど」

「えっ!?」

 あやのの驚きグセについて、紅葉が驚くことはなくなった。

「わたしなんて全然……体育の成績も1や2ばかりで……」

「はぁ」

 その反動で筋トレにハマった、というケースはさして珍しくもない。そして――あやのはきっと、“誰からも褒められたことがない”のだろう。認められることがないゆえに、自信の持てないまま筋肉を鍛え続け――いや、まったく自信がないわけではなさそうだ。

「……少なくとも、手首は綺麗に見せられてますよ。えーと……上腕二頭筋だけでなく……」

「ありがとうございますっ! 腕撓骨筋(わんとうこつきん)はダンスのために鍛えたところもありましてっ!」

 どうやら、体力や筋力に自信はなくとも、“筋肉の美しさ”については人並みならぬこだわりがあるらしい。誰に褒められずとも、そこだけは自分で自分を褒めることができる――それに気づいたとき――紅葉はふと自分を思い返す。私は、私のダンスを“褒める”ことができているのだろうか。そこらの配信者よりはちゃんと踊れているし、撮り終わった直後は満足感もある。しかし――編集作業に入ったあたりで、きっとロクに見られることもないのだろう、と暗くなり、回転数を見れば言葉もなくなる。オーディション先から『お見送り』を突き返されたときなどなおさらだ。

 自分の力こぶに穏やかな眼差しを向けているあやのは、その明るい自身とともにどこまでも真っすぐに突き進んでいくに違いない。そんなあやのを眺めながら、紅葉は静かにアイスティーを口に含む。ガラス越しの夕日が、少しだけ眩しかった。


       ***


 次のストリップ公演まで一日、また一日と夜が過ぎていく中――高層ビルの裏手にある業務用の小さなエレベーターが、ひとつキシンと音を立てて開く。

 そこから現れたのは、奇妙な姿の女だった。使い古されているが清潔感のある“えんじ色”のジャージの上に、無地の白衣を羽織っている。腰まで届く長い髪をそのまま垂らし、身震いしながら寒そうに自分の腕を擦っていた。

「おぉ~……外が暗い……。本気で“夜館”じゃん~……」

 ぶつぶつと独り言をこぼしながら、彼女は空を見上げる。眼鏡をかけているわけでもないが、どこか研究者じみた雰囲気があった。

「ひゃ~……“地上”はまだ冬だったっけ~。出る時期、早すぎたかな~」

 肩をすくめ、白い息を吐きながら駆けていく。冷たい光の灯る新歌舞伎町のほうへと向けて。


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