新たな楓
業務時間中のコンビニのスタッフルーム――紅葉はひとり喉の奥を詰まらせながら、震える指先でスマホを取り出して――『篠田 写真家』――検索。すぐに、いくつかの関連候補が表示され、その先頭に一際目を引く名前があった。
『篠田由伸』
若手ながらすでに何冊ものヌード写真集を手がけており、紹介記事には芸術性と感性を高く評価する言葉が並んでいた。
――これだ。この人に違いない。そう思いたい。
どのくらいの知名度なのか、これだけではわからない。けれど、写真集を出版しているなら、確実に業界内でのコネはあるはずだ。こういう人脈は、喉から手が出るほど欲しい。
――逃すわけにはいかない。
紅葉は顔を洗うため、バックヤードの奥のトイレへ向かった。冷たい水で目元を濡らしながら、思考を巡らせる。――泣いてた理由、どう言い訳しようか? 『感動しちゃって』……はさすがに無理があるだろう。だが、花梨の性格を考えれば、図々しく踏み込んでくるようなことはしないはずだ。だから、必要以上の説明はせずに誤魔化せばいい。
肝心なのは――どうやって、花梨の兄につないでもらうか。
写真に興味がある……みたいな方向で、さり気なくダンスとの共通点なんかを絡めて話を広げられればそれがベストだろう。いざというときはヌードを使っても構わない。相手は商用で裸体を撮るプロである。あくまでヌードは入口として、そこからダンスにつなげる余地もあるはずだ。
紅葉は深く深呼吸をして、鏡の中の自分に無理やり笑顔を作る。そして、ドアを開けてバックヤードを出た。なるべく自然に。何もなかったかのように。
レジでは、花梨がしょんぼりと項垂れ、両手の指先をいじるように組みながら、目を伏せていた。だが、紅葉の姿を見つけると、ほっと安心したような顔を浮かべ、すぐに申し訳なさそうに声をかけてくる。
「ご、ごめんね……変なもの見せちゃって……」
「い、いえ……写真自体がどうこうじゃなくて……」
紅葉は少し声を震わせながら、視線を逸らす。
「さっきの縁側を見て、ちょっと……昔の悲しいこと、思い出してしまって」
――これで、追及されることはないだろう。紅葉は、あえて曖昧な言葉を選んで釘を刺しておいた。花梨の優しさを、いまは利用させてもらおう。
「そんなきれいな写真を撮ってもらえるなんて、羨ましいです」
「そ、そうかな……?」
花梨の声は、どこか気後れしていた。さすがに、あれだけ大泣きされた後では、自分の写真でとんでもないことをしてしまった、と気にしているのかもしれない。紅葉自身も、それについては少しだけ申し訳ない気持ちになる。
でも、このまま話題が逸れてしまっては意味がない。紅葉は心の中で呼吸を整え、次の一手を放つ。
「私のは、ダンスなんだけど……さっきの篠田さんの写真、まるでダンスしてるみたいにキマってて」
「そ、そぉかな……?」
花梨は少しずつ、いつもの調子を取り戻してきた。ようやく、空気が穏やかに流れ始める。そこで、花梨は話題の舵を自然に相手側へ切り替えた。
「霧島さん、ダンス動画撮ってるんです?」
――これは、さすがに見せない流れではないな――紅葉は心の中で小さくうなずいた。そもそも、こちらの動画は健全に公開しているものである。見せない理由がない。
「『Red Hand Moving』っていうチャンネル名で配信してるんですよ」
紅葉がそう言うと、花梨は即座にスマホを取り出し、検索をかける。その行動の早さに、少し驚きつつも、紅葉は何気ない顔を装っていた。
「あっ、これかな……」
花梨が画面をタップすると、先日、公園で撮影したばかりのダンス動画が再生され始める。
「わっ、キレっキレ! すごい!」
花梨の顔が、純粋な感動に染まった。こんな真っ直ぐな反応は何年ぶりだろうか、と紅葉はどこか懐かしい気持ちになる。ダンス動画をアップしていても、ダンサー同士のつながりしか作れない。そして、不人気ダンサー同士の会話といえば――息を吐くように、どこで賞を取っただの、どの舞台で踊っただの、醜いマウントの取り合い――そのような不安のない会話に、紅葉の心は穏やかになる。
「チャンネル登録しときますねー!」
数々の落選、契約終了を経て――紅葉は社交辞令に敏感であった。ゆえに、花梨の様子からは――少なくとも、見る気もないのに登録したわけではない、と紅葉には感じられる。少なくとも、現時点では。だから、それについては――いまだけは、喜びたい。
ピッという音とともに花梨のスマホに登録完了の表示が画面に浮かぶ。それだけで、紅葉の心にふわりとした熱が灯った。
――これで、386人目……。たったひとりの増加。それなのに、どうしてこんなにも胸が高鳴るのだろう。久しぶりの登録者アップに、紅葉は心の中で小さく拳を握る。
けれど、その喜びは、すぐに自己嫌悪へと変わった。――この程度で高揚してるようじゃ、ダメだとわかっているのに。これは、一つひとつの地盤を固めているのとは違う。明らかに低くなっている目標――自意識――ここが霧島紅葉の限界なのか――そう思うと、紅葉は思わず自分を張り倒したくなる。
「ありがとうございます。でも……」
紅葉は、あえてトーンを落とした。ここからが本題である。どうにかして――あの“写真家先生”に辿り着かなくては。
まずは、真正面からダンサーとしてぶつかりたい。ポージングの美しさについては、ダンスの本懐である。だが、それが難しければ、相手のフィールドで。自分も写真に興味があるというスタンスを見せて、その中で、ヌード撮影の話へと自然に持っていく必要がある。その過程で、自分がかつてポルノ紛いの動画を撮っていたことも、どこかで触れることになるかもしれない。言い訳は、そのときの流れ次第――
「全然登録者数、増えなくて……」
紅葉が弱音を吐いた瞬間、花梨は『あちゃー』という顔をした。わかりやすく眉を下げ、口をひん曲げて。おそらく、この手の愚痴は聞き慣れているのだろう。花梨の反応に、紅葉は一瞬ムッとした。だが、それをここで表に出すわけにはいかない。
花梨は悪気なく、ありきたりなことを言う。
「みんな、最近はドローンとか使って、派手に撮ってますしねぇ……」
そんなことはわかってるっっ!! ――紅葉は心の中でやり場のない怒りを叫んでいた。編集も加工も、皆、手間もお金もかけている。高価な機材やアプリ、撮影用のスタンドに照明、効果の入れ方だって、細かく調整して。もちろん、機材があってもセンスがなければ意味はないし、逆にセンスがあっても機材がなければ限界はある。
――そんなの、わかってる。わかってるからこそ、悔しいんじゃない……!
けれど、紅葉はすべてを飲み込んだ。すべての不満や憤りは心の内に押し留め――胸の奥で渦巻く本音を言葉にすることなく、作り笑顔を浮かべて言い繕う。
「私、ダンス以外のことは疎くて……」
――アンタ、プロ写真家の妹でしょ? そういうセンスもあるんじゃないの? だったら、私の動画、編集してよ……ッ!
これまで、上から目線でアレコレと指図してくる連中はいくらでもいた。そういうところで手間や機材をケチるようだから観てもらえないのだ、お前はやる気がない、だの何だのと。しかし、それを口にする者は決して自ら手助けしようとはしない。機材を提供することもない。ただ口を出すだけ。決してリスクは負わず、自分が満足するものを提供してもらいたいと口を開けて待っているだけの『消費者』――もし花梨もまたヤツらと同じだったら――そのときは脈ナシと判断しよう。そうなれば、潔くこの『ダンス路線』は捨てるしかない。そして、別のカード――ポルノ絡みでヌード写真へと持ち込むしかない、と紅葉は腹を括っていた。手のひらにじっとりと汗が滲む。こんな短いやり取りに、紅葉は人生の岐路を賭けていた。たとえ相手にとっては、ただの世間話だったとしても。
「うーん……ダンス自体はキマってるんですけどねー……」
花梨はスマホの画面を見つめながら、曖昧に首を傾げる。――それは、少なくとも“ダンス”というものの良さを、わかっている者の言葉に聞こえた。そう紅葉は解釈する。表面上は、だが。
けれど、誉め言葉などタダでいくらでも言える。実際に金を出す人間は、そのうちのどれだけだろう。サンプル動画では口を揃えて『すごい』『かわいい』『センスある』などと称賛しながら、購入ボタンを押す者は一〇人にひとりもいない。
――あんたはどう? 口先だけか? それとも手を貸す気があるのか? あるいは――コネを引っ張ってくるつもりは?
紅葉は、黙って花梨の言葉を待つ。だが、花梨はなかなか核心を言い出さない。代わりに、ゆっくりと、慎重に問いかけてきた。
「霧島さんが求めてるのって……登録者数? それとも、ダンスを発表する『場』です?」
……はぁ。紅葉は内心で盛大にため息をついた。耳が腐るほど聞いてきた、ありきたりで他人事な“禅問答”。この手の問いに時間をかけるつもりはない。即答だ。
「まずは、ダンスを見てもらいたいって思いがありますね。そのうえで、もっと登録者数が増えてくれれば、と」
それを聞いて、花梨はめずらしく眉間にしわを寄せ、顎に指を当てた。――考えている。それが、紅葉には少し意外だった。
だが、この時点でようやく――花梨は、紅葉がこの会話に込めている“目的”を正しく読み取ることができた。
――どうやら霧島さんは、ダンスに行き詰まっているようですね。そして、何らかのサポートを求めてる。そして、それはおそらく――
もちろん、花梨にとって、紅葉のダンスに協力することは不可能ではない。だが彼女は、誰かに無償で尽くすような博愛主義者ではない。むしろ、どちらかと言えば実利的な性格だ。
ゆえに――自分たちの関係における、最大公約数を探している。
「んー……と、さっきのって、ヌード自体に嫌な思い出があったー……ってわけじゃないんですよね?」
その言葉に、紅葉の心がピクリと跳ねる。
――よし、来た!
喉元まで出かけた高揚を必死に押し殺し、紅葉は冷静なふりを装う。
「ええ、紛らわしくてごめんなさい。どちらかというと、縁側のほうで……ちょっと、昔のことを思い出しちゃって」
言いながら、紅葉は素早く“架空の過去”を頭の中で組み立てていく。――たとえば、田舎の祖母の家で何かがあったとか、幼い記憶がフラッシュバックしたとか、そのくらいで充分だ。花梨が知りたいのは、詳細ではない。ただ、『ヌード自体にはトラウマはない』と、それだけが確認できればいいはず。
そして、それはまさに花梨が欲しかった答えだった。
「でしたら――ダンスの“場”だけは紹介できるんですけど」
「……え?」
紅葉は思わず聞き返す。予想外の一手に、言葉が詰まった。
花梨は、少し気まずそうに視線を泳がせた後、そっと告白するように小声で囁く。
「……あのぅ……実はカリン……ストリップ劇場で、いわゆる、踊り娘……やってて――」
その一瞬――時が止まったような気がした。
――まさか、ここまで読まれていたなんて。紅葉は、胸の奥で小さく呻いた。自分のコミュニケーション能力の低さが、ここにきて悔やまれる。
ふわふわとした物腰、無防備に明るい笑顔、そして『カリン』などと自称する幼さ――そんな表面ばかりを見て、『ああ、ちょっと頭のネジが緩いだけの陽キャだ』と侮っていた自分が恥ずかしい。
――あの女、全部わかってたんだ。私の目的、躊躇、打算。そして、ここまでの言動の裏にある焦りまで。そのうえで、『場』を与えると言ったのだ。これは、写真家の兄を釣り餌に――いや、それさえもおそらく疑似餌だ。最初から兄を紹介するつもりなどなく、ストリップ劇場に新メンバーを引き込むことが目的だったのである。
そもそも、たとえ相手が兄であろうとも、平然とヌード写真を撮らせる妹に“普通”などという安易な言葉通用するはずがなかった。そこに疑いを持たなかったことこそ、紅葉にとっての最大の失策だったのだろう。
バイトのシフトが終わり――紅葉は自宅でひとり、今日の出来事を思い返していた。
花梨の話によれば、昨年末――今日が元旦なので、本当に最近のことだが、新宿・新歌舞伎町に新たなストリップ劇場がオープンしたという。正確には、既存のライブハウスの企画として、特定の曜日をストリップ劇場として営業させよう、ということのようだが。
いずれにせよ――紅葉は首を傾げる。――いまさら、ストリップショー? AVも風俗も氾濫してるこの時代に、そんなもの、誰が観に行くの? そう思ったのは確かだ。だが、だからこそ――『だからこそ』かもしれない。もっと直接的な娯楽が氾濫している時代だからこそ、逆に――そんな見方も、できなくもない。
ともあれ、花梨の要望は明確だった。その劇場で、踊り娘として一緒にステージに立ってほしい――それが、彼女の申し出だった。
紅葉は、その場では答えず、『一晩、考えさせてほしい』とだけ伝えた。
そして、いまに至る。
本音を言えば、即座に断りたかった。――自分の磨いてきたダンスは、裸踊りを披露するためのものじゃない。誇り――矜持――そういうものが、心のどこかにまだ微かに残っている。
けれど、それらは、すぐに現実の前にかき消された。――やはり、金は欲しい。いま、紅葉は自撮りのポルノ動画を売って食いつないでいる。羞恥も捨てた。誇りなんて、とっくに踏み潰した。ならば、ストリップが何だというのか。実入りも悪くなさそうだし、なにより、自分のダンスに何か還元されるものがあるかもしれない。そう思うことで、自分を納得させた。納得させることにした。
結局、現実には選択肢などなかったのである。布団の中でスマホを手に取ると――ポルノ垢のほうにDMが届いていた。
『××××のアップはないですか?』
――医学書でも読んでろ!!
紅葉は感情のままにスマホを枕に叩きつけた。が、暗がりの中で再びスマホを拾い上げる。そして、仕事でも使うメッセージアプリのほうを開き、無言でメッセージを打った。
『劇場の件、よろしくお願いします』
送信ボタンを押す瞬間、指先が少しだけ震えていたかもしれない。もしかすると、自分はさらに取り返しのつかない一歩を踏み出してしまったのではないかと。
ここまでしたのだから、さっきの下賤なポルノの件は――返信こそしないが、ブロックも保留としておこう。もし、ストリップ劇場でうまく折り合いがつかなければ、また金に変える必要がある。選択肢は多いほうがいい。……そういうことにしておこう。
それにつけても――金の欲しさよ。紅葉は、薄汚れた天井を見つめながら、改めて自分の“貧しさ”を呪っていた。
しかし、そんな自己嫌悪の余韻すらなく。
『今度の火曜日、ステージあるけど、見学に来ませんか?』
そろそろ夜が白み始める時間帯だというのに、返事はわずか数分後。どうやら花梨も、まだ起きていたようだ。
『行きます。よろしくお願いします』
それだけの、短い、けれども何かが大きく動く予感のするやり取りだった。久々に訪れた“新たな可能性”――それが、わずかでも自分の人生を変えてくれるのなら――
紅葉は力尽きたようにスマホを枕元に置く。そして――昇り始めた朝陽とともに、静かに眠りに落ちた。
そして、冬の冷たい夕陽が沈む頃――
重たいまぶたを押し上げて、紅葉は目を覚ました。スマホを手に取ると、メッセージには『21時30分に新宿の紅茶館で待ち合わせ』――送信時刻は紅葉の最後の送信からさらに数分後。このレスの速さが社交性なのだろうな、と紅葉は感心する。同時に、ここで何か可愛いスタンプでも送れれば良いのだが――『よろしくお願いします』と予測変換どおりに打ってしまうところもまた自分のダメなところなのだろう、とも。しかし、それ以上手間も頭も使う気になれない。期待はすれども、そこまで期待しきれない――すっかり濁りきってしまった瞳では、明るい未来像をそのまま受け止めることなどできなかった。
それから、いくつかの夜が過ぎ――その後も紅葉はコンビニのシフトを入れていたが、花梨と重なることはなかった。かといって、追加でメッセージを送ってくることもない。そのあたりは“わきまえている”感じで、紅葉としても助かった。
そして、当日――新年も、もう五日目。ライブハウスも、さすがにそろそろ平常運転に戻っている頃だろう。
今日の予定は、あくまで“見学”という建前ではある。だが、紅葉はそれが実質的には“面接”であることを察していた。場合によっては、ちょっとした“実技”を求められる可能性すらある。だからこそ、抜かりはない。シャワーを浴び、ボディケアは入念に済ませる。選んだ下着は、もちろん勝負用――見られることを前提としたものだ。
そして、二〇時を過ぎたころ――鏡の前で紅葉は服装を整える。今日はいつもと違う余所行きのパンツルック。黒を基調にしたシンプルなデザインだが、身体のラインを品よく見せる仕立てだ。
髪を後ろでひとつに束ね、飾りとしてそっと添えたのは――紅葉の形をしたガラスの髪留め。
――ストリップといえども、ダンスはダンス。
今日の私は、ひとりの“ダンサー”として臨む。
ハンドバッグにスマホを入れ、収納から取り出したのは――自転車の修理キット。タイヤがパンクして遅刻なんて、絶対に許されない。情けない言い訳をせずに済むよう、備えは万全に。
主要都市の駐輪場事情については、紅葉くらいになれば当然把握済みだ。新宿近辺ともなればなかなか数も少なく、値段も高い。だが、一駅歩く覚悟を持てば、二十四時間定額の駐輪場もちらほらある。今日も、そこを利用するつもりだ。
ただし――喫茶店の問題がある。花梨からのメッセージには店のリンクも貼られており――『紅茶館』などという、いかにも洒落た名の店だ。新宿にあるとなれば、なおさらであり――飲み物一杯で紅葉の食費一日分に相当する。……花梨が奢ってくれる保証なんて、どこにもない。かといって、何も注文しないわけにはいかない。その上、万が一ケーキまで追加で頼むことになったら……! 想像するだけで胃が痛い。だからこそ、対策は立ててあるのだが。
紅葉は自転車で夜の街を駆ける。風は冷たく、身体の芯を刺すようだが、ペダルを止めることはない。大通りのネオンが視界を流れていく。煌々と照らされる都会の夜、その喧騒を横目に、ひとりだけ違う時間を走っているような気がした。
使い古した手袋は生地が薄くなっているのだろう。新宿の街が見えてきたころには、指先の感覚が少し鈍くなっていた。
ビル群に挟まれた路地の一角。知る人ぞ知るような立地に、その駐輪場はあった。空きスペースに自転車を停め、待ち合わせの店へと向かう。新宿駅はひとつ先だが、このあたりはそもそも駅と駅の感覚が異様に狭い。軽い散歩にさえならないうちに駅前広場へと辿り着き――紅葉は時間を確認する。まだ少し早い。近くのコンビニへ入り、品物を探している素振りで、店内を何周かしたところで改めてスマホを確認する。二分前――ここが限界値だろう。
当然、ここでの無駄な出費は一切なし。早足で夜の人混みを掻き分けて――もう一度時間を見る。二一時三〇分――計算通り――紅葉は息を整えると、満足げな笑みを浮かべ、紅茶館のドアを開けた。
すると――テーブル席にいた花梨が、満面の笑みで手を振っている。
「わぁ~、時間ピッタリ」
「ギリギリ間に合って良かったです」
紅葉も笑顔を浮かべながら応えた。かろうじて遅れずに済んで安心している――そう見せかけつつも、慎重に相手を観察している。
テーブルには、優雅な香りを放つコーヒーと、上品な焼き菓子のプレート。普段のバイトは平気で遅刻するクセに――おそらく、一足先に来て、喫茶店でのひとときを楽しんでいたのだろう。やっぱりコイツ、金はあるんだ。そんな生活ができる人間が、なぜ深夜のコンビニバイトなどやっているのか――? そう思わずにはいられなかったが、それを詮索することはない。いまは、余計なことを考えると足をすくわれる。
「まだ時間ありますし、何か飲みますか?」
花梨の提案は紅葉にとってあまりにも“無邪気”で“残酷”に感じられた。ゆえに、紅葉は即座に切り返す。
「いえ、できればすぐにでも現場を見てみたくて」
言い訳のようでいて、嘘ではない。――本心から、早く見たい。もし、検討に値しないような場所であれば、早々に帰る口実を作る必要もある。そのためには、できるだけ早く――実物を、この目で確かめることが肝要だ。
紅葉が今回の“見学”で最も気にしていたのは――何よりも、金の話である。どれくらいの頻度でステージがあり、どの程度の実入りがあるのか――その情報が、彼女にとって最も重要で、最も切実な問題だった。
けれど、花梨とのこれまでの会話で、紅葉は『ダンスの場がほしい』と、最初に口にしてしまっている。いまここで、あからさまに金の話を切り出すのは――まるで『ストリップをダンスとして認めていない』と受け取られかねない。
それは避けたかった。
だから、黙っていた。
しかし――花梨もまた、紅葉の関心が金にあることは察している。それでも、彼女もまた、あえて口に出さない。適当なことを言って期待させて、もし現実とのギャップが生まれたら、それは後で大きなトラブルになる。――だから、触れない。いまはまだ、そのときではない。
結局、紅葉が花梨を回収するような形で喫茶店を出ると、ふたりは並んで、新歌舞伎町の喧騒のなかを歩いていた。夜の街は、まるで昼のように明るく、看板の光が空に滲んでいる。キャッチと酔っ払い、観光客にホスト。入り乱れる人々の群れをかき分けながら、紅葉は足元に気を配りつつ歩いていた。混雑のせいもあって、目的地まではおよそ一〇分弱。道のりとしては思っていたよりも近く、気持ちとしては思っていたよりも遠い。
そして、到着したのは――『ライブハウス・ノクターン』。ストリップ劇場と聞いていたから、もっとけばけばしいネオンや、下品な装飾に包まれているものと思っていたが、拍子抜けするほど普通だった。まさに“ライブハウス”という名前にふさわしく、どこにでもある音楽の店と変わらない佇まいである。
――うーん、意外とまとも……? それを少し“残念”に感じてしまったと自覚して、紅葉はハッとする。――もしかして私、断る理由を探してるんじゃないか……?
本音では、やっぱり、人前で裸になるのは怖い。
けれど、自分はすでに、もっと露骨な写真を金に変えているではないか――
画面いっぱいに性器の接写を要求されるポルノと比べて、舞台の上での“裸”が、果たして本当にそれほどまでに恥ずべきものなのか――ここまで来たら、そう思い込むしかない。
神妙な心持ちのまま、紅葉は建物の横手にある細い階段へ案内される。薄暗いその階段を、コツコツと音を立てながら降りていくと――そこには、地下独特の湿った空気が漂っていた。
ホールの扉は閉じていたが、壁一枚向こうからは、観客たちの熱気が伝わってくる。開場時間はすでに過ぎているのだろう。扉の向こうには、濃密な視線と喧騒が渦を巻いているようだ。
受付では、スタッフらしき男が来場者のスマホを次々とチェックしている。無愛想な作業を繰り返していた男は、花梨の姿を見た瞬間、その表情を一変させた。
「おっ、カリンちゃん、そのコが期待の新人さん?」
満面の笑み。驚くほどの好意的な対応。“期待の新人”――私、意外と歓迎されている……? 久々の感覚に、紅葉は少し救われた思いだった。
とはいえ、過度の期待は禁物である。もしかすると、ある種の皮肉かもしれない――浮かれないよう、紅葉は、通り過ぎながらぎこちなく頭を下げる。彼女自身、自分の身体が飛び抜けて魅力的でないことは自覚していた。ゆえに、歓迎されている理由が、身体ではなく、ダンススキル――そう、信じたかった。
受付の裏手にあった扉からスタッフエリアへと案内されると、紅葉の中にも否応なしに特別感が湧いてくる。そしてついに――控室のドアが開いたとき、紅葉はすでに警戒心を胸に抱いていた。ストリップ劇場という場所に足を踏み入れる以上、どんな人物が待ち構えているか分からない。だが――思っていたより空気は穏やかだった。
部屋の奥では、ひとりの中年の男がデスクに向かって書類の束をめくっており、鏡の前では黒いドレスの女性が身支度をしている。女は艶やかな黒髪を優雅に梳かし、うねりを活かしたカールを整えていた。時折、手元のアイシャドウに手を伸ばしては瞼を撫で、真紅のリップで唇に艶を加える。何より、その衣装は重厚で、両腕にはぴったりとフィットしていて――すっかり身体と一体化している。これをステージ上で脱ぐのは骨が折れるのではなかろうか――むしろ、最初から脱ぐつもりがないかのようにさえ見える。
一方、男のほうは、清潔なシャツにダークトーンのパンツという極めて事務的で地味な出で立ちだが、室内であってもニット帽を脱ぐ様子はない。その下の頭頂部が薄くなっており、それを隠したいのかもしれない。スッキリとした身なりに反して、出た下腹が生活習慣を雄弁に語っていた。
「お疲れ様でーすっ!」
花梨の第一声でふたりは振り向く。ストリップ劇場であってもコンビニと同じようなテンションで振る舞える花梨に、紅葉は少し恐れ入っていた。
そんな花梨は、両手でバッと紅葉を指し示す。
「楓さんこと、霧島紅葉さんですっ!」
あまりの明るさに気後れしていたが――紅葉はハッとして背筋を伸ばし、ぎこちないながらも一礼する。
「よ、よろしくお願いいたします」
デスクにいた男が顔を上げる。ボディラインを舐め回すような視線に、紅葉は背筋がゾワリとした。露骨なまでの品定め――やっぱり、所詮はそういう場所なのか、と内心で舌を打つ。
一方、女性のほうはふわりとした笑みを向けてくれた。
「お疲れ様です、カリンさん。その方が……」
「はいっ、お話しました楓さんです!」
花梨の声に促されて、女性は立ち上がると、紅葉のほうへと歩み寄ってくる。
「私の名前はリリザ・シャトレ。いまはこの劇場で……踊り娘の代表ということになっていますね」
紅葉は少しだけ目を見開いた。『代表』という響きに、ただの踊り娘ではないとすぐに察する。ただし――化粧こそ濃いが、年季を積んできた重みはさほど感じられない。おそらく、歳は自分とそれほど違いはないのだろう。それでも代表を任されているということは、何らかのスキルに秀でているに違いない。
「は、はぁ……」
リリザ――シャトレ。妙な名前だな、と紅葉は感じた。そもそも、リリザの肌も髪も目も、日本人そのものである。髪の毛の一本にさえ、異国の血は感じられない。苗字までついている変に気合いの入った“源氏名”に、どこか居心地の悪さを感じつつも、紅葉は口には出さなかった。
そんなやりとりの傍らで、男は書類をまとめると立ち上がる。
「リーダー、あとは任せていいかな」
すでに紅葉への興味は失っているらしい。リリザが「はい、お疲れ様です」と応じると、男は一礼もなく部屋を出て行った。……感じ悪いな――紅葉は心の中で悪態をつく。だが、少なくとも、リリザが実質的な現場の責任者であることがわかったのは安心材料といえた。
「……あちらの男性はオーナーの夜野さんですが、多忙なため、あまり顔を出すことはありません」
リリザは静かに言う。言外に『あまり気にしないで』と窘められているような気がした。
「はぁ……」
不安と安心が綯い交ぜになり、紅葉は曖昧な相槌を打つ。
「公開されているダンス動画は拝見させていただきました。スキル的には、申し分ないのですけれど――」
その言葉に、紅葉の心はわずかに軽くなる。ちゃんとダンスを見てもらえていた。それだけで、これまで費やしてきた無数の時間と、どこにも届くことのなかった努力が、ほんの少しだけ報われた気がする。
この劇場が、どんな場所なのかはまだわからない。だが、少なくとも、リリザという女性には、真摯に向き合うに足る何かを感じる――紅葉はそう思い始めていた。
「――なにぶん、ストリップ、ということなので」
リリザは少し思案してから、静かにそのように付け加える。
「はい」
紅葉は緊張しながらも、まっすぐに答えた。少なくとも、“喜んで脱ぎに来ました!”みたいな話にはなっていないらしい。それだけで、心の中に小さな安堵が広がった。
「ひとまず、今日の私のステージを見て決めてもらう、ということでいいでしょうか?」
「あ、はい……」
また『はい』としか言えていない。そう思って、紅葉は自分にがっかりする。だが、この様子だと、最終的な判断は自分に委ねられているらしい。ならば――“よほど”のことがなければ断ることはなく、そして――“よほど”のことがないことを祈ろう。
「では、そろそろ袖のほうに移動しますが」
リリザが言うと、花梨がすぐに補足する。
「どうします? フロアのほうから見ることもできるけど……」
観客席――そこには、いままさに女体を求める男たちがひしめいているはずだ。その中に混じって、心穏やかにステージを見ていられる自信はない。
「……男の人たちも、女子が混じってたら気まずいでしょうし」
紅葉の言葉に、花梨は笑顔でうなずく。
「では、袖の方から」
花梨は、すぐにリリザのあとに続いて歩き出した。紅葉もついていこうとしたそのとき、ふと尋ねる。
「ところで、篠田さんは準備しないんです?」
これに花梨は――待ってました、のような笑顔で、紅葉の鼻先に人差し指をビシリと向ける。
「ここでは、カリン、って呼んでね☆」
「は、はぁ……」
紅葉は少し面食らったが、そこはすぐに受け入れる。場のルールには従うべきだ。
しかし、やはり紅葉は気になる。
「……もしかして、『カリン』って源氏名でやってるんです?」
「はいっ♪」
その悪びれる様子のない返事に、紅葉は思わず肩を落とした。――本名そのまんまかよ。大した度胸……というか、深く考えてないだけ? 呆れながらも、その肝の座り方だけは認めるしかない。
花梨――いや、“カリン”は、どこか残念そうにはにかみながら続けた。
「カリンは、まだ練習生で……」
紅葉はそれを聞いて、思わず喉元まで出かかった言葉を飲み込む。――男なんて胸とか股間とかしか見てないんだから、ダンススキルなんて関係ないでしょ――だが、それを言ってしまったら、ここに来た意味そのものを自ら否定することになる。紅葉とて、その現実は承知している。それでも――稼ぎによっては加入するつもりであるのは事実だ。だから、どこかで期待してしまっている。――もしかしたら、この劇場が、自分のダンスの表現の場になりうるのではないか。そう考えてしまう自分に、紅葉は少し呆れる。ついさっきまで、『どうやって断ろうか』なんて逃げ腰だったクセに……なんて調子がいいんだろう、私。
結局のところ、自分はまだ、“自己実現”なんて高尚な領域には届いていないのだ。現実を見据えながらも、心のどこかで夢を手放しきれずにいる。その矛盾を抱えたまま、紅葉は静かに袖の方へと歩を進めていった。
ホールが暗転し、静寂の中に、荘厳な旋律が響く。ライブが――始まった。
曲はクラシック調でありながら、ディストーションの効いたエレキギターが挿し込まれる、いわゆる“ナンチャッテ・クラシック”。シンフォニックで重厚な構成ながらも、そのテンションはどことなく現代的だ。
そんなイントロのなかで、リリザがステージへと歩みを進める。その足踏みは、音楽に一歩も引けを取らないほど力強く、舞台の床を鳴らすごとに空気が震えるようだ。腕の動きには優雅さと激しさが交互に入り混じり、静と動――光と影――すべてを織り込みながら、全身でひとつの物語を編み上げていく。ステップは緻密で、ポージングには一切の無駄がない。床に片膝をつきながら、天に向かって右手を差し伸べたその瞬間、紅葉は息を飲んだ。――その瞳に宿る信念。それを、このホールに集まっている男たちの何人が、真正面から受け止められているだろう? 彼女の中に燃える“ステージへの情熱”が、どれほど伝わっているのか。
そして――曲が止まり、拍手が沸き起こる。リリザは深く一礼すると、しなやかに袖へと戻ってきた。
その姿に、紅葉は思わず気の抜けた声をもらしていた。
「す、ストリップ……?」
衣装は、最初に見た黒のドレスのままだ。どこにも“脱ぐ”という行為はない。
「脱ぐのは最後だけだよ」
カリンが笑顔で補足する。
その瞬間、紅葉の中で、答えは出ていた。――加入しよう。いや、ぜひ加入させてほしい。脱がずに踊れる機会があるなら、それだけで願ってもない話だ。
一〇分の休憩を挟み、二曲目が始まった。しかし、それは――
「だ、ダンス……?」
「うーん、ダンスではないけど」
カリンも問われるがままに訂正する。控室での準備の最中から何かおかしいとは思っていた。あのようなゴテゴテした西洋風の甲冑を身にまとって踊れるものかと。
ステージの檀上に立つリリザは観客席に向かって、高らかに叫ぶ。
「王子様のためなら……私は……私は……ッ!」
声が通る。震えているのではなく、抑えた激情の揺れだ。まさに迫真の演技。
一瞬、紅葉は目を奪われた。これはもう、舞台女優である。劇団出身なのだろう――と思わせるほど、セリフも表情も、観客を引き込む力を持っている。発声ひとつとっても、明らかに素人のものではない。
――自分にこんな演技ができるだろうか――? 不安が胸をかすめる。しかしすぐに思い直す。――ミュージカル風にすればいい。ダンス中心にすれば、ある程度カバーできるはず。それは、願望混じりの妥協案だった。正直、この第二のステージは紅葉には“重い”。だが、引き返すつもりもなかった。
しかし、そんな寸劇が終わったにも関わらず――いや、確かに終わったはずだ。敗北エンドという、どこかすっきりしない結末ではあったが、物語としては完結している。拍手も一通り起こった。
だが――幕が下りることはない。演者が捌けることもない。これはあくまで――ひとつのシーンの区切り、かのように。
そして――静まっていたはずのホールに新たなピアノ曲が流れ始めたとき――紅葉は察した。――ああ、そういうことか。つまりは、物語の続き。女騎士が敵に敗れ、捕らえられ――衣服を脱がされていく。いわゆる、シチュエーションAVのような演出なのだろう。
だが意外なことに、今度はセリフが一切ない。パントマイム――無言の芝居である。舞台の中央に置かれていた大きな台座は劇に必要だっただけではなく、このときのためでもあったのだ。リリザはその上で膝立ちになり、静かに甲冑のパーツを外していく。
胸当て、肩当て、腰のベルト……ひとつ、またひとつ。
そして現れたのは、真っ黒な下着。シンプルで、しかし輪郭を強調するようなデザインのブラとショーツ。だが、紅葉は思う――下着姿になどなってしまったら、世界観も何もあったものでもないだろうに。だが、それを気にするのはナンセンスなのだろう。
そしてリリザは、ブラを外し、ショーツもゆっくりと下ろしていく。観客席からは息を呑むような静寂。そして、じっと凝視する光。
けれど、紅葉の胸にあったのは、羞恥ではない。むしろ――無力さ。
あの高々と掲げた右足。そのポーズの美しさと、それを維持する筋力。
その難しさを理解している観客がどれだけいるのか。
伝えたいことが伝わってくれない――それが、紅葉にとってあまりにも歯がゆい。
そんな紅葉の隣では、カリンが、熱心にステージに見入っていた。練習生として、その姿勢は当然なのかもしれない。でも紅葉は、心のどこかで思っていた。
――そんなところを頑張っても、意味なんてないのに。
何度も言ってしまいそうなその言葉を、紅葉は胸の奥で噛み殺す。だが、舞台の上のリリザは、何も語らず、ただその“意味”のない行為を、美しく、丁寧に演じ続けていた。
舞台の幕が下り、観客たちがざわめきながらライブハウスを後にしていく。開演から終幕まで、わずか三〇分少々の構成だった。普通のライブと比べれば、明らかに短い。それに、実際に裸になっていたのは全体のごく一部。しかも最後の、ほんの数分に過ぎない。……これで、男たちは満足できたのだろうか――紅葉はステージの袖から去っていく観客の背を、どこか冷めた目で見送っていた。何もわかっていない――伝わっていない男たち――そこに興味も、憎しみもない。彼女にとって大切なのは、彼らが何を感じたかではなく、自分が何を表現したか――そのうえで、依頼されたパフォーマンスを果たし、その対価を得られればそれでいい。それだけが、いまの霧島紅葉の男に対する向き合い方だった。
控室へ戻ると、リリザはすでに普段着へと着替えていた。ニットのタートルネックに、落ち着いた色合いのスカート。特別な装飾はない。冬の室内に合わせた、どこにでもいそうな女子大生のような装い。あのステージで艶やかに踊っていた人物とは到底思えない、あまりにも年若く、普通の姿だった。
「どうでしたか? 初めてのストリップは」
鏡越しにこちらを見つめるリリザの表情は、あくまで穏やかで、どこか試すような色も感じられる。
「はい、素晴らしかったです」
紅葉は口に出してそう言った。けれど、表情がきちんと伴っていなかったことは自覚もしている。確かに、リリザのステージは感動に値するものだった。あれになら追随しても良い。だが――本当に、自分も踊らせてもらえるのだろうか。踊り続けることが許されるのだろうか――度重ねすぎた挫折の経験が、期待を顔に出すという機能を自分の中から削り取ってしまったのかもしれない。落選に次ぐ落選。解雇に次ぐ解雇。何度も見てきた、うわべだけの期待と、都合が悪くなった途端に突き放す言葉たち。信じたいと願うことに、もう疲れていた。ストリップ劇場? そんな水商売、風俗業の一端――どんな裏があるのかわかったものじゃない。安心や信頼とは程遠い業種である。
けれど、それでも。
「ぜひ、私も参加させていただければと」
自分の口から、その言葉が出た瞬間。紅葉はカリンが本当に手を叩きそうな勢いで喜んだのを見て、やはり少しだけ恥ずかしくなった。
その横で、リリザは、静かに口角を上げ、含みのある微笑を浮かべる。
「では……ダンスのスキルはすでに承知していますけど、“ストリップ”のほうも見せてほしい、と思っていまして」
やはり来たか、と紅葉は心の中で呻いた。ついに本題。まあ、最初からわかっていたことではある。
だが。
「……わぁっ、もしかして意外とやる気!?」
紅葉の強い眼差しに、カリンが横から茶々を入れてくる。これに、紅葉は心の中で舌打ちしていた。私にやる気があるのがそんなに意外? むしろ、やる気のなさそうな人間をスカウトしたつもりなら、誘ったほうのやる気のほうが疑わしいのだけれど。
しかし、リリザの視線は、真剣そのもの。だからこそ――紅葉は言い切った。
「はい、すぐにでもいけます」
覚悟は――最初からできている。ステージに立つと決めたときから。いまさら後戻りなどするつもりはない。
ホールのことはスタッフたちに任せて――少しずつ、ホールから賑わいが遠ざかっていく。その間、紅葉は待ちに待った待遇についてリリザから説明を受けていた。正直なところ、金額面については思っていたほどでもない。日給換算なら、せいぜい深夜のコンビニ程度のもの。写真や動画ならそのひとつを使い回せる分、楽にもっと稼げるだろう。だが――踊って、お金がもらえる――それが、紅葉にとって涙が出るほど嬉しいことだった。誇らしいことだった。そこに、金額以上の価値があった。
事実上話はまとまっているが、やはり見せるべきものは見せる必要があるのだろう。紅葉の舞台が整ったとき――客席はすでに空だった。わずかに残る照明スタッフたちが、静かに後片付けを進めている。彼らは照明の調整や機材の撤収に忙しそうだが、それでも、視線の端にこちらが入っていることは間違いない。――つまり、見られている。紅葉はふと、そんなことを思う。
だが、いまさら気にしても仕方がない。これからは、もっと“見られる”のだ。舞台の上で、観客の視線を一身に浴びることになる。それは、これから先の“日常”になるのだろうと、どこか諦めを滲ませながら、紅葉は静かに息を吐いた。
音楽ファイルは先ほど渡してある。選んだのは、Lunaruという新人アーティストの『冬のある日』という楽曲。先月デビューしたばかりのLunaruは、柔らかく温かみのある音楽性が特徴だ。デビュー曲『木漏れ日の中で』も、その名の通り陽だまりのような雰囲気を感じられる。今回踊る『冬のある日』はそのカップリングで、季節感のある、穏やかで押しつけがましくないメロディ。静かな生活の中にある小さな幸福を、そっとすくい取るような歌詞。――紅葉は、もしかしたら、そんな“何も起きない日常”に憧れていたのかもしれない。
静かにイントロが流れ始める。紅葉はひとり、ステージ中央に立った。
紅葉には、ダンスに対する自信はある。
けれど、ストリップが“演技”を含むひとり芝居形式で構成されているとは思ってもみなかった。その準備はなかった。
だから――予定通り、真っ向勝負に出る。
踊る。ただ、自分のダンスを、ちゃんと見てほしい。
一番、二番と踊りきり、大サビ前の少し長めの間奏に入ったところで、紅葉は呼吸を整えながら衣装に手をかける。
……意外なほど、あっさりと脱げた。それが自分でも驚きだった。そして、呆れた。さらに、その呆れを超えて――絶望した。この歳で、人前で裸になることに、こんなにも慣れてしまっている自分に。
ああ、こうしてここにいるカリンも、リリザも、そして他の踊り娘たちも――皆、同じように“慣れてしまった女たち”なのかもしれない。
その一員になってしまったことが、堪らなくつらかった。
けれど、それでもダンスは最後まで踊りきった。
絶望の中で、それでも彼女は、踊ることだけは裏切らなかった。
再び沈黙が訪れたステージの端では、カリンが楽しげに手を叩いている。笑顔で、心から称賛してくれているのが伝わってきた。紅葉は達成感のなか、脱いだばかりの私服を拾い上げ、身に着け始める。
「わぁ~……楓さんの生ダンス見ちゃったよ~」
花梨は、本当に楽しんでくれたらしい。対して、リリザの拍手は控えめだった。義務というよりは、礼儀に近い。その瞳には、何かを見透かすような光が宿っていた。
「確かに、ダンスのスキルは高いようですが――」
その言葉のあと、ひと呼吸。紅葉の背筋にひやりと冷たいものが走る。褒め言葉のはずなのに、なぜか全身が緊張していた。
そして、リリザは続ける。紅葉の本心を見透かすように。
「どうやら、裸になることにはやや抵抗があるようですね」
紅葉はいまの自分――すっかり着直してしまっている姿に気づいて、胸にチクリと痛みが走る。――例え、採用が内定しているとしても、ここは言葉だけでも誤魔化すところだ。
しかし――
裏垢では、“脱ぐのが大好きな痴女”を演じていた。仕事として、日銭を得るために。けれど、目の前にいるのは同じ女性――営業スマイルも、方便も――取り繕うことがいつもより一層苦痛に感じられた。
それで、つい。
「普通はそうだと思いますけど……」
口に出した瞬間、紅葉は『しまった』と焦る。だが、カリンは相変わらずにこにこと笑っているし――リリザが渋い顔をすることもない。もしかすると――配信済みの動画から、そのような感情さえも汲み取られていたのかもしれない。
「では、予定通りに」
リリザがすっと踵を返すと、カリンも楽しげにそれに続いた。紅葉はしばらく立ち尽くしたのち、ひとつ息を整え――歩き出す。
こうして霧島紅葉は、ライブハウス『ノクターン』の踊り娘――“楓”として新たなステージに立つこととなった。