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負の側面

※応募条件として未完成でも良いとのことなので公開しました。

清書したものはTwitter(現X)に毎日アップしてゆき、ある程度まとまったらさらに推敲して各サイトに完成版としてアップします。


 霧島(きりしま)紅葉(もみじ)は『自己責任社会』の負の側面である――


 夜の公園には冬の冷気が満ちている。年の瀬だからだろうか、普段よりも遠くのマンションや車道にも深い時間らしからぬ不自然な活気で満ちているようだ。暗闇の中、街灯の光がまるでスポットライトのように降り注ぎ、そこにひとりの少女の影を浮かび上がらせる。深いワインレッドを基調とした衣装は、夜の空気の中でも柔らかな光を拾い、紅葉の姿をさりげなく際立たせていた。派手さこそないが、すっきりとしたシルエットと控えめな光沢のある素材が、動くたびに陰影を作り出し、踊りのラインを美しく演出する。季節感は薄く、いつ如何なるときであっても“踊る”ことを第一に設計されたような装いだった。

 紅葉は静かに息を整え、スマホのスタンドを調整する。音楽が流れ出すと同時に、スマホのカメラが彼女の姿を映し始めた。彼女はゆっくりと足を開き、柔らかく腕を伸ばす。流れるような動きが、静かな夜の公園にひとつのリズムを刻んでいく。くるりと回ると、後ろ髪をまとめた襟元に揺れる真っ赤な紅葉の形をしたステンドグラスのような髪飾りが光を反射してきらめいていた。

 紅葉のダンスは、ただの自己表現ではない。彼女にとって、それは唯一の生きる実感を得られる手段だった。自分の足が、指先が、何もなかった空間に線を描いていく。自分の身体と、音楽がすべて結びついたと確信できる瞬間――それこそが、紅葉にとって至高のひとときだった。

 しかし。

 誰も見ていないこの空間で――彼女の存在は闇に流されるように消えていく。公園の片隅で、ただ彼女だけが踊り続ける――まるで、この世界に彼女ひとりしかいないかのように。

 最後のターンを決めると、紅葉はスタンドごとスマホを手に取り、録画を止める。そして、習慣のように動画アプリを開いた。『Red Hand Moving』――彼女が『楓』という名でダンスの動画を投稿し続けている場所である。もちろん、撮った動画をすぐにアップするわけではない。最低限のトリミングやサウンド合成は行うが――その前に、つい配信動画の動向が気になってしまう。しかし、確認してみると、再生回数はいつもと変わらず二桁のまま。これには思わずため息が漏れる。期待していなかったとはいえ、やはり落胆は拭えない。

 紅葉は自転車のかごに置いていたコートを羽織り、スタンドの柄の部分を縮めると、そのままスマホをゆったりとしたポケットに押し込む。そして自転車にまたがり、公園を後にした。帰り道の冷たい風が、彼女の気分をさらに沈ませる。街のネオンが遠くで揺れ、そこだけが別世界のように華やかに見えた。

 しばらく走ると、自宅のアパートが見えてくる。ボロボロの安アパート。その目の前には大きなマンションがそびえ立ち、完膚なきまでに日当たりを奪っている。紅葉の部屋はその一階。鍵を開け、無言のまま中へ入る。

 六畳一間の部屋は、小さくて質素だったが、掃除だけは行き届いていた。フローリングの床には無駄なものがなく、隅には小さな座卓が置かれている。炊飯器と電子レンジは年季が入っており、冷蔵庫は小さな備え付けのもの。シンクは綺麗だが、ほとんど使われていないことが一目でわかる。頼りないエアコンがかすかに部屋を温めてくれていた。

 部屋の隅には縦に細長い収納がひとつだけ。小さなハンガーラックが外に出ており、そこには三枚ほどの服がかかっていた。その隣には何かに使うのであろうポールが数本立てかけられており、さらにすぐ横には小さな三段の衣装棚が置かれている。そして、整然と畳まれて積まれた布団が部屋の隅でそこはかとない存在感を醸し出していた。

 紅葉は静かにコートをラックに掛ける。座卓の上に紅葉の形をした髪飾りをそっと置くと、そのまま無言で服を脱ぎ始めた。この家に脱衣所はない。浴槽はあるが、湯を張る気にもなれない。寒い真冬であってもシャワーだけ。熱い湯を浴びれば、一瞬だけ身体が温まる。しかし、それもすぐに冷え、濡れた髪が背中を伝う感触が寒さをさらに強調させた。

 バスタオルを適当に巻き、部屋へ戻る。窓の外には目の前の偉そうなマンションとそれに媚びへつらうように黒く沈んだ低い家々が広がり、まだ誰も目覚めていないようだった。紅葉は衣装棚の上にある小箱からマスクを取り出し、それを顔にかける。そして、スマホを手に取ると、録画ボタンを押した。スタンドごとそれを壁際の床に置き、反対側の壁に寄りかかるように座る。

 すると、画面に紅葉の裸の身体が映し出された。無機質な部屋の中、ただそれだけが動かぬ証拠として記録される。彼女は、腕を開き、足を広げ――そのまま、淡々と動作を繰り返していた。


 霧島紅葉は『自己責任社会』の負の側面である――


 最後の入金者に動画のダウンロード先を案内すると、紅葉はスマホを無造作に放り出した。用済みとなったマスクは捨てようとして外したのか、ゴミ箱のそばに転がっている。紅葉はシャツとショーツのまま、ゴロリと横になった。

 ――最初は、怖かった。心臓が張り裂けるほどの恐怖があった。初めて画面越しに自分の姿を売ったとき、目の前が真っ暗になった。どうしてこんなことをしてしまったのか、と涙が止まらなかった。けれど、それも最初だけのこと。いまは、何も感じない。ただひたすら、現実を受け入れ、淡々と行動するだけ。慣れたというよりも、自分に対する失望のほうが大きくなったのかもしれない。

 もう、守りたいほどの未来もない。ただ、それでも――ダンスだけはやめられないのだろう。それは唯一、紅葉にとって意味を持つもの。それだけが、彼女のいまを支えている。

 無造作に転がったスマホの画面に、新しいDMの通知が届いた。紅葉はため息をつきながら指を滑らせる。

 ――またか。

 先日、『オフパコ』を希望してきた男からの返信である。紅葉は『そういうのはしていない』と一蹴したはずだった。すると――それまで甘ったるい言葉を並べ、調子よく持ち上げていたクセに、途端に手の平を返して罵詈雑言を投げつけてくる。

『金目当てのビッチが仕事選んでんじゃねぇよ』

『どうせ股開いて生きてるくせに、プライドだけは一丁前か?』

『お前みたいなのが、ババァになって最後には誰にも相手にされずに野垂れ死ぬんだよ』

 言葉の一つひとつが、スクリーン越しにべったりとした嫌悪感を残す。知らず知らずのうちに、紅葉の指先には力強い憎しみが籠もっていた。

 ――本当に、どいつもこいつも変わらない。

 表向きは甘言を並べ、期待を持たせ、こちらにその気がないとわかるや否や、途端に見下し、罵倒する。そうやって、自分を正当化し、優位に立とうとする男たち。紅葉は、そんな連中をもう何十人と見てきた。

「ブロックするか……」

 そう呟きながら、指が止まる。過去に同じような手合いを餌に、何本か売れたこともある。わざと距離を置き、手に入らないものを演出することで、執着させる。気持ち悪い、と自分でも思う。けれど、それが現実だった。

 そんなことばかりを考えながら、紅葉は薄い布団を引っ張り出し、潜り込む。外では、ほんの少しだけ朝陽が昇り始めていた。朝が来ても、紅葉の世界は何も変わらない。

 ――もう、とっくに涙なんて枯れてしまった。


 朝方に眠りにつき、陽が沈んでからようやく目を覚ます――その生活に、紅葉が疑問を抱くことはない。夜の冷気を感じながら、紅葉は洗濯籠を抱えてアパートへ戻ってきた。細い月明かりが照らす道を歩きながら、いつもの静けさを感じる。この時間、すれ違う人はほとんどいない。たまに自転車のライトがちらつくが、彼女の存在に誰も気を留めることもなかった。

 玄関の鍵を開け、部屋に入ると、エアコンの温もりは頼りない。だが、それはいつものこと。設備の悪さには目もくれず、紅葉は部屋の隅へ歩み寄る。壁際に立てかけてあったポールを取り出し、手早く組み立てると、それは即席の室内物干しとなった。無駄のない動きでシャツや下着、それに撮影用の一張羅を一枚ずつかけていく。無地のシャツ、何の装飾もない下着――その中で異彩を放つのはワインレッドのストレッチ素材で仕立てられた一組のトップスとレギンス――淡々と並ぶ普段着の中で、ただひとつの希望の色といえるのかもしれない。

 干し終えたところで、スマホのアラームが鳴り始める。画面を見ると、時刻は二一時四〇分。紅葉は音を止め、視線を机の上に移す。赤い髪飾りが、静かにそこに残されていた。これは、“ダンサーとしての紅葉”が身につけるもの。ゆえに、今夜は必要ない。彼女は深く息を吐くと、ジャージの上からコートを羽織る。衣装棚の上には小さなハンドバッグが置かれているが、それには触れず、スマホをポケットに滑り込ませると、無言のまま部屋を後にした。


 紅葉はひとり、夜道を歩く。静まり返った街並みには、ネオンの光が遠くぼんやりと揺れている。冬の空気が頬を刺し、道端の街灯が作り出す影がゆらゆらと揺れていた。コンビニまでの道のりは徒歩一〇分ほど。途中、閉じかけた飲食店の前を通り過ぎると、店内からは年末らしい忘年会の賑やかな声が漏れていた。しかし、それらの喧騒も、紅葉の耳には遠い異世界の音のように聞こえる。

 やがて、目的の建物が見えてきた。ガラス越しに、中の様子がぼんやりと映る。自動ドアが開くと、店内の暖かい空気が冷え切った身体を少しだけ優しく包んでくれた。

 眩しすぎる蛍光灯の下、レジの向こう側では男女のバイトが楽しげに話している。その会話の中に、紅葉が入り込む余地などない。彼女は最低限の声量で「お疲れ様です」とだけ告げて通り過ぎる。

「お疲れ~」と、ふたりは振り向きもせず、形式的な挨拶を返すと、そのまま雑談に戻った。それに何を思うことなく紅葉はバックヤードへ向かい、コートをラックにかけると、制服に着替える。チェーン店共通のくすんだ紺色のトップス――ハーフジップ仕様の長袖シャツで、胸元には小さなロゴがあしらわれていた。白と灰の細いストライプが襟と袖口にだけ配されており、全体としては落ち着いた印象を受ける。それは、どこか事務服のようでもあり、控えめな清潔感があった。腰から下は私服のままで構わないが、紅葉はシンプルな黒のパンツを合わせている。

 そして、備品のパイプ椅子に座ったまま、ぼんやりとレジの方へ耳を傾けていた。

「このあと、サークルの連中とオールするんだけど、一緒に行かない?」

 男のバイトが軽い調子で誘う。女のほうも「行く行く~!」とノリノリで答えていた。――くだらない。紅葉は心の中で呟く。お前みたいな尻軽女など、無警戒について行ってマワされてしまえばいい。ご時世は『自己責任社会』だ。いまさら誰が同情するだろう。もし警察の調査が来たら、『喜んでついていってましたよ~』とでも証言してやろうか、と紅葉は適当なことを考えていた。

 ふっと息を吐き、スマホを見る。二一時五九分。紅葉は立ち上がり、ゆっくりとレジに向かった。一方その頃――レジの液晶パネルが『22:00』を示すと同時に、バイトのふたりが顔を見合わせ、「お疲れさまでした~!」と声をそろえて笑顔で退勤していく。紅葉は背を向けるふたりを無言で見送っていた。彼らの意識の中で、自分はもう存在していないのだろう。

 そして、レジの前に立つ。特にメモも貼ってないし、連絡事項はないのだろう。シフトに就いてすぐ作業に取り組むほど紅葉は勤労的ではない。少しレジ周りの様子を伺う様子を見せつつ、先のふたりが早く帰らないものかとぼんやり待っていたところで――ぎこちなく自動ドアが開かれた。

「おっ、おっ、お……お疲れ様ですーーーっ!」

 ガラス戸をこじ開ける勢いで、若い女性が飛び込んできた。ふわふわとした真っ白なコートに、光を受けてきらめく金色のウェーブヘア。膝上丈のミニスカートに、かかとがしっかりとあるロングブーツを履いている。身長は紅葉とほぼ同じだが、それだけに胸の大きさが際立っていた。篠田(しのだ)花梨(かりん)――紅葉とは深夜バイトでよく一緒になる。遅刻癖もいつものことだ。五分や一〇分の遅れなど、紅葉にとっては別段問題ではないので、気にしたことはない。しかし、遅れて来たのならさっさと仕事に入ればいいものを、花梨はぐずぐずとバックヤードで時間を浪費することが多い。どうせ、陽キャ連中と無駄に盛り上がっているのだろう。紅葉はレジの中で突っ立ったまま、それを気にするでもなくただ時間をやり過ごしていた。

 今日は大晦日ということもあり、こんな時間でも客足が途切れない。とはいえ、最近のコンビニでは、有人レジを使う客は少なくなっている。もはや、バイトの仕事は品出しと監視役がほとんどだ。なぜ監視役がふたりも必要なのか――答えは簡単。“監視役にも監視役が必要”というだけのこと――バカバカしい、と紅葉は内心で悪態をつく。

 物価は上がっているのに、コンビニの時給は年々下がる一方だ。楽ではあるが、決して人気のある仕事ではない。そんな事情もあり、深夜営業をやめる店舗も増えている。だからこそ、この店がこうしてこんな時間まで開いていることに意味があるのかもしれない。しかし、このコンビニもいつかは深夜営業をやめるときが来ることだろう。そのとき、自分はどうなるのか――また新しい仕事を探すのかと思うと、いまから紅葉の気分は重くなっていく。

 一〇分ほど経った頃、陽キャバイトのふたりが花梨を引き連れてバックヤードから出てきた。

「今度は来てくださいよ~」

「うんー、イクイク~」

 バイト男は軽いノリで花梨を誘い、彼女もまた軽いノリで応じる。紅葉には目もくれず、花梨だけに向けて「それじゃ、お疲れ様でした~」「よいお年を~」と年末の挨拶を交わしながら、彼らは店を出て行った。いつものことであり、紅葉も彼らに興味はない。

 そして、花梨がレジに入る。

「ごめんなさ~い。宇宙(そら)が混んでまして~」

 紅葉は思わず真顔でため息をつく。――せめて『道』って言えよ。だが、まともに取り合っても仕方がない。普段なら『はぁ』とか『そうですか』とだけ返す紅葉だったが――今日は何となく。

「……大晦日ですからね」

 紅葉は自分から話をつなげていた。意識していたつもりはないのだが、どこか意識に残っていたのかもしれない。

 だが――これまで会話のキャッチボールが成立したことのない紅葉から初めて意味のある言葉が帰ってきた――それに、花梨のテンションが一気に上がる。

「そっかそっか! それであんなにドローンが!」

 ――しまった、我ながら余計なことを……。紅葉はすぐに後悔した。何より、この電波女との会話が成立してしまったこと自体、自分の感性が正常に働いているのか疑わしくなってくる。

 花梨の話はどこへ飛ぶのか紅葉には予測がつかない。ドローンといえば、紅葉にとって憧れである。音楽に合わせて移動するカメラがあれば、より多彩なダンス動画が撮れるというのに。

 だが、憧れであると同時に、高嶺の花でもある。そんな話を膨らまされても惨めになるだけだ。紅葉はさっさとこの会話を終わらせるために、わざとらしく視線をそらす。

「……一応、棚見てきます」

「あー……」

 花梨は少し寂しそうに声を上げたが、それ以上何を言うことはなかった。紅葉が話したがっていないことは、花梨自身も察しているのだろう。

 紅葉が店内を見回すと、案の定、前のふたりはロクに売り場をチェックしていなかったようだ。ところどころに空きができており、紅葉は不愉快そうにため息をつく。――ナンパしてる暇があったら、仕事しろよ――そう思わずにはいられなかったが、彼らがこの“暇潰し”を残してくれたおかげで、無駄な会話から逃げる口実ができたことには、一抹の感謝くらいはなくもなかった。バックヤードに戻り、不足した品物をかごに入れ、売り場に並べる。無駄にきれいに、丁寧に。急ぐ理由もないから。

 そして、時計の針が指すのは十一時――商品補充のトラックがやってくる時間。車両のライトの接近に気づき、紅葉はちらりとレジに目をやる。花梨も、こういうときは無駄口を叩かず、ちゃんと働く。せっかくふたりいるのだから、適材適所で動けばいい、というのが紅葉の考えだ。少し前までは、トラックが到着すると、紅葉はさり気なく売り場のほうへ退避していたものだが、いまでは三者の間に阿吽の呼吸ができている。

 ドライバーがゴトゴトとケースを運び入れてきた。深夜の補充は、通常、明け方ほどの量はない。が、今夜は年越しである。起きている近隣住民も多いだろうと踏んで、いつもよりも番重の積み上げがやや高い。

「お疲れ様でーす」

 ドライバーの声に、花梨が明るく応じる。

「お疲れ様ですっ! こんな年の瀬に食料の有人運搬、大変ですね!」

 もう少し普通の労い方はできないのか――紅葉は思わず、花梨たちの顔を覗き見る。けれども、ドライバーのほうは「本当にまいっちゃうよー」なんて普通に返しているのでそこに違和感はないらしい。案外、話の中身はどうでもいいのか、それとも、笑顔やその他で誤魔化されているのか――考えたところで、どちらにせよ紅葉には得られないものである。得られれば、多少は生きやすくなるのかもしれないが、そういう生き方が自分に向いているとは思えないし、無理をしてまで得たいとも思わない。紅葉は見なかったことにして、黙々と商品を並べる。BGM代わりに聞き耳を立てていると――

「高速はともかく、市街地の自動運転化はなかなかねー」

「むぅ、それが現代(いま)のテクノロジーの限界、ということですかー……」

 なんだかんだで和やかな雰囲気になっている。こんなくだらない題材でも会話を広げられるのだから大したものだ。紅葉はそう思いつつも、自分があのように社交的に振る舞う姿は到底想像できない。簡単な納品確認をするだけとはいえ――不愛想な自分よりも、にこやかに話しかけてくれる花梨のほうが、ドライバーの気分もよいだろう。つまり――すべては、適材適所ということだ。

 ドライバーが去った後も、引き続き紅葉は淡々とパン関連の補充を済ませ、空になった番重を外に運び出す。作業を終えると、やることがなくなり、紅葉と花梨はレジで並んで突っ立っていた。

 花梨はさっきの“ひとつなぎのキャッチボール”の余韻もあり、どうにか話しかけようとソワソワしている。店内には相変わらず紅葉にとって何の興味も惹かれないコーポレートガバナンスが軽々しい音楽と共に垂れ流されていた。地球環境だの、サスティナブルだの――そんな遠い話より、目の前の生活のほうがずっと切実である。彼女の頭の中を絶えず占めているのはたったひとつの変わらぬ命題――すなわち――どうすれば、自分のダンス動画の視聴者数が上がるか。

 単純に再生回数を増やすだけなら、流行りの楽曲で踊ればいい。実際、そうやって再生数を稼ぐダンサーは多いし、紅葉もそのようにして増やしたことはあった。しかし、そのような形では、結局曲『だけ』を聴きに来る人が増えるだけで、ダンスを見に来る人は増えない。そうして動画単体の回転数が上がったところで、チャンネル登録者数にはつながらない。紅葉はそのことを、もう何度も痛感してきた。

 だから、裏垢を作り――裸で踊ったこともある。そうすることで、確かに一気に視聴者は増えた。しかし今度は、見られているのは裸体『だけ』――閲覧者の“民度”という意味では流行歌よりなお始末が悪い。

 あまりの酷さに裏動画はすぐに消し、SNSで“もっとわかりやすい写真や動画”を売って回る現在の“スタイル”に落ち着いている。そこに、ダンスはいらない――そう思い知らされた瞬間でもあった。


       ***


 霧島紅葉は『自己責任社会』の負の側面である――


 彼女がまだ八歳の頃、とあるアイドルが爆発的に流行していた。そのダンスを覚えた紅葉は、クラスの誰よりもうまく踊ることができた。小学校のダンス発表会では最優秀賞を獲得し、それを機にダンスを本格的に学び始めた。そして六年生になる頃には、全国大会で銀賞を獲得するまでに成長していた。

 しかし、それが紅葉のピークだった。

 中学に進学してからは、鳴かず飛ばず。様々なオーディションに挑戦するも、全滅。学業との両立もうまくいかず、次第に学校生活そのものが苦しくなっていった。それでも紅葉は、自分のダンスに自信を持っていた。誰かが認めてくれると信じていた。だが――誰も、紅葉の可能性を信じてくれることはなかった。――最も彼女の傍にいた、家族でさえも。

 かつて、学歴が生涯賃金と結びついていた時代もあった。しかし、いまは『自己責任社会』の時代。チャンスは多いが、保証はない。機会さえあれば誰でも受け入れられるが、実力のない者は容赦なく放り出される。

『中途半端な高校に進ませる余裕は、うちにはない』

 三者面談で、担当教師から、紅葉の学力に見合った高校を進められ――紅葉の母は、帰宅後の開口一番、そう言った。紅葉にとって、それは人生の転換点だった。この時代では、義務教育を終えれば成人と同じ扱いとなる。中学卒業後、紅葉は就職活動をしながら、ダンスのオーディションを受け続けた。

 しかし――

 数えきれないほどの落選を重ねてきたいま、霧島紅葉の心は、とうに折れている。自分を信じていた頃のように、何度も何度も同じオーディションを受けるほどの気力は、もう残っていない。せいぜい、新たなプロジェクトが立ち上がったという情報を耳にすれば、それに応募する程度。それも、昔のように期待に旨を高鳴らせるわけでもなく、どこか惰性のような気持ちで。最初は何かと入り用だろう振り込まれていた仕送りも、一年過ぎたところでぷっつり途絶えた。


『自己責任社会』――その正体は、無慈悲な『競争社会』だったのである。


 これまでにも、紅葉は様々な仕事に就いてきた。ファミレスのホール、ドラッグストアの品出し、居酒屋の洗い場、コールセンターの短期派遣――だが、どれも長続きはしなかった。彼女には、ダンス以外に特筆すべきスキルがない。他にもっと“適した”人材が現れれば、容赦なく切られてしまう。経営者という連中は、日頃どんなに愛想よく振る舞っていても、同じ笑顔で、契約の終了を通告してくる。――すべては代替の利く使い捨て――それが現実だった。

 いまでは、まともな就職を諦め、コンビニの深夜バイトで細々と食いつなぐ日々である。いや、食いつなぐことさえ、ままならない。

 だからこそ、紅葉は踏み切った。

 裸になって、股間をまさぐる動画を一本撮り、それを売る。

 それだけで、バイト一日分の稼ぎになる。

 おかげで、掛け持ちしていた二店舗のうちひとつは辞められ、そのぶん、ダンスに使える時間が増えた――増えることは増えた。けれども、そんな生活が長続きするわけもない。性目的のSNSでアダルト動画を宣伝しようにも、AIが考えたようなテンプレ文以上の工夫は思いつかず、注目を集めるには至らない。販売サイトに出展しても、より派手で破廉恥な女たちの中に埋もれてしまい、見向きもされない。自分の身体を切り売りしてさえ、これなのだ。ここで行き詰まったら、またバイトを増やすしかないか――いや、それとも、もっと“直接的な方法”で……?

 それを考えるだけで、紅葉の心は暗く沈んでいく。だから、できるだけ先のことは考えないようにしていた。

 次のダンスはどの曲にしよう。

 振り付けは?

 衣装に工夫の余地はないだろうか――

 ただそれだけが、いまの紅葉にとって唯一の生きている意味だった。


       ***


 店内の音楽は月単位でローテーションされており、忘れた頃に変更される程度。あとは、企画商品の宣伝か。流れてくる曲に振り付けを考える大喜利遊びにも飽きてきたので、そろそろ新しい別の曲をお願いしたい――などと本部にいるであろう選曲担当者に向けて投げやりな思いを馳せていたとき、不意に耳をくすぐるのは、ゆったりとした琴の旋律――『春の海』

 続いて、やけに丁寧な挨拶の声が流れてきた。

『あけまして、おめでとうございます。本年も――』

 特別バージョンの店内CMだった。時報と大差ないくせに、こんな一回限りのためによくやるものだ、と紅葉は冷笑を浮かべる。

 しかし、その横では――

「霧島さんっ、あけましておめでとうございます!」

 花梨が、ひときわ明るい声ではしゃいでいた。

「……あけましておめでとうございます」

 本当に面倒な挨拶だ、と紅葉は思う。

 年が明けたからといって何が変わる?

 去年も、今年も、変わる気配など一向にない。

 だが。

「二一〇〇年ですよ! 二一〇〇年! すごくないですか!?」

 そう花梨は、無邪気に笑っている。その年号を聞いた瞬間、紅葉は本能的にため息を吐く。

「……はぁ」

 たったいま、何も変わらないと思ったばかりのこのタイミングで、この能天気なはしゃぎよう。それが紅葉には、どうしようもなく鬱陶しい。

「二十一世紀最後の年! 霧島さんはどんな年にしたいですかっ!?」

「……篠田さんは、どんな年にしたいですか?」

 面倒くさかったので、紅葉は何も考えずオウム返しのようにそう問い直す。社交辞令を投げ返しただけのつもりだったが、返ってきた反応が意外だった。

「いや~……それは……ははは……」

 花梨は困ったように笑って、目を泳がせる。その様子が妙にバツが悪そうで、紅葉は思わず口元を緩めてしまった。そして、頭の中で思考が巡る。

 ――改めて思えば――

 年越しなんて、本来なら家族や恋人、友人たちと過ごすものだ。特に、こんな大きな節目のタイミングで、よりによってコンビニの深夜バイトのシフトを入れているというのは、逆に普通じゃない。花梨は金髪を巻いて、派手な服装をして、あけすけに軽口を飛ばしているが――それらもすべて仮面である可能性もある。

 ――意外と、闇を抱えているのではなかろうか?

 ……いや、別に意外でもないか。悪い男に引っかかって、借金を背負った女なんて、いくらでもいる。そういう意味では、この女も明るい未来の見えない自分と同族かもしれない。そう思うと、紅葉は内心でひそかにほくそ笑んだ。

 それに対して、花梨はちらちらと紅葉の方を窺っている。――あれ、いまちょっと仲良くなれた感じじゃない? やっぱり仕事は楽しく働きたいし……もしかして、念願のチャンスが巡ってきたのかも? ――などと、気楽なことを考えながら。

 その反面、この機会をどう活かせばいいのかが難しい。花梨は聞き上手で、世間話も得意だが、自分のことを語るのは苦手だった。これまでは巧みに誤魔化してきたが、いまだけはごまかしきれそうにない。

 でも、紅葉はいま、ちょっと“上機嫌”になっている――ように、花梨には見えている。今回を逃せば、次はいつになるかわからない。いや、次なんて、もうないかもしれない。……まぁ、もともと会話なんてなかったんだし、これ以上、悪くなることもないかー……そう腹を括って、花梨は口を開く。

「“カリン”の今年はですねー、もっといい写真をいっぱい撮りたいなーって」

「……写真?」

 思わず聞き返してしまった紅葉だが――実はそれ以前のところで引っかかっていた。――いい年して、一人称が自分の名前かよ……。そんなキャラクターだからこそ、無意識に避けていたのかもしれない。紅葉は、花梨が気に入らない本能的な理由のひとつに気づき、ひとりで腑に落ちていた。

 しかし、そんな納得の表情も、花梨を前向きにさせる一因となったらしい。

「うんっ。あっ、写真って言っても、撮るのはカリンじゃなくて、お兄ちゃんなんだけど」

 ……お兄ちゃん。その言葉に、紅葉の眉がぴくりと動く。つまり、この女は“被写体”ということだ。……どこぞのアイドルか、モデルにでもなったつもり? 紅葉は軽く鼻白む。そんな妹を撮りたがる兄というのも、なかなかのシスコンだし。“お幸せそう”で、何よりですな、と紅葉は内心で皮肉っていた。

 が、同時に――ほんの少しだけ、胸の奥にチクリとした感情が灯る。――羨ましいなんて、思ってないけど。家族なんて、紅葉にとってはもうどうでもいい存在である。だから、どうでもいいはずではあるが――無駄に仲睦まじい様子を彷彿とさせられると、紅葉も無駄に苛ついてしまう。

 だが――

 ここで、意外なことが起きた。花梨が、写真を見せてくることも、詳しく語ってくることもなく、ふいにふたりの間に会話が途切れたのである。これに、紅葉は少し驚いた。この花梨なら、当然のように『こんな写真撮ってもらったんですよ~』とか言いながらスマホを見せてくると思っていたのに。あれだけ人懐こい性格で、“自分語りが得意なはずの彼女”が――黙っている? ――少なくとも、紅葉は花梨のことをそのようなタイプであると認識していた。

 ゆえに。

 ……もしかしてトス待ち……? いや、この女に限ってそれはないだろう。この違和感に、紅葉の中で興味が生まれ始める。そういえば、さっきからやけに話しづらそうでもあった。

 ……まさか、言えないような写真? ハメ撮り? いやいや、相手が兄だぞ。じゃあ、ヌード……? それとも、まさかとは思うけど……アニメのコスプレ? 紅葉は眉間にしわを寄せ、心の中で小さく呟く。――もしそうなら、金輪際この女とは口を利かない。どうせその筋のアニメオタクたちにチヤホヤされて気分よくなってるんだろうし、そんな世界に生きてる人間とは、交わる気もない。

「……で、どんな写真を撮ってるんです?」

 自然な流れを心がけながらそう問いかけると、花梨が『待ってました!』と身を乗り出す……かと思ったが――やはり意外にも、彼女はまだモジモジとした様子で、目を伏せている。紅葉は、その反応に少しだけ安堵した。少なくとも、自慢したくて話したわけじゃないらしい。

 花梨は頬を指でかきながら、ようやく小さく口を開く。

「え、えーとね……カリンのお兄ちゃん、実は、それなりに有名な写真家で……そのー……ヌード、とか撮ってて……」

 ふーん、と紅葉は心の中で呟く。答え自体は、彼女の予想の範囲内だった。ゆえに、『ヌード』については驚くに値しない。

 だが。

『有名』と聞いて、紅葉の眉がほんの少しだけ動く。とはいえ、写真家の名前なんて、紅葉の頭に浮かぶのはせいぜいひとりかふたり。自分が知らないからといって、それが無名だという証明にはならないのは重々承知しているが、それでも――本当に有名なら、興味のない人間の耳にも、少しくらいは届くものだろうと思っていた。せっかく関与する可能性があるのなら、少なくとも、そのくらいの巨匠であってほしい。

 まあ、業界内での“有名”というのは、そういうものかもしれない。それでも、いまの紅葉には十分すぎる。写真家――芸術家――そんなコネのひとつでもできれば、何かしら自分の活動にもプラスになるかもしれない。

 ――もっと早く世間話でもしておけばよかったかもね――紅葉はそんな打算を潜ませつつ。

「興味ありますね」

 少し前のめりを装いつつ、短くそう返した。興味を持っている“演技”は、もはや数々のバイト面接で慣れたものである。

 しかし、その言葉を聞いた花梨の表情が、ふわりと綻んだ。奇異の目で見られることも、否定的な反応もなく、ただ穏やかに受け止めてもらえること――それこそが、花梨にとって一番安心できる反応だった。

 その空気を感じ取った紅葉は、さらに踏み込む。

「何枚か、見せてもらってもいいですか?」

 ここまで話しておいて、それを見せないというのも不自然だろう。紅葉にとっては、たとえ『いまは持ってないので、また今度』なんて返されたとしても構わない。ただの話の流れとして訊いただけなのだから。

「う、うん……」

 花梨はおずおずと頷き、ポケットからスマホを取り出す。そして、小さな声でコソッと。

「ミンナニハナイショダヨ」

 なぜか、片言で。緊張しているのか、はたまた照れ隠しなのか。紅葉は特別な反応も見せずに、無言でスマホの画面を見つめた。

 そこに映し出されたのは――紛れもなく花梨のヌード写真。

 だが、それは紅葉が普段目にしてきたような、低俗な自撮りでも、いやらしさだけを狙ったポーズでもなかった。

 光と影が丁寧に計算され、構図も洗練されている。肌の色、髪の流れ、視線の向き、すべてが計算されていて――美しかった。

 裸というより、彫刻のようだった。

 静謐で、凛としていて、見る者の心に何かを訴えかけてくる。

 それは、紅葉にとって――あまりにも残酷な現実だった。

 同じ『ヌード』という括りであるはずなのに、なぜこんなにも違うのか。

 この女は、こんなにきれいに撮ってもらっている。誰かに大切に、丁寧に、存在を切り取られている。

 それに引き換え、私は――

 薄汚れた古アパートの一室で、床にスマホを置いて、スタンドもろくに立てず、大した照明もない中、ただ下品に股をおっぴろげて――

 ――一体、何をやってるんだ、私は……!

「えっ、えっ?」

 突然、紅葉の頬を涙が伝った。止めようとしても止まらない。涙が、ぼろぼろと、こぼれていく。

「どうしよ……えっ、霧島さん……?」

 花梨は慌てふためいて手を伸ばそうとした。が、紅葉はその手を拒むように背を向け、バックヤードへと駆け込んでいく。レジの前に取り残された花梨は、どうすることもできずに立ち尽くしていた。戸惑いの表情のまま両手を胸元でぎこちなく揃え、何か声をかけるべきか迷っているようだった。


 バックヤードの片隅で、紅葉は膝を抱えて、声を押し殺しながらむせび泣く。

 これまで、どれだけ必死に“現実”を受け入れてきたことか。

 どれだけ、割り切ってきたつもりだったか。

 あくまで生活のためだ、仕方ないことだと、自分に言い聞かせてきたのに――

 そのすべてを、たった一枚の写真によって無言で否定された気がした。

 葛藤の末に踏み出した自虐の道でさえ、薄っぺらなものだったと突きつけられたようで、紅葉の心はいまにも崩れ落ちようとしている。

 しかし――

 膝を抱えて泣いていたところで何も変わらない――紅葉はそれを誰よりもよく知っていた。これまで何度も、どうしようもない現実を前に地に伏しながらも、それでも立ち上がるしかない――その度に、心をすり減らし、涙を枯らしてきた。

 他人を羨んだところで、自分が満たされるわけではない。卑屈になっても、誰も助けてくれない。そもそも、世間を恨んで、同情を買うように大暴れしたところで、そんな人間を雇いたい企業がどこにある。そんな厄介者のために社会が動いてくれる時代はとうに終わった。厄介者のために動くだけ動いた末に生まれたのが『管理社会』――そして、それを反面教師として積み上げられたのが『自己責任社会』である。

 この新しき時代もまた行き過ぎだったと顧み、揺り戻した頃には――紅葉のダンサーとしての最盛期はとっくに終わっていることだろう。

 だから、紅葉はいま動く。考えて動く。『内には、すべての不安を押し留め、外には、ただ踊るだけ』――それが、“霧島紅葉の知る唯一の処世術”であった。


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