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『ハンナ』の真実 ハンナside

  携帯電話を肩にはさんで通話したまま靴を履く。

『今日も、気をつけるのよ』

 心配そうな母の声に、瀬戸(せと)帆波(ほなみ)はしっかりと応えた。

「わかってます。大丈夫。浦女は警備が薄いし生徒数が多いから」

 ―――簡単に紛れ込める。

 名簿からも名前が消えてしまうから、正規の手続きを踏んだところで、受験すらできなかった。

 高校までは諦めて自宅で勉強していたが、一度学生になってみたかったから、大学に通うことに決めた。籍はないから、卒業の資格はもらえないし、テストも受けられない。それでも良かった。


「瀬戸さん」

 ―――同姓の子がいたんだ。

 帆波の名前は誰も知らないはずだった。

「ねぇ、瀬戸さんだよね」

 今度は肩を叩かれた。驚きすぎて、声が出なかった。

「私は、七海未来。よろしく。突然だけど、今晩空いてる?」

 無意識に、首肯してしまった。

 帆波に話しかけ肩まで叩いたらしい女性は、破顔した。

「今日ね、西邦大学と合コンするんだけど、一人足りなくて。瀬戸さん、来てくれない?」

 合コンどころか遊びの約束すら、したことがなかった。

「行きます」

 やっぱり無意識に、帆波は返事をしてしまったのだった。

 カラオケ店への道すがら、隣を歩く未来に訪ねた。

「どうして私の名前を知ってたんですか?」

 朝起きてから、誰にも名乗っていない。

 ―――もしかしたら呪いが解けたのかも。

「あぁ。配られたプリントに『瀬戸帆波』って名前書いてるのが見えたから」

 わかっている。未来に悪気は一切ない。

 それでも、帆波は泣き出したい気分になった。


 今更帰るとも言い出せず、店に着いてしまった。

 異様に高いテンションについていけない。ついていくきもさらさらなかった。

 隣の子からマイクが回ってきた。

「瀬戸帆波」

 愛想なく、不機嫌さを隠すこともなく。

 自身の周りに壁を張った。

 ―――もう帰りたい。

 ふと顔を上げると、目の前に座っていた男子と視線が合ってしまった。

「合コン、初めて?」

 面倒なことになったと思いつつ、合コンで女に話しかけるのは当然のことで彼に非がないのも事実なので、それなりに相手をしてやることにした。

「こうやって遊ぶのも初めて」

「何で。友達少ないとか?」

 随分とはっきりものを言う人だと思った。裏表のない人間は、嫌いじゃない。

「確かに友達いないけど。……虚しくなるのが嫌だから」

「虚しい?」

「そう。朝になって昨日のことを思い出すたびに、虚しくなる。あぁ、また全てが無駄だったな、って」

 昨日親しくなった人とも、今日はまたはじめましてから始めなくてはいけない。

 でもそのことには、とっくの昔に絶望しきって、今更傷つくも苦しいもない。

「皆、いつかは全てを忘れるの。今日という日も、皆忘れてしまう。意味のある行いなんて、何一つありはしない」

 そうひたすら自分に言い聞かせて。

「じゃあどうして今日、瀬戸さんは参加したの」

「気まぐれ。一度くらい、経験してもいいじゃない」

 彼は探るように、顔を覗き込んできた。

「信じたいんでしょ」

「え?」

 思わず、顔を上げてしまった。

「意味のある今日があるって、信じたいんでしょう」

 とっくの昔に、諦めたはず。

 でも未来に名を呼ばれたとき、舞い上がった自分が確かに存在したのだ。

「すみません。俺ら抜けまーす」

 いきなり手を引っ張られ、席を立たされた。

 状況が、全く理解できない。

「おい憲志、何考えて―――」

 誰かの声が背中に突き刺さったが、後ろ手に叩き閉めた扉が遮った。

「何処に行くのよ?」

 帰りたいと思っていた帆波は、これ幸いと憲志にされるがままになっていた。

「どうしようかな、田舎だからこの時間までやってるお店なんてそんなないし」

「無計画なんだ」

 ここまで派手なことをしておいて。

 不思議と、悪い気はしなかった。

「それなら、飛坂君の家にでもおじゃましようか」

 憲志がつんのめるように止まり、後ろに向き直った。

「自分が何言ってるか自覚してる?」

 ―――何って。

 家族以外とは初対面としてしか接したことがない帆波は、憲志の言いたいことがさっぱりわからなかった。

 すなわち無自覚。他意無し。

「……まぁ、いいよ。俺んち、ここから近いし」

 ひとつ頷いて、憲志が走り出した。それはあまりにも速くて。

「ちょっ、速いよ」

 夜の街を手を繋いで走っている大人。

 周りの視線が突き刺さるのを感じる。

「飛坂君、明日には変人扱いされてるよ」

 前を行く大きな背中に、非難する。

「その時は、瀬戸さんも噂の渦中だぞ」

 瞬く間に帆波の表情が陰る。しかし、前を向いたままの憲志はそれを知らない。

「噂になるのは飛坂君だけだから。だって飛坂君は、一人で走ってたんだから」

「はぁ?」

 怪訝な声を聞いてから、帆波は自分が失言していることに気づいた。

「………何でもない」

 いつのまにか、周りの風景はアパートの並ぶ住宅街になっていた。

「ここが俺の家。狭いけど、どうぞ」

 息切れして声も出せない帆波は、玄関にへたりこんだ。

「はい、水」

 差し出されたコップを遠慮なく受け取って飲み干すと、大分落ち着いてきた。

「ありがと」

 空になったコップを返す。

「ああ。―――ちょっと……やりすぎた、かな」

「これで『ちょっと』なわけ!」

 可笑しくなった。笑みが零れる。

 はっとした。

 感情が、一気に冷えていく。

「駄目。もう一歩も動けないから。飛坂君のせいだから。あーあ。飛坂君にせっかくの合コンから退散させられて。どうしてくれるわけ」

 そっぽを向く。

 無意識に、憲志に嫌われるための言動を探していた。

 どんなに取り繕っても、次の日には忘れられている。

 正直、それがとても辛くて……気づけば自ら周りに壁をつくるようになっていた。

 深く関わろうとしなければ、忘れられたときに痛くない。

 それは、心を守るための防衛本能だった。

 不自然な沈黙が横たわる。

「ごめん」

 ポツリと降ってきた謝罪。

「は、それだけ?散々走らせて、引っ張って」

 そっぽを向いたままだから、憲志の様子はわからない。

 嫌われたい。忘れられてよかったと思えるような、最低な関係がいい。

 ―――心からそう思っていたはずなのに。

 何故だか無性に、泣きたくなった。

「……って、うわぁっ!?」

 視界が突然上昇した。

 膝裏と背中に、熱を感じる。

「何すんの!」

 抗議の声を上げると、直ぐそばにあった顔が不思議そうに傾いだ。

「一歩も歩けないって言うから。晩飯食うだろ。食卓へゴー、だ」

 憲志の思考回路が、全く意味不明だった。

 唯一帆波が理解したのは、今自分が俗に言う“お姫様抱っこ”とやらをされているということだけだった。

「何食べたい?」

「……」

「わかった」

「………………はぁ!?」

 シカトしたのに、受け流された。

 食事中も、帆波が嫌われるためにつく嘘をことごとくかわされ続けた。帆波が一切反応しなくても憲志は気にも留めず、不思議と会話を成り立たせてしまう。

 無駄な抵抗を続けているうちに、気づけば十時を回っていた。

「うわっ、もうこんな時間。瀬戸さんは帰らなくて大丈夫?」

「飛坂君が引き止めてたんでしょうが」

 こめかみをぴくつかせる。

「あ、それもそっか。でも、帰りたくなさそうな顔してるから」

 もう、ここまでくるとどうでも良くなってきた。

 そう割り切って改めて考えてみると、ここまで深く関わってきた他人は、憲志が初めてだ。

 魔が差した。

 どうせ相手は綺麗さっぱり帆波のことを忘れる。だったら、話したいことを話したいだけ、話せばいい。

「もう直ぐ、今日が終わるね」

 帆波は、自分から話し掛けた。驚いた憲志の顔に若干ムッとする。

「今日も、虚しいか?」

 何気なく口にした言葉さえ覚えていてくれたことも、癪だった。

「いつも以上に、ね」

 だから、棘のある言い方をした。

 悲しげに俯く憲志を見て、少しかわいそうかもと感じた。

 投げやりに、手を横に振る。

「違う違う。いつもより充実していたって意味」

 見ず知らずの他人にいきなり手を掴んで駆け出され、何故か晩御飯をもてなされている。

 ここまでわけがわからない充実した一日も、そう無いだろう。

「充実してて、虚しいのか?」

「今日という日が楽しかったのは、私一人だけだから」

「俺、すっごく楽しいよ」

「だからこそ。その記憶を飛坂君が忘れてしまうのが悲しい」

 ―――悲しい。

 久しぶりの感覚。忘れられることに慣れきり、擦り切れ、麻痺していた感情だった。

「忘れないよ、俺、」

 また夢を見てしまいそうで、怖くなった。

 一生叶うことのない、とっくに諦めたはずの夢を。

「無理、だよ」

 それは、自分に言い聞かせるための台詞。

「何でそうなんだよ。理由は。俺が瀬戸さんを忘れるって言う根拠はあるのか」

「聞いても、絶対信じられない。馬鹿にするに決まってる」

「聞かせて欲しい。信じるから」

 試してみたくなった。

 憲志が帆波の話を聞いて、どんな反応をするのか。

「原因は私にもわからない。でも、産まれたときからそうだったみたい。私ね、家族以外には記憶されないの」

 帆波は、何度かこの話をしたことがあった。誰にも信じてはもらえなかった。次の日には、結局全てを忘れられた。

「深夜〇時になるとね、全てが消える。記録にも残らない。戸籍さえも存在しない」

 ちらりと壁掛け時計を見ると、十時二十分を指していた。

「つまり、あと一時間半くらいで、俺から瀬戸さんの記憶が無くなるってことか」

「そういうこと」

 時計を見つめたまま、目が離せなくなった。

 憲志の反応を知るのが、怖くなった。割り切っていたはずなのに。

「……辛かったな」

 それは、とても優しい声色だった。

 視線を前に戻すと、憲志が梅干を食べたかのような顔をしていた。

「辛、かった」

 その言葉は、すとんと胸の奥に下りてきた。

「瀬戸さんのことは、記録でも完全に消えるんだよな?」

「うん。私の名前は絶対に残らない」

「じゃあ、偽名だったらどうなる?」

 帆波は目を瞬いた。

 考えたこともなかった。

 第一、消えるのは何も名前だけではないのだ。瀬戸帆波に関係したこと全てが根絶やしにされる。

「ノンフィクションが消えるなら、脚色を加えてやればいい」

 偽名の次は、脚色ときた。

 帆波が戸惑っている間に、憲志はノートパソコンを取ってきた。

 何やら操作をする。

「〇時まであと一時間半もあるんだ。実は俺、作家志望なんだよね」

 子気味いいタイプ音が聞こえてきた。

「瀬戸さんの下の名前、漢字どう書くんだ?」

「え。船にある帆に、海の波―――だけど」

「オッケー」

 隣に移動して、画面を覗き込む。

「ハンナ?何でまたそんな、外国人みたいな名前なの」

「漢字を別読みしてみた。帆波と書いて、ハンナと読む」

「そんなんで、大丈夫なのかな……」

 膝を抱えて、見守っていた。

 内容は事実とところどころ違っていたが、それこそが憲志の目的だろうから、口は挟まなかった。

 物語は現在へ。

 再び時計を見ると、一一時四十分をさしていた。

「え……」

 終わりを迎えたと思っていたのに、憲志はまだ書き続けていた。

「何書いてるの」

「瀬戸さんが望む未来」

 そこには、幼い頃に描いた未来が確かにあった。

 叶わないと諦めて、捨てようとして―――捨て切れなかった夢。

 帆波は憲志に語っていない。それなのに、最後の一文は正に帆波が切に願ったささやかな夢そのものだった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 優しい笑顔を向けられて。

 心から笑った。今までで一番、嬉しかった。

 憲志の首が、かくっと下がった。まどろみ始めている。

「あれ、おかしいな…いつも一時くらいまで、普通に起きてられる……の、に…………」

 もう、十分だった。

 これ以上を求めたら、もう戻れなくなる。

「記憶を消去するためだよ。次に目が覚めたとき、飛坂君は私のことを忘れてる。…おやすみ」

「嫌だ。俺…忘れないから。絶対に、俺が起きるまでここに………いろ」

 頑張って抵抗しているのが伝わってくる。でも、駄目なのだ。呪いはそんなに甘くはない。

 しばらく、深い眠りに落ちた憲志を見つめていた。

 次に、もう一度憲志が帆波のためだけに作り出してくれた物語を読んで、心に刻んだ。

 ―――「おはよう、ハンナ」

 そうやって、名前を呼んでくれる。

 私が最も望んだことを“フィクション”として“現実”にしてくれた。

 いつか本当に、こんな朝が来るのではないか。

 もう一度そう思わせてくれた。

「本当にありがとう」

 パソコンをシャットダウンして、憲志の家を出た。

 起きるのを待つつもりなんて無かった。

「あなたは、誰?」

 そう言われることをわかっていたから。

 もう少しだけ、夢を見ていたかった。

 憲志が取り戻してくれた夢を、憲志の言葉で潰されるのだけは嫌だった。

 会わなければ、勝手に自分の都合のいい想像をすることができる。朝になって、いなくなった帆波を必死で探している姿とか。合コンに出席した人たちに、帆波を覚えていないのかと問い詰める姿とか。

 想像して創造するのは自由だ。

 憲志が作ってくれた可能性という希望が、帆波を支え続けた。


 あっという間に半年が過ぎ、季節は冬になった。

「寒っ」

 本屋に入ると、暖かい空間が出迎えてくれた。

 新刊に手を伸ばす。ただの時間つぶしだった。ぺらぺらとページをめくる。チラシにぶつかった。

『第三十二回長島文学賞 受賞者発表』

 さして興味もなかった。―――その名前を見つけるまでは。

『最優秀賞 ハンナ 飛坂憲志』

 どうして。

 疑問符が舞った。

 消えるはずだった文章。

 それが、応募され、受賞している。

 『ハンナ』は、消えなかった。

 帆波は、希望が膨らむのを自覚した。

 ―――もしかしたら、憲志はまだ私を覚えているかもしれない。

 本屋を飛び出して、電車に乗った。まだ、憲志の家の位置を正確に覚えていた。

 扉の前に立つと、緊張して足震えた。

 チャイムを鳴らす。

『はい』

 懐かしい声。

「あの、瀬戸帆波です」

 高鳴る鼓動。

『せと、ほなみさん……?』

 その瞬間、全てを悟った。

 嗚咽を堪えるので、精一杯だった。

 何処をどう歩いたのかわからないが、気づけば自分の家の前だった。

 逃げた。

 憲志から。夢から。現実から。


 十月一日に『ハンナ』が発売されることを知った。

 もちろん、発売日に買った。内容は、あの日に読んだよりも整っていた。でも、確かにそこには帆波が存在した証があった。

 ハンナは帆波ではないからこそ存在し得た。

 同時に、帆波がいなければハンナは存在し得なかった。

 ハンナはこの世でたったひとつ、瀬戸帆波がいたことを証明してくれるものになった。


 本の売れ行きは、帆波の想像以上だった。ドラマ化したときに起用されたハンナ役の女の子は美人過ぎて、恥ずかしくなったりもした。今『ハンナ』という存在を知らない人はいないと言えるほどだった。

 二〇〇一年十月一日。『ハンナ』の発売から丁度十年。

 意を決して、帆波はもう一度だけ憲志に会おうと思った。

 一言、お礼を伝えたかった。


 憲志の家は、もぬけの殻だった。


 表札も抜き取られていた。

「そっか。あんなに本売れたら、もっと豪華な家に住むよね……」

 ずっと、ここに来ればいつでも会えると思っていた。

「あら、飛坂さんに御用?」

 年配の女性に声をかけられ、帆波は慌てて首を縦に振った。

「どちらに引っ越されたか、ご存知ですか」

「失礼ですけど、飛坂さんとはどういうご関係かしら」

 他人だとわかったら、教えてもらえないだろう。

 どうせ明日になれば全てが消える。

「妹なんです。お兄ちゃん、転居先言わないで行っちゃって」

 帆波は、心の中で目の前の女性に謝罪した。

「それは大変ねぇ。ちょっと待ってて、住所メモした紙持ってくるから」

 親切なおばさんが教えてくれたのは、ここより小さなアパートの住所だった。

 ここに大ヒット作『ハンナ』の作者がいるとは、到底思えなかった。しかし、教えられた部屋番号の横には確かに『飛坂』と書かれている。インターホンは無かった。

「すみません、飛坂憲志さんはいらっしゃいますか」

 ノックして呼びかける。

 息が詰まりそうだった。ドアが開くまでの間が、酷く長く感じる。

 憲志の瞳に、帆波の姿が写し出されていた。

「はい。どちら様でしょうか」

 慣れきっているはずのその言葉に、傷ついている自分がいる。

 憲志は、十年のうちに見違えるほどやつれていた。

 髭は伸びきり、髪の毛は肩についている。

「あの……?」

「あっ、ごめんなさい」

 呆然としていた。

「私、飛坂先生のファンなんです。瀬戸帆波といいます」

「………なら、どの作品読んだことあるんですか」

 氷のような眼差し。

 ひるみながらも、正直に答えた。

「『ハンナ』と『チロル帽』です。どちらも好きで、何回も読み返しました。『ハンナ』はいつも持ち歩いてます」

 身分証ももてない帆波にとって、『ハンナ』こそが自身の証明だった。

「ご愛読、ありがとうございます。……『チロル帽』読んでるだけましか」

 ボソッと呟いた声を、帆波の耳はしっかり拾った。

「何かお気に触ることがありましたか?」

「いや、俺のファンだっていう大体の人間は、俺じゃなくて『ハンナ』のファンだから」

 お世辞にも、『チロル帽』が売れているとは言えなかった。『ハンナ』の影響があってこの冊数なら、『ハンナ』がなければどうなっていたかは考えるだに恐ろしい。

「でも私、本当に『チロル帽』も好きなんです。最後に悪役も含めた皆が幸せになれる。すごいと思いました」

 素直な感想だった。

「ありがとう。そう言ってくれたのは、瀬戸さんが初めてかもしれない」

 憲志はそう言って破顔した。

「ぜひ、『雪女』も読んで欲しいな」

「『雪女』?」

「俺の三冊目」

 作家飛坂憲志の動きは、注意深く追っていたはずだった。それなのに、取りこぼした。

「今日中に買って読みます」

「んー、あれ出版冊数少なかったからな。手に入りづらいと思うんだ。少し待ってて」

 一旦中に入った憲志は、本を手に戻ってきた。

「これあげます」

 水色の表紙をしたそれは、『雪女』だった。

「いいんですか!?」

「何冊も持っててもしょうがないし」

 その後、帆波が『雪女』まで持ち歩くようになったことは言うまでもない。

「本当にありがとうございます」

 それは、沢山の意味をこめた感謝の言葉だった。

「突然お邪魔して、申し訳ありませんでした」

 踵を返すと、後ろから待ったがかけられた。

「また是非、来てください。この職業になって、ほとんど人と会ってないから。話とかできると嬉しくて」

 想定外の言葉に、帆波はどう答えたものかと逡巡した。

「嫌、ならいいんです」

「違います!嫌なんてことは全然ッ」

 両手をぱたぱたと振って、否定した。

 〇時になったら忘れてしまう相手と、未来の約束なんて一生できないと思っていた。―――でも。

「わかりました。またいずれ」

 たとえ憲志が忘れても。

 それでもいいと、思った。

 ―――だって私は覚えているから。


 何度も何度も、憲志の家に足を運んだ。

 毎回交わすはじめましての挨拶には、どうしても苦しくなった。会えば会うほど、その苦しさは増した。

 帆波の中で憲志との思い出が増えるほど、憲志に帆波との記憶がないことを嘆いた。

 それでも憲志に会いたくて。

「飛坂さん、いらっしゃいますか」

 いつものように声をかけた。

「飛坂さんー?」

 返事が無かった。出かけているのかと考え何時間も扉の前で待ってみた。それでも一向に帰ってくる気配が無い。

「飛坂さん、入りますよ?」

 ドアノブに手をかける。

 かちゃり、という金属音と共に、扉が開いた。

 ―――嫌な予感。

「飛坂さん、ご在宅ならお返事を――――――」

 仰向けに横たわっている、彼は。

「どうしたんですか!しっかりしてください!!」

 乱雑に靴を脱ぎ捨て、目を瞑ったままの憲志に飛びついた。

「起きてください!」

 眠っているのではないことは、わかっていた。

 震える指で、携帯電話を取り出し、一一九をコールした。

「どうしよう……」

 憲志の身の回りのことは、帆波にはわからない。このまま救急車にこられても、明日には全ての人の記憶と記録から抹消される帆波ではできることが限られすぎていた。

「飛坂さん、ケータイお借りします」

 着信頻度が一番多い人。

「もしもし、橘さんですか」

『はい。あの、あなた憲志じゃないですよね』

「飛坂さんが自宅で倒れてるんです。今すぐ来てください!」

『え、あの。本当ですか』

「本当です。早く、早く来て。お願いします」

 それだけ言って、電話を切った。

 他に何をしたらいいのか思いつかずに、憲志の手を握った。額に嫌な汗をかいた。

 しばらくして、後方でバタンと扉の開閉音がした。

「憲志!」

 振り返ると、スーツ姿の男性が肩で息をして立っていた。

「橘さんですか」

「あなたは?」

「瀬戸です」

 倒れている憲志を見て、春樹はそれ以上尋ねなかった。

 遠くから、救急車の音が聞こえてきた。


 憲志は、余命三ヶ月を宣告された。

 もっと早くに、憲志の具合が悪いことに気づきたかった。

 毎日強制的にリセットされる帆波の人生の中で、ここまで後悔したのは初めてだった。

 それからは、ほとんど毎日お見舞いに行った。

 どんどんやつれていく憲志の姿に胸が苦しくなる。それでも、少しでも元気をわけてあげたかった。かつて帆波の心の支えになってくれていたように、憲志の支えになれればと思った。


「おい、それって……」

 憲志は毎回、帆波の鞄の中に目を留めた。

「常に持ち歩いてるんです。お守りみたいに」

 見つけてくれると、嬉しくなる。

 そこに『ハンナ』がいると、見つけてくれたようで。

「せっかく来てくれたわけだし。そこ、座りなよ」

「はい!」

 叩き出されることも極稀にあったけれど、大概は話し相手になって欲しいと言ってもらえた。

 幾度もしたたわいもない話。同じ台詞を繰り返そうとも、帆波にはそれで十分だった。

 帆波と話すことで少しでも不安と孤独が薄らいだのなら、これ以上の幸せは―――。

「あの、飛坂さん」

「何?」

 ずっと聞きたかったことがある。でも、答えを知る勇気がなくて、胸に仕舞いこんでいた。

 知らないままなら、きっととても後悔する。

「『ハンナ』を書こうと思ったきっかけとかって、教えていただけますか」

 夢を、持ち続けたかった。

 『ハンナ』は帆波のためだけの物語だと。

「正直言うと、自分でもわかんない。気づいたら書けてたっていうか」

「そうですか」

 落胆しなかったといったら嘘になる。

 それでも、凝り固まって沈殿していた何かが、するりと浄化された気がした。

「普通、そこで納得しちゃう?」

「だって、覚えていないことを問い詰めても仕方ないじゃないですか」

 呪いは、絶対に解けない。

「そろそろ、お暇させていただきます」

「また、よかったら来てくれないかな」

 憲志の優しさが、今は痛い。

「失礼しました」

 夢を見させてくれた感謝を込めて、礼をした。

 もう、希望も捨てよう。諦めよう。

 ―――あれ?これって……憲志と出会う前の自分に戻っちゃうんだ。

 憲志が与えてくれたもの。その全てを否定する行為。

 ―――そんなの、嫌だ。

「「あのっ!」」

 声が重なった。

「あ、お、お先にどうぞ」

「俺は何でもないです。瀬戸さんどうぞ」

 出鼻をくじかれて、言葉に迷った。

「……あと、二ヶ月なんですよね?」

「何で知ってるの」

 失言。まさか、「あなたの第一発見者は私です」なんて言えない。顔を逸らした。

「………ハンナ、を…思い出してください」

 声がかすれた。

「どういう意味?」

 しっかりと、憲志の瞳を見据えた。

「ハンナは―――実在します」

 驚愕する憲志。

 目の前にいるのに、憲志はそれに気づけない。

 それは私のせい。私にかかった呪いのせい。だから皆悪くない。忘れられても仕様がない。

 ぐっと唇を噛み締める。

 主人公ハンナは、私の唯一の希望だった。

 本来、文章にさえ残らない私の記録を、偽名とフィクション故に繋ぎとめてくれた。帆波は確かにこの世界に存在するのだと示してくれた。

 全てを諦めていた帆波を救ってくれた憲志だから。

 ―――あと二ヶ月は、希望を捨てないでおこう。


「あっ!」

 机上にそれを見つけたとき、思わず大声を上げてしまった。

「どうしましたか?」

「『ハンナ』、お読みになるんですか……?」

 憲志は『ハンナ』が大嫌いなはずだった。

「え、ええ。まぁ。実を言えばつい最近まで逃げてたんですけど。でも死ぬ前に、ハンナの正体つきとめたいなぁと思いまして」

 もしかして。

 淡い希望が膨らんでいく。

「正体、ですか?」

 僅かに声が震えた。

「友人に言われて気がついたんですけど、『ハンナ』の登場人物にはみんなモデルがいたんです。だけど、どうしてもハンナだけは、誰をモデルにしたのかを思い出せなくて」

 急激にしぼんだ。

 そこから先は、まだ聞かないでおきたかった。

 まだ夢を追いかけていたい。

「あ、あの、そろそろ帰らないとなので」

 我ながら不自然すぎると思いつつも、逃げるように立ち上がって、ドアに向かう。

「引き止めちゃってごめんなさい。ぜひまたお会いしたいです」

 慌ててたような声。

 未来の約束ができないのは、憲志も同じはずだった。

 帆波の理由は、記憶が消えるから。

 憲志の理由は、命が消えるから。

 残された時間は僅かだった。

「きっと、また」

 笑ったのに、どうしてか憲志は慌てた顔のままだった。

 廊下を少し進んで鏡の前に来たときようやく、帆波は自分が泣いていることを知った。


「どちら様ですか?」

 何十回、いや何百回となく聞いた言葉。

「はじめまして。瀬戸です」

 笑顔のままでこれを言えるまでに随分と長い時を要してしまった。

 もう、憲志の好きなものなら何でも知っているし、どんな相槌を求めているのかも知り尽くしている。憲志の知らないことでさえ、帆波は知っていた。

「どうしてだろう。瀬戸さんをずっと前から知っていたような気がする」

 初めて、そう言われた。「前から知っていた」と言われて嬉しいはずなのに、笑えなかった。

 憲志がそわそわするのを見て、帆波は慌てて言葉を継いだ。

「―――そうですね。私も、飛坂さんを昔から知っている気がします」

 限界だった。

「そろそろ帰りますね。長居してしまってすみません」

「また来てくださいね」

 その心が、何よりの救い。

 それ以上を求めてはいけなかったのだ。

 呪いが解けることは絶対にないと、わかっていたはずなのに。

「ありがとうございます。きっと、また」

 言葉とは裏腹に、帆波はこれっきり憲志に会わない覚悟を決めた。

 近くにいれば、多くを望んでしまう。

 夢をそっと、心の奥底に封じ込めた。

 今度こそ、もう二度と手が届かないほど深い場所へ。


 ✻     ✻     ✻


 憲志が、亡くなった。

 どんな最期だったのかは、逃げてしまった帆波にはわからない。

 会わないと決めてからも、病院には足を運んでいた。お葬式の日程は、憲志を引き取りに来た彼の両親から聞き出せた。

 喪服を着て、会場に赴く。

 棺の中で眠る姿を見ても、まだ憲志が亡くなったのだという実感がわかなかった。

 全てが無事終了した会場で、誰かがマイクの前に立った。

「私は、憲志の友人の橘春樹と申しまず。憲志から、生前頼まれたことがあり、この場をお借りいたしました。作家としての飛坂憲志のファンだという方は、明日朝七時にもう一度この会場へいらして下さい」

 ぱらぱらと人が減り始めた会場内で、帆波も席をあとにした。


 ✻     ✻     ✻


 五時起きは流石にきつい。

 何故七時から葬儀場に行く必要があるのかは謎だ。それでも、憲志の恐らく最期の頼みを、叶えてあげたかった。

 二十分前に着いてみると、未だ誰も来ていなかった。

 三冊の宝物を抱いて、ラウンジのソファーに腰掛ける。人が増え始めるにつれ、腕の中に向けられる視線を感じた。

「あら?『チロル帽』なんてあったかしら」

「『ハンナ』の一年後に出たじゃないですか。でも……『雪女』は私も聞いたことないですね」

 漏れ聞こえる会話。

 ここに集まった大半は、憲志ではなく『ハンナ』のファンのようだった。


「皆さん、お待たせいたしました。こちらの部屋へお入り下さい」

 春樹が部屋の扉を開け放つ。

 帆波は、一番前の席に堂々と座った。この中で一番、作家としての憲志を好きな自信があった。

「それでは、憲志からの伝言をお伝えします」

 腕の中に、憲志と積み上げた一方的な思い出の重みを感じた。

 憲志からの、最期の言葉は―――。


「おはよう、ハンナ」


 会場のざわめきも、一様に怪訝な顔をする『ハンナ』のファンたちも、その時の帆波には一切届いてはいなかった。

 春樹の口から発せられた憲志の言葉だけが、脳内に響く。

 目を大きく見開き、そして堪え切れずに後から後から、帆波の頬を涙が転げ落ちる。


 春樹は何も知らなかった。

 帆波のことなど一切記憶に存在しなかったのだ。

 彼が日付を越えても憲志の言葉を言えたのは、それが春樹にとって“憲志の遺言”であり“物語の中の台詞”だからだ。春樹はその言葉が誰に向けられたものなのか知らない。春樹にとってこの言葉は、瀬戸帆波という人間と一切関係が無かったのだ。

 記憶と記録の消える条件の隙を突いた、最初で最後の機会。

「おはよう。憲志」

 腕の中で熱を持った三冊の本に向かって応える。


 呼ばれたのは本当の名前じゃない。

 ハンナは憲志が私にくれた名前。記憶から消されることのない、フィクションとしての名前。……それでも。

 憲志は現実にしてくれた。

 朝に名前を呼んでもらう。

 私には一生叶わないはずの夢だった。

 それを現実にしてくれた。

 それで十二分だ。

 今日を、明日を、これからを、生きていく意味はここにある。

 確実に今、心の底からそう思えたから。


 刹那。

 頬と唇に、優しい温もりを感じた。

 見えない手に自身の手をそっと重ねると、不思議と涙が止まっていた。

「ありがとう」

 小さく呟いた声と共に、どこかで鳥がぴぴ、と可愛らしく鳴いた。


       ―――Fin.

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