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『ハンナ』の真実 作者side

 

 こんなはずではなかったのに。

 何度も寝返りを打ちながら、飛坂(ひさか)憲志(ただし)が考えることは決まってそれだった。

 有り余った時間で、現在のこの状況を作り出してしまった原因を探る。結論はとうに出ていた。

 ―――全ては、『ハンナ』のせい。


 大学病院の一人部屋。そこが一ヶ月前からの憲志の住処だった。

 体調が優れないという自覚は随分前からあった。それでもなかなか通院しようとしなかったのは、金銭的な問題があったからだ。

 大学在学中に応募した『ハンナ』は、みごと最優秀賞を受賞し、出版されることとなった。すると、たちまち重版がかかり、本屋大賞をとり、ドラマ化までした。

 調子に乗らないわけがなかった。

 ドラマの最終回を迎える頃には、かつて「俺には才能がない」などと思っていたことを都合よく忘れ、一生作家で食べていくと決心していた。

 執筆に専念するために、大学も中退。自宅でパソコンと向かい合う日々が続いた。

 やはり、憲志には文才なんてなかった。

 何年経っても作品と呼べるような物語ができない憲志に対し、編集者の態度も次第に悪くなっていった。それでも『ハンナ』以外に二冊出版させてもらえたが、どちらもほとんど売れなかった。

 専属作家でなくなり、長島文学賞にもう一度応募したが見向きもされず、他社に持ち込んでも結果は同様だった。

 集中力が異常に発達していることのデメリットは、周りが見えなくなること。

 作家を続けることしか頭になくなっていた憲志は、お金の稼ぎ口がなかった。『ハンナ』の印税やらで生活していたのだが、それも底が見え始め、かといって親にたかるほどずうずうしくはなれなかった。

 無茶な切り詰め生活。このどこに、病院に行くお金などあるというのだろうか。いや、ない。

 ボロアパートの風呂なし部屋で倒れているのを発見してくれたのは、親友の(たちばな)春樹(はるき)だった。

 現在入院費を払ってくれているのも、IT企業の社長になった春樹である。作家という夢を諦めきれずにいる間に、二十一年もの時が流れていた。それは真面目に働いていれば、社長になっていてもおかしくはないほどの年月だったのだ。

「あはは……」

 自嘲的な笑いが零れる。

 二十一年間脇目も振れずに突っ走ってきて、手に入れたものは何だ。失ったものなら沢山浮かんでくる。友達、信頼、お金……。

 手に入れたのは―――。

「癌、ね」

 そして、余命三ヵ月を宣告された身体。

 そのうち一ヶ月は既に消え去ってしまった。残り二ヶ月。

 しかし、憲志にはもう自分が何をしたいのかさえわからなくなっていた。

 コンコン。

 ドアがノックされた。

「どうぞー」

 看護師だろうかと思いつつ、適当に返事をする。

「失礼します」

 緊張した面持ちで入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。色素の薄い髪はふわふわとカールし、肌は透けるように白い。しかし一番に目を引いたのは、左目の泣き黒子だ。

「どちら様?」

 見覚えのない顔なのは確かなのに、憲志がそう聞いたとたんに彼女は泣きそうな顔をした。

 慌てて記憶を探りだしたときには、もう笑顔で。

「初めまして」

 ぺこりと頭を下げた。

 さっきの表情はきっと思い過ごしか見間違えだろう。

「私、瀬戸(せと)といいます。あの、えっと……飛坂先生の大ファンなんです」

 憲志はげんなりした。作家としての飛坂憲志を恨み続けて一ヶ月。今更、ファンなんて。

「俺がここに入院していること、どこで調べたんですか」

「ごめんなさい。ご迷惑、ですよね。―――帰ります」

 ふと、彼女の鞄の中に目が留まった。

「おい、それって……」

 指さすと、恥ずかしそうに三冊の本を取り出した。

「常に持ち歩いてるんです。お守りみたいに」

 それぞれの表紙に書かれている文字は、『ハンナ』『チロル帽』『雪女』。それは、憲志が作家として世に出した本の全てだった。

「君が好きなのは、『ハンナ』だけしゃないの」

「私はちゃんと、飛坂先生のファンだと言いました。『ハンナ』のファンだなんて、一言も言っていません」

 嬉しかった。

 初めて、自分が認められたような気がした。

「まぁ、その、せっかく来てくれたわけだし。そこ、座りなよ」

 手で椅子を示す。

「―――はい!」

 たわいもない話をした。こんなに自然に笑えたのは、久しぶりだった。

「あの、飛坂さん」

「何?」

 瀬戸はしばらく視線をさまよわせ、言葉を探していた。

「『ハンナ』を書こうと思ったきっかけとかって、教えていただけますか」

 これまでにも同じ質問をいろんな人にされてきた。インタビューでは定番だ。

 でも憲志は、これに対する答えを持ち合わせてはいなかった。

 朝起きてメールをチェックしようとパソコンを立ち上げたら、ワードが開きっぱなしだった。そこに書かれていた文章が『ハンナ』の元だ。

 あえて考えないようにしてきたが、もしかしたら『ハンナ』は、憲志が書いたものではないのかもしれない。

 憲志は、『ハンナ』を執筆したときの記憶が酷く曖昧だった。確かにその前夜、キーボードを叩き続けていたと思うのだが、その時何を考えて、どうして『ハンナ』を書こうと思い至ったかが思い出せない。

 マスコミには嘘を吐いてきたが、飛坂のファンだと言ってくれた瀬戸には、そうしたくなかった。

「正直言うと、自分でもわかんない。気づいたら書けてたっていうか」

「そうですか」

 曖昧な答えに対し疑問を持った様子もなく、あっさり納得されてしまう。

 もっと食い下がられると思い込んでいたので、憲志はうろたえてしまった。

「普通、そこで納得しちゃう?」

「だって、覚えていないことを問い詰めても仕方ないじゃないですか」

 瀬戸の言うことはもっともで、反論のしようがなかった。

「そろそろ、お暇させていただきます」

 時計の針は無情に進み続けていた。

「また、よかったら来てくれないかな」

 それには答えず、瀬戸はただ切なく笑った。

「失礼しました」

 最初同様頭を下げる。

 何となく、もう二度と瀬戸に会えない気がした。

「「あのっ!」」

 二人の声が重なる。

「あ、お、お先にどうぞ」

 瀬戸に先を譲られてしまったが、憲志には言いたい言葉などなかった。ただ呼び止めてしまっただけで。

「俺は何でもないです。瀬戸さんどうぞ」

「……あと、二ヶ月なんですよね?」

 憲志はそのことを瀬戸に教えてはいない。一体情報の入手先は誰なのか。

「何で知ってるの」

 顔を俯けた。憲志の問いに答えることへの拒絶。瀬戸の口をついたのは、それとは全く関係のないことだった。

「………ハンナ、を」

 搾り出すような声。

「思い出してください」

 憲志には瀬戸が何を言いたいのか理解できない。

「どういう意味?」

 意を決したように、勢いよく顔を上げた。

「ハンナは―――実在します」


 ✻     ✻     ✻


 花瓶の水を取り替えながら、春樹が笑った。

「それでその女の人、走って出てっちゃったのか」

 ぶすっとしたまま、頷く。

 お偉い社長さんに世話してもらうのは申し訳ないと思いつつ、実家はかなり遠いところにあるため頼れるのは春樹だけだから仕様がない。

「ハンナに本当に心当たりないのか?」

「ない」

 即答する。

「可能性として、ハンナって、偽名なんじゃないの」

「は?」

「いやさ、『ハンナ』に出てくるケンはお前――ただしにそっくりじゃん。で、多分シュンは俺――はるき。ハンナって人物はいなくても、ハンナのモデルになった奴がいるんじゃないか」

 その可能性は考えたことがなかった。主人公が自分に似ているとは憲志自身は感じていなかったし、シュンを春樹と思ったこともない。

 でも、少なくとも春樹にはそう捉えることができた。ならば、他にも憲志が見落としていることがあるのかもしれない。

「なぁ春樹、頼みがあるんだけど」

「何だ。」

「今度来るときさ、『ハンナ』持ってきてくんない?」

「りょーかい」

 向き合わなくてはいけないと思った。

 憲志は、ずっと『ハンナ』から逃げていた。

 一人歩きして有名になっていく『ハンナ』を重く感じ、押入れの奥に封印した。最後に読んだのは何年前だろう。

 あと二ヶ月。

 思い残すことがないように。

 ―――『ハンナ』の真実を突き止めよう。


 ✻     ✻     ✻


 今日お見舞いに来てくれたのは、春樹ではなく未来(みく)だった。

七海(ななみ)、ごめんな。わざわざ着替え届けてもらっちゃって。」

「いーのいーの。旦那の親友かつ私の親友でもあるんだから。堂々とお世話になっときなさい」

 未来の笑顔は、歳を重ねることでさらに魅力が増していた。

 彼女は春樹の最愛の人だ。結婚して『橘未来』になったが、憲志は未だに旧姓の『七海』で呼んでいた。

「あ、そうそう。春樹から預かったものがあるよ。憲志君に持ってきて欲しいって言われたって」

 差し出されたものに、憲志は目を点にした。

「―――何故に、今更『ハンナ』?」

 それは、憲志の処女作だった。

「何故って、憲志君が頼んだんじゃないの?」

 首を横に振る。

 憲志にはそんな記憶は一切なかった。

「おっかしいわねぇ……」

 未来は何気なくぱらぱらとページをめくった。

 ひどく懐かしい。

 憲志に親しい人ほど、憲志の人生を狂わせた『ハンナ』を好まない。憲志自身も未来も、『ハンナ』を近くで見るのは久しぶりだった。

「あのさ、前から聞きたいことがあったんだけど、いい?」

「何、聞きたいことって」

 未来はあるページを開いて、指差した。

「この合コンってさぁ、私と春樹が出会った合コンをモチーフにしてるでしょう?」

「え」

 憲志は『ハンナ』を読み返し始めた。

「多分、ミライって私でしょう。あの時憲志君は序盤でいきなり飛び出してっちゃって」

 当時を思い出し、未来はくつくつと笑った。

「じゃあ、ハンナは誰だよ。女子集めたのは七海だし、運命の人と出会った合コンだし、覚えてるだろ」

 眉間にしわを寄せて考え込む。

「あの時は……女子一人足りなかったよね」

「嘘つくな。男の人数が足らないからって、俺が無理やり連れてかれたのに」

「あーそういえばぞうか。じゃあ、誰がハンナだったんだろう。憲志君と一緒に飛び出しってった子は……」

 必死で考える。

 しばらく二人して呻っていたが、ついに未来がポツリと呟いた。

「……もしかして、本当にこの子のことだけ皆の記憶から抹消されてたりして」

 沈黙。

「なーんてね。ありえないわよね……?」

「そうそう。現実にあるわけがない……よな?」

 再びの沈黙。

 一縷の可能性を打ち消す要素を探そうと思考すればするほど、全く思い出すことのできないハンナに、その可能性を肯定したくなる気持ちの方が膨らんでしまう。

「まぁ、俺たちが忘れっぽいだけかもしれないし」

「そうね。今度、その合コンに参加した友達たちに電話して心当たりないか聞いてみる」

「何かわかったら教えてくれな」

「了解」

 何かがある。

 そう思わずにはいられなくなった。

「とりあえず、『ハンナ』は置いて帰るね」

 こくりと頷く。

 命数尽きるまで、あと一ヶ月と数週間。

 思い残すことがないように。

 ―――『ハンナ』の真実を突き止めよう。


 ✻     ✻    ✻


 ノック音が聞こえ中に入ってきたのは、憲志と同年代の女性だった。

「どちら様ですか?」

 彼女は泣きそうな顔をした。

「瀬戸といいます。橘さんの部下で、代わりに見舞いに行って欲しいと頼まれて、来ました」

 素性を明かし終わったときには、既に笑顔になっていた。

 きっとさっきの翳った表情は、泣き黒子のせいで見間違えたに違いないと憲志は確信した。

「どうぞ、椅子に」

「ありがとうございます」

 もう起き上がる力すらなかった憲志は、ついと視線を横に向けた。

「あれ?」

 見間違えだろうかと、目を瞬く。

 視線に気づいた瀬戸は、鞄からそれを取り出した。

「あ、これですか?飛坂さんはあの作家の飛坂憲志先生だと窺ったので」

 見間違えではなく、確かにそれは憲志の三冊の本だった。

「『チロル帽』と『雪女』まで」

「はい。私、飛坂先生のファンなんです。―――あっ!」

 突然、瀬戸が大声を上げた。

「どうしましたか?」

 ついと指差され、机の上に『ハンナ』を開きっぱなしにしていたのを思い出した。

「『ハンナ』、お読みになるんですか……?」

「え、ええ。まぁ。実を言えばつい最近まで逃げてたんですけど。でも死ぬ前に、ハンナの正体つきとめたいなぁと思いまして。」

「正体、ですか?」

「友人に言われて気がついたんですけど、『ハンナ』の登場人物にはみんなモデルがいたんです。だけど、どうしてもハンナだけは、誰をモデルにしたのかを思い出せなくて」

 瀬戸は身じろぎした。

「あ、あの、そろそろ帰らないとなので」

 立ち上がって、ドアに向かってしまう。

「引き止めちゃってごめんなさい。ぜひまたお会いしたいです」

 慌てて背中に呼びかける。

 振り返った彼女は―――泣いていた。

「きっと、また」

 涙を拭うことなく綺麗な笑みを閃かせた瀬戸は、憲志がかけるべき言葉を探しているうちに、帰ってしまった。

 残された憲志は、呆然と卓上の『ハンナ』を見つめていた。

 どれくらいそうしていたのだろう。

 コンコン。

 再びの訪問者。

 ―――もしかして、瀬戸が戻ってきたのだろうか。

 淡い期待を胸に、返事をする。

「どうぞ」

 空いた隙間から現れたのは―――春樹と未来だった。

「あれ。今日は来られないんじゃなかったの?」

「誰がそんなことを言ったのさ」

 春樹が不思議そうに尋ねる。

「たった今、お前の部下が俺の見舞い頼まれたって。俺のファンで……」

「そんなこと、誰にも頼んだ覚えないぞ」

「私もないな」

 それでは、瀬戸は一体。

「もしかして、左目に泣き黒子のある女性か?」

 春樹の問いに目をむく。

「どうして知ってんの」

「いや、二週間くらい前もファンが来たって言ってたから、その子かなと思って」

「二週間前?俺のこと見舞いに来たのは、家族以外じゃ春樹と七海だけだぞ」

 憲志には、それ以外の人物が来たという記憶が全くなかった。

「でも確かにお前は会ってるはずだ。『ハンナ』を持ってきてくれって言ったのだって、その子がきっかけだし」

「は?」

 ―――俺が『ハンナ』を持ってきてくれと頼んだ?

 そういえば未来もそんな風に話していたが、憲志はそのときの春樹とのやり取りが酷く曖昧だった。

「じゃあ、私にハンナについて調べて欲しいって頼んだのは覚えてる?」

 窺うように顔を覗き込まれ、憲志はしっかりと頷いた。

「覚えてるよ」

 春樹と未来は、安心したように微笑んだ。

 どうやら、憲志の記憶が不確かなのは病気のせいだと思われていたらしい。

「あれから全員に電話してみたんだけどね、皆ハンナに当たる人はわからないって言うの」

「俺も、バスケ同好会の奴らに電話したけど、女子は四人だったと思うって」

 憲志は少しほっとした。

 ハンナは始めから現実にはいないのだと。

 憲志が生み出した、物語の中だけの存在なのだと。

「でも、ひとつ引っ掛かることがあってね」

 未来が真剣な面持ちになった。

「あの日使ったカラオケに行ってみたの。あそこの店長さん超几帳面でね、お客の記録細かくとって保存してるから。あの日のデータを見せてもらってきた」


 二十二年前の予約記録を見せて欲しいという無茶苦茶な願いに、壮年の店長は嫌な顔ひとつせず調べてくれた。

「一九九〇年の六月二十三日、午後六時から予約した、たち―――じゃなかった、七海未来です」

 パソコンをぽちぽちと操作する。

「んーと、七海七海………あった。四時間フリードリンク、十名様でご予約いただいてます。当日いらっしゃったのもぴったり十名」

 未来は、息を呑んだ。

「本当に、十人でしたか?」

「はい。……あ、でも、途中で二名様が帰られてますね」


 未来の話が、憲志には信じられなかった。

「私だって、びっくりしたよ。頑張ったけど、ハンナのこと全然思い出せないもの。でも確かに、ハンナは実在するんだと思う」

 日付を跨ぐと、全ての人の記憶と記録から消去されるハンナ。

「俺、ハンナの正体がわかったかもしれない」

 憲志の言葉に、二人が驚嘆した。それに構わず、黒の油性マジックに手を伸ばす。

「ちょっと、何してるの!」

 あろうことか、憲志は『ハンナ』の表紙に文字を書き出してしまった。

「お前の突拍子もないところは、昔のままだな」

 耐性のある春樹は動じない。

「これでよし」

 憲志は満足げに、何度も頷いた。

『ハンナは左目に泣き黒子がある、同年代の女性』


 ✻     ✻     ✻


 入院生活は、暇で暇で仕方がなかった。テレビを観るのももう飽きた。

 コンコン。

「はいー」

 顔はテレビに向けたまま、生返事をする。

「失礼します」

 春樹か未来だと思い込んでいた憲志は、聞き覚えのない声にようやく顔を上げた。

 左目の下には泣き黒子。


「どちら様ですか?」


 彼女は、穏やかな笑みを浮かべて答えた。

「はじめまして。瀬戸です」

 話し相手が欲しかった憲志は、瀬戸に椅子を勧めた。

「もしかしてそれ、『ハンナ』『チロル帽』『雪女』ですか?」

「はい。飛坂先生の大ファンで」

 そこから会話が始まった。

 瀬戸と憲志は不思議なほど趣味が同じだったし、憲志が好きな本は瀬戸も大好きで、マニアックな話をしても通じた。

 打てば響く返答。それはまるで、憲志以上に憲志を知り尽くしているようだった。

「どうしてだろう。瀬戸さんをずっと前から知っていたような気がする」

 その瞬間、瀬戸から笑みが消えた。

 何かまずいことを言ってしまったのだろうか。

「―――そうですね。私も、飛坂さんを昔から知っている気がします」

 その応答に、ほっとする。

 しかし瀬戸はやっぱり、泣いているように見えた。

「そろそろ帰りますね。長居してしまってすみません」

「また来てくださいね」

 憲志は何気なく、声を掛けた。

「ありがとうございます。きっと、また」

 瀬戸の笑顔が、瞼の裏に焼きついて離れなくなった。


 ✻     ✻     ✻


「春樹、毎度ごめんな」

 持ってきた着替えを棚にしまい、洗濯物を鞄に詰めている春樹の背中に謝罪した。

「何だよ今更。困ったときはお互い様だろう」

「俺、何も返せてねーもん」

 拗ねた様に言うと、爆笑で一蹴された。

「わ、笑うなよ!」

「いやごめん。俺は憲志から沢山もらってるのに、何を拗ねてんだかと思って」

「あげたって何を」

「んー、未来とか」

 確かに、二人を結婚までもっていったのは憲志の功績が大きかった。

「私がどうしたって?」

 花瓶の水を替えに行っていた未来が戻ってきた。

「別に」

 真っ赤な顔で春樹が即答した。背を向けている未来は、その様子に気づいていない。憲志は必死で笑いを堪えた。

「あー!え、嘘、嘘でしょう!?」

 突然大声を上げて、未来は棚に乗っていた『ハンナ』を手に取った。

「どうした―――って、え!」

 金魚のようにぱくぱくと口を開閉させる春樹。

 憲志も『ハンナ』を覗き込んだが、どこもおかしなところはない。

「何で驚いてんの」

 春樹と未来は、顔を見合わせた。

「これ見て、どこもおかしいと思わない?」

 表紙を向けられ、憲志は首を捻った。

「別に、いつも通りじゃ」

「記憶が消失してる………」

 未来は、食い入るように表紙を見た。

 何度瞬いても、何度目を擦っても、やはりそこには何もない。

「お前、油性マジックでここに文字書いてたろう……?」

「は。本の表紙にマジックでなんか、ありえない」

 疑心難儀だった二人も、もはや信じるほかなくなった。

 記憶と記録の抹消。

「ここにはな、『ハンナは左目に泣き黒子がある、同年代の女性。』って書かれてたんだ」

「左目に泣き黒子……」

 どんなマニアックな話でも通じた。それはきっと―――。

 彼女は一体どんな気持ちで「はじめまして」と言ったのだろう。

 どんな気持ちで、次に会う約束をしたのだろう。

 ―――余命幾許もない俺が、彼女にできること。

 久しぶりに脳がフル回転しているのがわかる。

 かちり、と最後のピースがはまった。

 親友の目を真っ直ぐ見つめる。

「春樹、一生のお願いってやつ、使ってもいいか?」

 憲志の願いを聞き、春樹は確かに頷いた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

この作品には続きがございます。

ぜひ次のお話もお読みいただけますと幸いです。

感想もお待ちしております。

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