『ハンナ』
著者:飛坂 憲志
この時間の部室に居るのは、今日も俺ひとりだった。
パーティー開けのポテトチップスやら、封を切られて放置されたマシュマロやらが散乱した部屋に、キーボードを叩く音のみが響く。
その音が、ぱったり途絶えた。
数秒後、タイプ音の代わりに発されたのは、発狂する男の叫び声だった。
先に述べた通り、現在この部屋には一人しかいないため、必然的に声の主は特定される。
ここで俺自身の保身のために弁解を許されるとするならば、断じて頭がおかしくなったのではない、とだけ主張しておく。俺は至って正常だ。正常なまま発狂しているということが、果たして正常なのかはさておき。
「あー。また煮詰まっちゃってんの?」
誰もいないはずの背後から声がし、俺は椅子に座ったまま、頭だけを後方へと向けた。
レイバックイナバウアー。それは俺と、某フィギアスケート選手の得意技であった。ちなみに、最近の採点法では全く加点されないらしい。俺のこの業は生かされずに散っていく。
このとき俺は、自分がスケートなど一度もやったことなんてないのを綺麗さっぱり忘れていた。
上下が逆さまになった世界で、全身黒尽くめの男が立っていた。……残念ながら、彼は別に闇の組織の方でもなんでもなく、ただ黒が好きな大学生だ。
「今日の授業の分のノート、ここ置いとくぞ」
ポテチの隣に向かっている。
「ストオオップ!俺の手の中に入れてぇ」
ばたばたと両手を振ると、ついにバランスを崩して椅子から転げ落ちた。
強かに腰を打ちつけ、床に伸びる。
「馬鹿じゃないけど、馬鹿なんだよなお前」
ぽすっと、頭に何かが乗る。顔の前まで引っ張り下ろすと、先ほどのノートだった。
「この体たらくを他の真面目な学生さんたちが見たら、卒倒しそうだね。不動の一位が、まさかこんな奴なんて」
親友の言葉を右から左へ受け流し、今日の分のノートを見る。
「なぁ。まだこんな範囲やってんの?ここ確か、俺が高校のときに勝手に勉強しちゃったんだけど」
俺は別に、天才でも何でもなかった。
その代わり集中力が異常なまでに発達していた。
高校三年間、俺は勉学に没頭した。理由なんて特になく、ただ勉強しようかな、という気分にまかせて机に向かっていた。
その結果、大学の範囲までいってしまった。それだけのことだった。
現在、俺は過去の自分に感謝している。おかげで、大学では勉学ではないものをすることができるから。
脅威の集中力は、短所でもあった。同時に二つのことができないのだ。勉学をしつつ何かをする、なんてことは俺には不可能なのだ。
大学に入ってから、集中の対象になったもの。それは。
「まーた、コメントし辛いクオリティーだな」
振ってきた親友の声に、身をこわばらせた。
「大体この話、主人公は誰なんだ。人物多すぎて訳がわからん」
「学園ものを書きたくてぇ~。どうせならクラスみんなに出番あげたいな、と。ほら、仲間外れはよくないよーって」
精一杯、可愛い顔を作る。
「その顔何、キモイ」
一蹴された。
毎度のことだった。俺が小説を書くたびに、親友のシュンに読んでもらっては、没られる。その繰り返し。
そんな日常も今年で三年目。
大学生になって俺が集中したのは、小説の執筆だった。大学在籍中に大きな賞をとって作家になる。それが俺の目標だ。
しかし、俺は気づき始めている。……いや、とうの昔に気づいていた。
俺には才能がない。
書いても書いても、いい物語は紡げない。
考えても考えても、アイデアは浮かんでこない。
「俺もそろそろ、進路とか決めないとだよなぁ」
呟いたとたん、シュンが倒れたままの俺の肩を揺すった。
「ケン、頭打ったか」
大真面目に心配されてしまう。
「だってさ、もう三年生なわけじゃん。流石に諦めが肝心かなーとか思っちゃったりしちゃったりもする」
高校時代に勉強した貯金があるとはいえ、そろそろ就職のことを本気で考えなければ危ない。
「お前でも、諦めることってあるんだ」
認めたくはないが、今回ばかりは仕様がない。
萎れる俺に、シュンは不敵な笑みを浮かべた。
「まぁもう少ししたら、ケンに理想と現実の差を教えてやろうと思ってたとこだから、俺に言われる前に自分で気づけてよかったんじゃん?」
耳が痛い。
「明日から、また勉強かぁ」
溜め息ひとつ。
「そんなケン君に、楽しいイベントのお誘いです」
倒れたままの俺を引き起こしつつ、シュンが明るい声を出した。
「イベント?」
「そう。実は一人足りなくてさ。今日の六時から、浦賀女子大と合コンがあるんだ」
俺は一度も、合コンとやらに行ったことがなかった。
「シュン、それは俺のためじゃなく、人数合わせたいお前らのためだよな」
「あ、バレた?」
あっさりと認めやがった。
自己紹介の段階から、男女共にやけにテンションが高かった。
「シュン、二十二歳。よろしく!」
「イエェェイ!!!」
拍手と歓声が起こる。
「次、ケン」
脇腹を突かれて、しぶしぶ立ち上がる。
「ケンです。……よろしくお願いします」
「よろしく!」
俺がたじろぐのも気にせず、勝手に盛り上がっている。
俺たちの大学のバスケ同好会と、浦女のバドミントン部がセッティングした今回の合コンは、男女各五名でのカラオケだった。
「じゃあ、女子も自己紹介いっきまーす」
マイクを使っているので、変な方向から声が飛んでくる。
「ミライ、二十一歳!今日はよろしくです」
整った顔立ちをしていた。
端から順にマイクを回し、彼女たちは慣れた様子で元気よくしゃべった。
だけど、最後の子だけは、少し様子が違った。
マイクを受け取ると、恐る恐る立ち上がり、小さな声で
「ハンナ」
名前を言っただけで、座ってしまった。
盛り上げるタイミングを逃した男衆は、曖昧な作り笑いを浮かべて、歌う曲を決めだした。
女子たちも、ハンナを放って男子たちと会話をすることに専念する。
存在感が全くなかった。
俺には、ハンナがわざと息を潜めているように感じた。
一旦そう考え始めると、俄然ハンナに興味が湧いた。
さりげなく、彼女の隣に移動する。
「合コン、初めて?」
驚いたように顔を上げた。瞳が大きかった。
「こうやって遊ぶのも……初めて」
消え入りそうな声。
「何で。友達少ないとか?」
遠慮ない質問を口にしてしまってから、しまった、と思った。でも、ハンナは気を悪くしたようには見えず、代わりに自嘲的に笑った。
「それもあるけど。……虚しくなるのが嫌だから」
「虚しい?」
「そう。朝になって昨日のことを思い出すたびに、虚しくなる。あぁ、また全てが無駄だったな、って」
不思議な人だ。
儚げな横顔はこの世界を諦めてしまっているかのようだった。
「皆、いつかは全てを忘れるの。今日という日も、皆忘れてしまう。意味のある行いなんて、何一つありはしない」
ここではない、遠くを見つめる目。
「じゃあどうして今日、ハンナは参加したの」
「気まぐれ。一度くらい、経験してもいいかなって」
嘘だ。
ハンナは、自分で言うほど割り切れてはいない。でなければ、こんなにも悲しい表情をするはずがない。
「信じたいんでしょ」
「え?」
ハンナが顔をあげた。
「意味のある今日があるって、信じたいんでしょう」
途端に、ハンナの目が潤んだ。
やはり。
棚に置いていたリュックサックを肩にかける。
「すみません。俺ら抜けまーす」
ハンナの手を握り、席を立った。
「え、ちょっと、ケン!?」
シュンの焦ったような声を置き去りに、俺はハンナと外へ出た。
「何処へ行く気?」
引っ張られるように走りながら、ハンナが問いかけてきた。
「何処へでも。ハンナが行ってみたい場所に」
意味のある今日をつくるために。
「それなら、二十四時間営業のレストランがいい」
思わず、つんのめるように止まり、後ろに向き直った。
「ここは、遊園地とか水族館とか……そういうんじゃないの?」
ハンナはふて腐れたように、そっぽを向いた。
「あっという間に時間が経ったら、虚しさ三割り増しだもの」
そういうものかな、と首を傾げる。
「それに………どうせあなたも、私のことを直ぐに忘れてしまうから」
走り出したハンナに、今度は俺が引きずられる番だった。
華奢な身体からは想像できないほどの速さで、ハンナは夜の街を駆け抜けていった。
「ちょっ、速い速い」
周りの視線が突き刺さるのを感じる。
「ケン、明日には有名人になってるよ」
面白そうに笑う。ハンナの笑顔は、女優顔負けの美しさだった。
「その時は、ハンナも噂の渦中だぞ」
「いーやっ。噂になるのはケンだけだよ。だってケンは、一人で走ってたんだから」
「はぁ?」
意味不明だったが、ハンナが楽しそうだったので俺はそれで十分だった。
ぜーぜーと荒い息のまま、二人はファミレスに入った。
店員にぎょっとされる。
「何名様でしょうか」
「二名です。」
「おタバコはお吸いになられますか」
「いいえ……でいいよな?」
いつものように否定しかけ、ハンナに確認をとる。
「禁煙で」
「お席にご案内します」
席につき、無言でお冷を飲み干す。
空になったコップを置くと、ハンナが申し訳なさそうに呟いた。
「ちょっと……やりすぎた、かも」
「これで『ちょっと』なのか!」
机に突っ伏す。
「でも、私についてこられたんだから、ケンも足速いじゃない」
「そりゃ、どーも」
ぐったりとしたまま、片手を挙げる。
ハンナは直ぐに回復して、メニューを覗き込んだ。
「ケンは何食べる?」
「今は食いたくない」
「わかった」
ハンナは自分の分のパスタを注文し、二人分のドリンクバーをとった。
たわいのない話で盛り上がる。
小腹が空いたときに俺もハンナと同じパスタを注文し、一応平らげた。
コーヒー片手に会話は弾み、気づけば夜十時を回っていた。
「うわっ、もうこんな時間。ハンナは帰らなくて大丈夫?」
「一人暮らしだから、平気」
平気、と言いつつ表情が陰る。
「本当に平気なのか?浮かない顔してるけど」
「もう直ぐ、今日が終わるなと思って」
ハンナとの会話が楽しすぎて、俺は本来の目的をすっかり忘れていた。
意味のある今日。
「今日も、虚しいか?」
「いつも以上に、ね」
そんな……。
楽しませようとしたはずなのに。
自然と俯く。
「あ、違うの。いつもより充実していたって意味」
「充実してて、虚しいのか?」
小さく頷く。
「今日という日が楽しかったのは、私一人だけだから」
「俺、すっごく楽しいよ」
「だからこそ。その記憶をケンが忘れてしまうのが悲しい」
「忘れないよ、俺」
「無理だよ」
ハンナはきっぱり断言した。
「何でそうなんだよ。理由は。俺がハンナを忘れるって言う根拠はあるのか」
コーヒーに口をつける。それをソーサーに戻すと、ハンナは決意の目で俺を見た。
「この話をしても、きっとあなたは忘れてしまう。それでも……聞いてくれる?」
「聞かせて欲しい」
俺も、居住まいを正した。
「原因は私にもわからない。でも、産まれたときからそうだったみたい。私ね、家族以外には記憶されないの」
ハンナは言葉を捜すように宙を見た。
「深夜〇時になるとね、全てが消える。記録にも残らない。戸籍さえも存在しない」
腕時計を見ると、十時二十分を指していた。
「つまり、あと一時間半くらいで、俺からハンナの記憶が無くなるってことか」
「そういうこと」
信じられなかった。
信じたくなどなかった。
けれど、それを嘘だと笑うには、ハンナは真剣すぎた。
「……本当、なんだな?」
こくり、と首肯される。
どうすればいい。
こうしている間にも、タイムリミットは近づいている。
その時、ふっと閃くものがあった。
「ハンナのことは、記録でも完全に消えるんだよな?」
「うん。私の名前は絶対に残らない」
「じゃあ、偽名だったらどうなる?」
ハンナは目を瞬いた。
「ノンフィクションが消えるなら、脚色を加えてやればいい」
リュックの中から、ノートパソコンを取り出した。幸運なことに、コンセントが自由に使えるレストランだった。
手早くワードを開く。
「〇時まであと一時間半もあるんだ。実は俺、作家志望なんだよね」
キーボードの上を、指が滑る。
いつもより、軽い気がした。
脳内に、次々とハンナと過ごした時間が蘇り、止まることなく打ち続けられた。
向かいの席から隣に移動してきたハンナは、浮かない顔のままだった。
「名前を変えたくらいで、大丈夫なのかな……」
一一時四十分。何とか、『現在』まで書き終えた。
「え……」
ハンナが驚きの声をあげた。
ここからが、腕の見せ所だろう。
全てを書き終え、ハンナの方を見ると、静かに涙を流していた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
笑って見せると、ハンナも笑ってくれた。やっぱり、俺が今まであった誰よりも綺麗だった。
急に、瞼が重くなる。
「あれ、おかしいな…いつも一時くらいまで、普通に起きてられる……の、に…………」
「記憶を消去するためだよ。次に目が覚めたとき、ケンは私のことを忘れてる。…おやすみ」
「俺…忘れないから。絶対に、俺が起きるまでここに………いろ」
意思に反して、俺は深い眠りに落ちた。
朝目覚めると、隣には見知らぬ女が寝ていた。
焦った俺は、まわりを見渡す。どうやらレストランのようだった。
テーブルの上に自分のパソコンがあるのを見つけ、エンターキーを押す。途端に、びっしりと文字が打ち込まれたワード画面が現れた。その文章を目で追ううち、徐々に昨日の出来事―――ハンナのことを思い出した。
「んんっ」
声のした方を見ると、ハンナが丁度起きたところだった。
不安で一杯なその表情が、ハンナが今までに受けてきた傷を物語っている。
でも。
もう、大丈夫だから。
「おはよう、ハンナ」
彼女は目を大きく見開き、そして堪え切れずに後から後から、ハンナの頬を涙が伝う。
「おはよう。ケン」
手を伸ばし、親指で涙を拭ってやる。
「……初めて、おはようって挨拶した。朝に名前呼ばれるなんて、夢見たい」
二人の笑い声と共に、どこかで鳥がぴぴ、と可愛らしく鳴いた。
『ハンナ』
著者――飛坂憲志
ここまでお読みいただきありがとうございます。
この作品には続きがございます。
ぜひ次のお話もお読みいただけますと幸いです。
感想もお待ちしております。