コーヒーをぶちまけてしまった記憶
海を歩くにはピンヒールは適さない。よろけたところで、真紘に支えられ、私はヒールを脱ぐことにした。足の裏から砂のさらさらとした感触が伝わってくる。
「足、大丈夫?」
「ヒールを履いているよりかは。それに久々の海だったので、少しこうやって、裸足で歩きたかったです」
ヒールを片方ずつを手に持って歩く私の隣で、真紘は心配するように見てくるが、何も心配はいらない。砂浜は、裸足で歩きなれている。
「真紘社長とうちの社長、薫? さんは、三角関係なんですか?」
「直球で聞いてくるね?」
「……とっても聞きにくいですけど、気なっていて。社長たちの世間話を聞いている中で、薫さんの名前こそ出てこなかったですけど、ずっと、そうなのかなって思っていたので……今更、隠しても仕方がありません」
「確かに」と言いながら笑う真紘を睨んだ。透もだが、こういう話は二人とも逃げようとする傾向がある。立場上、恋人や恋愛の話はしない方がいいというのは、徹の秘書をしているとわかる。そのくせ、いつも、徹からは私の恋愛話を聞いてくるのに、私から聞き返すといつも濁されてしまっていた。
「どうなんですか?」ともう一度、真紘に聞くと、「杉崎さんが思っているのとは、ちょっと違うな」と関係を否定した。私は真紘を見上げ話を促すと、立ち止まって私を指さしてくる。歩いていた私は真紘を置いて数歩先に歩いてしまった。
「……私、ですか?」
「そう。杉崎さん、きみだ」
「私が何か?」
困った表情をしながら、一度目を瞑る真紘の様子をただじっと見ていた。スッと息を吸ったあと、目を開き優しく微笑む。
イケメンは、何をやってもイケメンだな。
私は、その様子を見ながら、羨ましく思う。
「俺は杉崎さんが好きだ。君に出会ったときから、ずっと」
思わぬ告白に、私は驚いた。なんとなく好意を寄せられているのではないかなどとおこがましくも思った日もあったが、それは私の勘違いだと思っていたし、真紘と釣り合わないと夢にも考えないようにしていた。
そもそも、私の淡い憧れが、今、真紘の『好きだ』という言葉で、一気に恋愛色に変わる。
「……えっ? そんな……」
「気が付いてなかった? 用事もないのに、時間を作って透の会社に通っていたことも全く?」
「……はい。私、よほど社長と仲がいいのだとばかり」
「そうなんだ?」
「はい」と答えると、胸の内を言えたとばかりにスッキリしたような真紘に私は狼狽えるばかりだ。
……私のどこがいいの? 真紘社長なら、もっといい出会いもあるだろうし……、初めて会った日って言えば……、私、別の来客用に用意していたコーヒーを慌てて運んでいたときに、会社の廊下でぶつかって、真紘社長に持っていたカップのコーヒーをぶちまけてしまった記憶しかないわ!
失敗した記憶を辿ると、今、真紘から告白されたことが嘘ではないかと考えてしまう。出会いは、必ずしもよかったわけではない。まだ、徹の秘書でもなかった頃の話だ。社長室に呼ばれ、当時の社長秘書だったお局様にすごく怒られた記憶が蘇りぶるっと体を小さく震わせた。
「その表情は、コーヒーをぶちまけた日のことを思い出してる?」
「……えぇ、そうですけど、違うんですか?」
「そうだな。もっと前かな?」
私は真紘にコーヒーをぶちまけた日以前と言われ思い浮かべるが、その日の出来事以外に真紘との接点もなく、全く思い当たる記憶がなかった。