87.祝おうよ!
窓から聞こえる雨足は少し弱くなっていた。
どこか柔らかな空気が流れ、いつもの日常へと戻っていく。
すると途端に、今の英梨花と密着している体勢が気になってくる翔太。
英梨花がどうであれ、魅力的な女の子だということに変わりがない。
しかも今は家に美桜も虎哲もおらず、2人きりなのだ。
またも不埒なことを考えないようにと居住まいを正し立ち上がり、英梨花に手を差し伸べる。
英梨花は翔太の手を掴んで立ち上がりながら、しみじみと言う。
「不思議だね、兄さんって」
「不思議って、なにが?」
「兄さんに話を聞いてもらっただけなのに、すっごく気が楽になっちゃった。今ならまた雷が落ちて停電になったとしても、大丈夫かも。もしかして兄さんの身体から何かリラックスさせる成分が出てるのかな?」
「おいおい」
そう言って英梨花は翔太の首筋に顔を寄せ、ふんふんと鼻を鳴らし、「ふぅ、落ち着く」だなんて言って悪戯っぽく笑う。
端正な顔を無防備に近付けさせられれば、胸が騒めき困ってしまうものの、先ほどの今で遠ざけることは気が咎めるというもの。
それにこうして頼られ甘えられるのも悪くないと思ってしまっているから、タチが悪い。
するとその時、英梨花が何かに気付き、訊ねてきた。
「兄さん、左手のそれって……」
「っ! あぁこれ。去年ちょっとした不注意でやらかしちゃってな」
翔太はつい反射的に左手首にある縫い合わせた傷痕を、右手で隠すかのように覆い隠し、しかし努めてなんてことない風に言う。
とあることで怪我したものだが、もう既に完治している。
別に隠すようなことではないと思うものの、だけどこの怪我に至った経緯を考えるとズキリと胸が痛み、口も重くなってしまう。
幸いにして英梨花は「ふぅん、そっか」と答え、特に気にした様子はなかった。
そしてそれよりもと、真剣な眼差しを作り口を開く。
「みーちゃんも私みたいに過去に囚われているんだよね。そして兄さんでも、そのことをどうすることもできなかった」
「それは耳が痛い。けど事実だ」
英梨花の言う通りだった。
小さい頃からよく面倒を見てくれた美桜の母親が亡くなったことは、翔太にとっても悲しくも寂しいことだ。しかし自分の母が、家族が亡くなったわけじゃない。
だから美桜の気持ちを本当の意味で理解できないと思い、ずっと傍で見てきたにもかかわらず、必要以上に触れないよう見て見ぬふりをしてきた。
もちろん、なんとかしたいという気持ちはある。
だけどどうしていいか分からないというのが本音だ。
「兄さん、私やっぱりみーちゃんの誕生日、祝いたい。みーちゃんだけじゃなく、兄さんのも」
「いやでも、それは……」
「私はっ! ……私は誕生日なのに悲しい思いをして欲しくない。生まれてきてくれてありがとうって、出会ってくれてありがとうってお祝いしたい。だってみーちゃんも、兄さんと同じ家族みたいなものなんだから」
「っ、英梨花……」
ガツンと、頭を殴られたかのような衝撃が走った。
ともすればただ自分勝手とも受け取れる。だけどそれは先ほど英梨花が自分の過去と向き合ったからこその、心からの言葉だった。
ハッと息を呑み、瞠目する翔太。
英梨花は意志の強い射抜くような視線でこちらを捉え、問いかけてくる。
「兄さんはみーちゃんの誕生日、祝いたくないの?」
「そりゃ祝いたいさ! ……ぁ」
「ふふっ」
無意識のうちに語気も強く飛び出したその返事は、翔太の偽らざる気持ちだった。
咄嗟のことに翔太が愕然とした表情になるものの、その顔を見た英梨花はクスリと笑い、手を差し伸べながら言う。
「なら祝おうよ。私、是非みーちゃんと兄さんに送りたいプレゼントがあるんだ。あ、今も郡山モールやってるかな? 今から買いに行こうよ!」
「……あぁ、そうだな」
目を瞬かせたのち、頬を緩ませる翔太。
そして英梨花の手を掴み、笑顔で答えた。