84.欠けた場所
美桜は自らを戒めるかのように、もしくは懺悔をするかのように手を合わせる。
そして母にあったことを報告すべく、この1年を思い返す。
思えば大きな変化が色々とあった。
受験や翔太の怪我、英梨花との再会に葛城家での同居。
しかしやはり一番最初に言うべきことは、高校に入学したことだろうか。
高校生ともなれば、できるようになることが格段に増える。
バイトにバイクや原付の免許、それにもう義務教育でもない。
母が亡くなった小さく幼い頃とは何もかもが違い、もう子供とは言えないだろう。
そんな今の美桜の姿を見れば、母は何と言うだろうか?
(…………)
想像してみるも、上手く思い描けなかった。もうそれだけ、母の居ないことが日常になってしまっているのだ。
人は変わる。変わっていく。
それはごく自然なことで、当たり前のこと。
いつまでも過去に囚われていてはダメなのは、頭ではわかっている。
だけど釈然としないものが胸にはわだかまっていて、くしゃりと顔を歪める美桜。
「っし、そろそろ帰るか」
「……うん」
やがて虎哲が顔を上げた。美桜と違い虎哲の顔には陰りがない。
その虎哲は湿っぽい表情をした妹に、いつものことかと苦笑する。
来た道を引き返す。
天気は小雨になっていた。
虎哲は傘から手のひらを出しながら空を睨みつつ、なんてことない風に話す。
「傘、いるかどうか微妙なとこになってきたな」
「……降るのか降らないのか、どっちかにしてほしいね」
「けど、南の方でゴロゴロ言ってるし、また大雨が来そうかも」
「雨、やだなぁ。兄貴、来年は車で来ようよ」
「はは、そうだな。そうしよう」
そんな他愛のない軽口を叩けば、幾分か表情も柔らかくなる。
空気が緩むのを察した虎哲は、しかし今度は言いにくそうにして口を開く。
「なぁその美桜、英梨花ちゃんのことだけど……」
「あー……」
やはり、と思う美桜。
自分でも英梨花に対し、あからさまな態度を取っている自覚はあった。
しかも英梨花に悪気があってのことでもなく、純粋に美桜を祝いたいという好意からきているのもわかっている。ただ、自分の哀惜からくる感傷で振り回しているだけ。
我儘といわれても仕方がない。
虎哲が気にして聞いてくるのも当然だろう。
もしかしたら翔太からも頼まれているのかもしれない。
美桜は言葉を詰まらせる。
まじまじと探るように見つめてくる虎哲。その瞳は心配そうに揺れており、美桜のことを案じていることがありありとわかる。わかってしまう。なんだかんだ兄にそんな目をされると、美桜も弱い。
やがて美桜は観念したかのように、「はぁ」と大きなため息を零し、ここのところ胸に生じていた自らの心の脆い部分を晒す。
「再会したばかりの頃のえりちゃんってさ、かつて以上に人見知りになっちゃってて学校じゃあたしかしょーちゃんくらいしか話す相手がいなかったんだ。家事の手つきだって危ういしさ、料理だってお湯を注ぐかレンジでチンくらいしかできないし、こりゃあたしがちゃんと面倒見て守ってあげなきゃって思ったんだよね」
「……昔みたいに?」
「うん、昔みたいに。だけどここ最近のえりちゃんって、ものすごく頑張っててさ。苦手の接客のバイトもこなしてどんどん人と話せるようになって、学校でも友達ができていって……それに、お好み焼きまで作っちゃうし」
「まぁ、形はともかく味はちゃんとお好み焼きだったな」
「そう。そかも見た目があれだけ美人でオシャレとかも詳しくて、だからついつい思っちゃったんだ。――あたしの居場所、取らないでーって」
「美桜……」
いざ言葉にしてみると、なんとも幼稚で、醜い嫉妬からくるものだった。これの一体どこが妹を守ろうだなんていう、姉貴分の姿だろうか。
どんどん自分が情けなくなっていく。
だけどその部分は、美桜にとって譲れない部分でもあった。
家事は分担しているものの、それでも料理は美桜しかできない独壇場のまま。
だから美桜にとってのアイデンティティとさえ思っていたのだがしかし、成長著しい英梨花が自らの存在意義を奪っていくように思えてしまって。
虎哲は眉間に深く皺を刻んでいた。何か言葉を真剣に探しているようだ。
叱責の言葉だろうか?
それとも慰めの言葉?
しかし重々しく開いた虎哲の口からは、予想外の言葉が飛び出した。
「英梨花ちゃんもさ、今必死に自分の居場所を作ろうとしているんじゃないか? かつての美桜と、同じように」
「…………え?」
ぴしゃりと衝撃を受け、思わず足を止めてしまう。
英梨花の居場所。
考えもしなかったことだった。
英梨花は翔太の妹だ。両親だっており、確固たる場所がある。
それなのに、何故?
美桜が釈然としない顔をしていると、虎哲は苦笑と共に理由を話す。
「英梨花ちゃんがいなくなった時の翔太の傍には美桜が、おふくろが亡くなった時の美桜のそばには翔太がいた。お互い、ぽっかり空いてしまった家族の穴を埋める相手がいた。だけど、英梨花ちゃんに誰かいたか? ……ずっと1人だったんだよ。そりゃ、今の居場所を作ろうと頑張りもするはずさ」
「ぁ……」
虎哲に言われ、初めて気付く。
再会してすぐ、かつてと同じ位置に自然と収まっていたので、考えもしなかった。
当たり前ながら、昔と今は違う。
翔太とは家庭環境もあってずっと傍に居て、互いに様々なことを知り尽くし、それこそ兄妹同然に育ち、積み上げてきたものがある。
しかし英梨花には、それがない。
きっと英梨花はそんな翔太と美桜の輪の中に入ろうと、ちゃんと対等な一員になろうと歩み寄ってきてくれているのではないだろうか。誕生日をきちんと祝いたいだなんて、その最たるものだ。
だけど美桜は拒絶した。英梨花が必死に伸ばしてきた手を、跳ねのけてしまった。
あぁ、英梨花はそのことを一体どう受け止めたのだろう。
想像しただけで胸がキュッと締め付けられる。
美桜は口から後悔交じりの狼狽えた声で、虎哲に縋るように言う。
「兄貴、どうしよあたし……」
「大丈夫だって、心配すんな。英梨花ちゃん、別に怒ってなかったし、何か話そうともしてくれてただろ?」
「う、うん……」
「ならとっとと帰って謝ろうぜ? 何ならオレも一緒に頭下げるからさ。まぁその前にまだバスの時間まで結構あるな。ちょいと歩くけど、近くの道の駅に行って、甘いものでも食ってくか?」
「……ん、兄貴の奢りなら」
「はは、あまり高いのは勘弁しろよ」
「ちょ、兄貴っ!」
そう答えると虎哲はにかっと笑い、くしゃりと美桜の頭を掻き混ぜる。
内心せっかくセットしたのに悪態を吐きつつも、しかし虎哲のおかげで心は随分と軽くなっていることに気付く。
そして美桜は目の前で何を食べようか考えながら歩く兄の背を見て、つい思ったことを呟いた。
「兄貴ってさ、兄貴だよね」
「どうした、急に?」
「うぅん、なんでも」
不思議そうに振り返った虎哲に、美桜はいつも通りの笑顔を返すのだった。