69.妹離れ
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美桜にとって英梨花は、今でこそ背も自分より高く見違えるほど綺麗になったけれど、依然としてかつて同じく後ろをちょこちょこ着いてきた気弱で怖がり、そして寂しがり屋の女の子のままだった。再会してから家では時々不器用に甘えてくるを見せてきたので、なおさらに。
もちろん、あの頃とは違う。
努力家で、負けず嫌いなところもあり、そして随分と女の子になったこともわかっている。
それでも色々変わったようでいて根っこの部分は同じで、英梨花は自分が守るべき妹分には変わらないと思っていた。いや、思い込んでいた。
だから六花の店の手伝いを申し出た時は、ひどく驚いた。
人見知りが激しい英梨花には、似合わないとまで思ったもの。
再会してすぐにバイトを探していたが、あの時は郵便の仕分けやチラシのポスティング、博物館などでの事務や受付など、あまり人と関わらない英梨花らしいものを想定していた。
ちゃんと仕事ができているだろうか?
変な客に絡まれて泣いてないだろうか?
そんな心配をして、事実帰宅した英梨花がすぐさま抱き着きいっぱい失敗したと弱音を吐けば、姉として昔のように慰め元気付けてあげなければ思うのも当然のこと。
――楽しかった! バイトも続けたい!
だから満面の笑みでそんなことを言う英梨花に、どうすべきかわからなかった。
今だってそうだ。
翌日の昼休みの教室。
目の前では英梨花が少し真剣な様子で話しかけている。
「――が、800円、そばめしが650円、おにぎりが250円。合ってる?」
「合ってる、っていうか英梨ちん、メニューと値段もう覚えたの!?」
「なになに、今西さんに葛城さん、どうしたの?」
「昨日英梨ちんにバイト手伝ってもらったんだけどさ、もうメニューと料金暗記しちゃっててさ! 私もまだ滅多に出ないサイドメニューとかあやふやなのに!」
「え、なにそれすごくない!?」
「コツがある。歴史の年表覚えるより、よっぽど簡単」
「暗記のコツ教えて欲しいんですけど!?」
「基本はゴロ合わせ。例えば――」
「それって――」
英梨花は自分から六花たちへバイトのことを話しかけ、そのことで盛り上がっていた。
まだまだ言葉足らずなところはあるけれど、そこは六花が補っており、だけど確かに皆の輪の中の中心にいる。
あの、話しかけられてもろくに受け答えができなかった、あの英梨花が。
本来なら喜ぶべきところなのだろうが、そのあまりにも急な変化に戸惑ってしまうのも無理はないだろう。
今まですぐ傍にいた英梨花が、この手を離れてどこか遠くへ行ってしまうかのような感覚。
翔太はと思って見てみれば、目を細めて英梨花たちを見守っている。
美桜同様、戸惑っていると思っていただけに、その反応は意外だった。
どうしてか胸がキュッと締め付けられ、そのはずみで言葉が零れる。
「ね、しょーちゃん。変われば変わるもんだね~、あのえりちゃんがさ」
「俺も正直びっくりしてるよ。けど、いい変化じゃないか。それに人が変わる時ってのは突然だしな」
「……そうかな?」
「そうだよ。美桜のそれだってそうだったじゃないか」
「うっ、それはそうかもだけど~……でもちょっと違うというか……」
翔太に鼻先を指で突かれ、イメチェンして驚かせたことを示唆される。
言葉に詰まる美桜。
それとこれとは違うと言いたいのだが、上手く説明できる言葉が出てきてきてくれない。
美桜が眉間に皺を刻んでいると、翔太は苦笑しつつ、しかし寂しげに呟く。
「俺も少しは妹離れした方がいいかもな」
「……ぁ」
妹離れ。
その言葉は胸にストンと落ちるものがあった。
しかし、どうしてか心には馴染んでくれず、更に表情を険しくさせる。
するとその時、教室にやけに明るい英梨花の声が響く。
「いらっしゃいませ~♪」
普段教室での英梨花からは想像もつかない愛想のいい笑顔と声が、教室から言葉を奪う。
六花たちはポカンと口をあけ目をぱちくりとさせ、美桜も思わず英梨花をまじまじと見つめてしまう。
数拍の沈黙の後、周囲からはドッと歓声が上がった。
「そう、これこれ! いつもの英梨ちんからは考えられないでしょ~!?」
「マジびっくり、ってか一瞬誰だ!? って思ったし!」
「でもめっちゃよくね? 葛城さん、普段からもあんな感じにすればいいのに」
「無理、というか今もう既に恥ずかしいし……」
そう言って恥じらいながら頬を染め肩を縮こまらせる英梨花は、いつもの凛と澄ませた姿とのギャップも相まり、非常に可愛らしい。
教室の男子はあちこちでだらしない顔を晒し、六花たちは「「「きゃーっ」」」と黄色い声を上げて英梨花に抱き着き、揉みくちゃにしている。
その様子は正に友達同士の戯れない。英梨花自身も、満更ではなさそうだ。
だというのに、どうしてか寂しいと感じてしまう美桜。
ふいにその時、英梨花と目があった。
英梨花は気恥ずかしそうにはにかみ、美桜は騒ぐ胸を押さえながら、曖昧な笑みを浮かべて小さく手を振り返した。
◇
「今日もバイトいくから」
「てわけで英梨ちん借りていくね!」
放課後になるなり、英梨花は六花と一緒に一足早く教室を後にした。
その後ろ姿をどこか遠い出来事のように見送っていると、翔太が話しかけてくる。
「俺たちも帰るか」
「……うん」
翔太と共に帰路に就くも、頭の中は英梨花のことでぐるぐると複雑なものが渦巻いている。自分でもその正体が今一つ掴めない。
それが顔に出てしまっていたのだろう。
翔太が気遣わしげに訊ねてくる。
「美桜、険しい顔してどうしたんだ?」
「っ、あーいや……夕飯どうしようかなーって。えりちゃんは別でいいって言ってたけどさ」
「今日も遅くなりそうなんだっけ? 先に食べててって言ってたな」
「これまでずっと3人一緒に食べてたからさ、なんかちょっと変な感じ」
「俺も。今まで家族別々に食べることなんて、よくあったのにな」
「……うん」
翔太の言う通りだった。
母と2人だった葛城家は夕食の時間が噛み合わないことが多かった。
五條家もまた、父の帰宅は不規則で兄も遅くなることが多く、似たようなもの。
そもそも、用事があって家族でも夕食の時間がズレるだなんて、よくあるはずのこと。
美桜は騒めく胸に手を当て苦笑い。
その時、美桜のスマホがメッセージの通知を告げた。
すぐさま取り出し、差出人の名前を見て、思わず足を止めてしまう。そして内容を確認すれば、思わず「うげ」と声を上げる。
「どうした、美桜?」
そんなあからさまな反応をすれば、翔太も怪訝な表情で顔を覗き込んでくる。
一瞬の逡巡の後、美桜は何とも歯に挟まったような声色で翔太に答えた。
「……ゴールデンウィーク、兄貴がこっち来るから泊めて、だってさ」
「……へ?」