68.楽しかった!
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いつもならとっくに夕食を終えている20時過ぎ。
翔太は美桜と共にリビングのソファーに背を預けながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。
特に画面に流れている地域の激安グルメ特集番組を見ているわけじゃない。
考えているのはやはり、英梨花について。
英梨花なら大丈夫、変わろうとしているのなら応援しようと思ってバイトに送り出したものの、やはり気になるのは事実。
これがもし郡山モールのバックヤードでの商品の仕分けや梱包、シール張りといった裏方や清掃作業みたいに、人とあまり接することのない軽作業なら、特に心配しなかっただろう。だけど英梨花がしているのは、あまり得意といえない接客業なのだ。
緊張からどもったり、その辺で躓いたり、料理を落としたりする様が、容易に想像できてしまう。
するとその時、隣の美桜からくぅ、という腹の音が聞こえてきた。
「あ~、グルメ番組見てるとお腹が空いちゃうね」
美桜は少し気恥ずかしそうに頬を染めながら、テレビの方を見たまま呟く。
「そうだな、俺もかなり減った。別の番組に変えるか? 見てるってわけじゃないし」
「ん~、いやこのままでいいよ。てかしょーちゃんもお腹空いてるなら先に食べていいよ?」
「ここまできたら、英梨花の帰りを待つよ。1人じゃ味気ないだろ?」
「それもそうだね。えりちゃん大丈夫かな?」
「気持ちはわかるよ。けど、ここで俺たちが心配してもどうにもならないだろ?」
「う~、そうだけどさ。とりあえず、帰りの夜道がアレなら駅まで迎えに行くってメッセージ送っとこ」
互いに苦笑を零した後、美桜はスマホを手繰り寄せ、そわそわしながら英梨花へとメッセージを打ち込みだす。
美桜もまた、英梨花が心配のようだった。
昔はよく背中を付いて回ってきていた英梨花のこと、美桜にとっても妹みたいなところがあるのだろう。
しきりに「怪我してないかな?」「お客にナンパされてストーキングされてたらどうしよう!?」などと呟いている。
美桜の過剰心配を目にすれば、逆に冷静になってくるというもの。
するとその時、ガチャリと扉が開く音がした。
翔太と美桜は顔を見合わせ、すぐさま立ち上がり、玄関へと向かう。
「えりちゃん、おかえりっ!」
「おつかれさま、英梨花」
「みーちゃん、兄さんっ」
「わっ!」「っと!」
英梨花は2人の顔を見るなり、脱ぎかけのローファーを蹴飛ばすようにしてギュッと抱き着いてくる。
突然のことで驚く翔太と美桜だが、「ん~」と唸りながらおでこを肩に擦りつけてくれば、先日同様甘えてきているというのがわかるというもの。
きっとバイトが大変だったのだろう。
やがて英梨花はとつとつとバイトでの出来事を、硬い声色で話し出す。
「私、いっぱい失敗しちゃった。注文は聞き間違えるし、全然違うところに料理を運んじゃうし、挙句グラスを落として割っちゃったりするし……」
「それは……」
「英梨花……」
どうやら懸念した通りのことをしでかしたようだった。
翔太は眉間に眉を寄せつつ慰めるように頭を撫で、美桜も同じような表情であやすようにトントンと背中を叩く。
英梨花は「んっ」と喉を鳴らし、さらに強く抱き着いてきて痛切に呟いた。
「働くって、お金を稼ぐって大変だね。今日つくづく思い知ったよ。私はちょっと勉強ができるだけで、他は何にもできないって」
「そんなこと……」
「あるよ。今西さんは大人と同じように、私の何倍も多く働いてさ、ほんとすごかった。それに比べて今日の私は足手まといもいいとこだった」
「えりちゃん……」
初めてだから仕方がない、という言葉が喉から出掛けるも、すぐさま呑み込む翔太。
そんな慰めの言葉が欲しくて言っているわけでもないに違いない。聡い英梨花のこと、初めての労働でその大変さを知り、今の自分の足りなさを痛感しているのだろう。
とはいえ、自分と向き合っている妹に果たしてどんな応援の言葉を掛ければいいのかわからない。美桜と困った顔を見合わせる。
しかし英梨花はバッと顔を上げたかと思うと、見たことのないキラキラとした笑顔を咲かせて言った。
「でも、それを含めて楽しかった!」
「え、楽しい……?」
思わず困惑の声を上げる美桜。
翔太だって予想外の言葉に目をぱちくりさせながら、聞き間違いじゃないことを確認するかのように訊ねる。
「バイト、楽しかったのか……?」
「うん! 最後の方は色々吹っ切れちゃって、もう自分が何もできないのが逆におかしくなっちゃって! それに初めてのことがいっぱいで新鮮でさ、だからこれからもバイトさせて欲しいってお願いしてきちゃった!」
「そう、か」
てへりとピンクの舌先を見せる英梨花。散々な目にあったにもかかわらず、へこたれずに明るく言い放つ。
そして英梨花は2人から身体を離し、ぐぐ~っと大きく伸びをして、リビングに向かう。
「みーちゃん成分と兄さん成分を補給したらお腹空いてきちゃった。いい匂いがする。今日はカレー?」
「っ、うん、カレー。温めなおすね。あ、生卵いる?」
「うん、いる」
そう英梨花に訊ねられた美桜はパタパタと台所へ移動し、鍋に火をかけ直す。
そして英梨花はテーブルの上にある手つかずのサラダを見て、申し訳なさそうに翔太に言う。
「私を待っていてくれたんだ」
「まぁな。今西もそれほど遅くならないって言ってたし」
「これからはバイトで遅くなる時は先に食べちゃっててよ。待たせるのも悪いしさ」
「……そうだな。じゃあそういう取り決めにしようか」
「うん。とりあえず今日はバイトのことで話したいことがいっぱいあるんだ~」
にこにことしそんなことを言う英梨花。
どうやら初めてのバイトは妹にとって、色々と変わるいい転機になったようで、翔太も頬を綻ばすのだった。