59.英梨花
世間ではとっくに始業の時間を迎え、多くの人が仕事や授業に従事している午前中。
風邪で1人家に残った英梨花は、ベッドの上で天井に向かい、「ふぅ」と熱い息を吐き出す。
通勤通学で人々を吐き出した地方都市の住宅街は、行き交う車も少なくやけに閑静だった。まるで自分だけ世界に取り残されたようで寂寥感を覚えてしまい――そんな自分にびっくりしてしまう。
1人には慣れているはずだ。
風邪で家に1人だなんて、今までよくあったことではないか。
弱音なんて、吐いてはいけない。
本当の自分は葛城家にとって、遠縁の子供。
直接血の繋がらない異物。それゆえ、かつて離散させてしまったではないか。
――だからなるべく、迷惑はかけられない。
そう思ってたから昨日は駅まで傘を持ってきてもらうことを遠慮して、その結果がこれである。なんて自業自得。
昨日、帰宅時に熱を出して倒れて、翔太と美桜に世話になってしまったことを思い返す。
『しょーちゃん、えりちゃんを部屋に運んで! あたしはタオルと一緒に着替え持ってくから!』
『よし、着替えや寝かせるのとか任せたから、俺はひとっ走りスポドリや冷却シート買ってくるわ!』
『あ、ついでに栄養ドリンクもお願い!』
『常備薬はあったよな?』
『あったはず。なかったらメッセージ送るから!』
『了解!』
英梨花が熱でボーっとしている間にあれよあれよと部屋へと運ばれ、着替えさせてもらい、薬を飲まされ看病されていた。あっという間の出来事だった。
翔太と美桜の阿吽の呼吸。
打てば響くようなやり取り。
それだけ2人の間に積み重ねられたものがあるのだと、まざまざと見せつけられた。そして2人こそが兄妹のように見え、じくりと胸が痛む。
思考がよくない方向に傾いている自覚があった。
きっとそれは、風邪のせいだろう。
早く治さなきゃ。
幸いにして先ほど飲んだ薬も効いてきて、眠気もやってきている。
風邪をこのまま治すために寝てしまえばいいだろう。
朦朧とした意識の中目を瞑り、無意識のうちに身を守るかのように丸めて布団を被り、意識を沈めていく。深く、深く、今は何も考えないように。
うとうと。
ふわふわ。
意識は熱で溶かされてぼんやりしており、夢と現実との境界が曖昧になっていく。
身体は鉛のように重く、寝返りさえも覚束ない。
ぶくぶく。
はぁはぁ。
心まで底冷えするかのように寒く、息も苦しい。
まるで深海で溺れているかのような感覚。
そこから逃げ出そうとして、藻掻くように手を伸ばす。
『にぃに』
助けを求めるように、そんな言葉が自然と出てきた。
すると幼いしょうたが表れ、にこっと笑って手を掴む。
自分の姿もどんどん幼くなっていくと共に、たちまち心がじんわりと暖かくなっていく。えりかはもうすっかり安心しきっていた。
くぅくぅ。
すぅすぅ。
しょうたはただにこにこと手を握り、傍に寄り添ってくれている。
それだけでえりかの心はすっかり穏やかになり、身体もすごく熱い。
思えば幼い頃から兄は、いつだってえりかが辛くて苦しい時は手を握ってくれた。そんな兄のことが、ずっと大好きだった。
本当は今日だって本音を言えば、一緒に居てと言いたかったところ。
あの頃ならきっと、素直に一緒に居てと言ったことだろう。
だけどもう、あの頃とは違う。
学校だってあり、兄には兄の生活がある。
ワガママで困らせるのは本意ではない。心配してくれただけで十分。
あぁそれでも。
せめてこの熱と夢が覚めるまではと、幼い頃よく口にしていた素直な想いを零す。
『にぃに、どこにも行かないで』
そう言うとしょうたはにっこり笑って手を握り返してくれる。
『にぃに、大好き』
しょうたはびっくりして目を大きくしたものの、照れ臭そうに頭を撫でてくれた。
『えりか、にぃにのお嫁さんになって、ずっと一緒』
すると今度はブフォッと大きな噴き出す声が聞こえ――英梨花の意識は強引に浮上させられた。
困惑する頭で状況を把握しようとし、寝惚け眼が実像を結べば、目の前にはどうしたわけかケホケホとやけに咽ている翔太の姿。窓から差し込む陽は強く、帰宅の時間には程遠い。
「……兄さん?」
疑問が言葉となって口から零れれば、翔太は目を瞬かせ、「んっ」と何かを誤魔化す様に咳払いをしてこちらに向き直る。
「起きたのか、英梨花」
「学校は……?」
「あー……うん。顔色はかなりよくなってるな」
「えっと……」
微妙に噛み合わないやり取りに、英梨花は眉を顰める。
「しょーちゃん、何か大きな音が聞こえたけど、何かあったの?」
「え、みーちゃんも……?」
すると今度は翔太だけでなく、美桜まで部屋へ駆け込んで来た。エプロン姿で手には剥きかけのジャガイモとピーラー。ますます困惑を深める英梨花。
英梨花がわけが分からないといった表情を作っていると、翔太と顔を見合わせた美桜が、少し呆れたように言う。
「いやぁ、えりちゃんのことが気になって早退してきたんだよね。あたしとしては、先にしょーちゃんが戻ってたことにびっくりだったけど。さすがシスコン。ほら、手」
「……ぁ」
美桜が翔太の手へと視線を促せば、そこで初めて手を繋がれていることに気付く。
何か夢でも似たようなことがあった気がするが、記憶は曖昧だ。
翔太はといえば、手を繋いでいることが急に気恥ずかしくなったのか慌てて手を離し、英梨花の口から少し物寂し気な声が漏れる。
「これはその……アレだ、なんかこう、民間療法? って、俺がシスコンなら同じく早退してきた美桜は何なんだよ」
「あたしはほら、純粋にえりちゃんを心配する、親友想いの美少女?」
「ハッ、何が親友想いの美少女だ」
「あはっ、自分で美少女だなんて言って、ちょっとぞわわ~ってきた!」
そんなやり取りをしながら、笑いだす翔太と美桜。
英梨花も釣られて、クスリと笑みを零す。
どうやら2人とも自分を気にして早退してきたらしい。その好意がおかしいやら、うれしいやら。
そしてなんか難しく考えすぎていたのかもしれないと思う。
自分ももう少し、素直に甘えてもいいかのもしれない。
そんなことを考えている間にも、美桜は温くなった冷却シートをぺりっと剥がし、おでこをくっつけてくる。
「うん、熱ももう下がったみたい。よかったね、えりちゃん」
「んっ」
「何かして欲しいこととかあったら言ってね。あ、ごはんはシチューを消化のいいようトロトロの限界目指して仕込んでるところだから!」
「じゃあ汗でびっしょりだから着替えたい」
「む、えりちゃんの予備の寝間着全部洗っちゃってるから、しょーちゃんのでもいい?」
「ん、全然かまわない」
「あ、着替えはしょーちゃんに手伝ってもらう?」
「それはさすがに心の準備がいる。5分待って」
「5分待てばいいみたいな言い方するな!」
「しょうがない、あたしが手伝うから、しょーちゃんは着替え持ってきて」
「はいはい。英梨花、他になにかあるか?」
「ん……昨日買ってきたプリン、皆で食べたい」
英梨花がそう言うと、翔太と美桜は顔を見合わせ苦笑い。
一体どういうことかと首を傾げると、翔太が気恥ずかしそうに口を開く。
「実は俺も、英梨花がプリン好きなの思い出して買ってきてるんだよ」
「あたしもプリンなら食べられると思って、りっちゃんから郡山モールのご当地プリンフェアの話を聞いてさ。今うちの冷蔵庫プリンまみれ!」
「じゃあみんなでプリン祭りしたい」
「いいねぇ、今日のご飯は少な目にして、そうしよう!」
「んっ!」
互いに顔を見合わせ、笑い声が上がる。
そんな心から安らぐやり取り。
甘えるべき時は甘えさせてもらおう。
だけど自分ももし、この2人に何かあった時、遠慮なく甘えてもらえられるよう強くなろう。
英梨花はそう、強く心に思うのだった。
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