54.少し変わった日常/家
春も終わりの少し肌寒い朝。
「うわっ!?」
翔太は突如鳴り響いた通話の着信音で飛び起きた。
一体誰から? こんな時間に何が? ぐるぐると混乱する寝起きの頭で、すぐさま枕元に置いていたスマホを慌てて手繰り寄せる。
「……美桜?」
画面に映る発信者の幼馴染の名前に、思わずしかめっ面を作っていると、部屋の入り口の方から遠慮がちに声を掛けられた。
「しょ、しょーちゃんおはよ~」
「あ、うん。おはよ」
顔を上げると開いた扉の前から通話を掛けている美桜がいた。
前髪をちょんまげにして寝間着代わりのよれよれシャツにスウェット、今まで散々よく見てきた気の抜けたゆるゆる姿でひらりと遠慮がちに手を振っている。
しかし今までと違って気恥ずかしそうにもじもじしており、目を合わそうとしない。
「えっと、ほら、時間……」
「あ、あぁ」
すると美緒は自分のスマホの画面を指差し、時間を見るように促す。見てみれば、確かに起こすと決めた時間だった。
「そ、それだけ! 朝ごはんもう出来てるからっ!」
言うや否や美桜は逃げるように階段を駆け下りる。
足音から察するにリビングでなく自分の部屋へと向かったようだ。きっと制服にでも着替えるのだろう。
そのあからさまにこちらを意識している態度を取られれば、翔太も否応なしに先日のことを思い出すというもの。
美桜にキスをされた左頬にそっと手を当てる。
今でも鮮明にあの時の唇の柔らかな感触、鼻腔をくすぐる甘い香りが脳裏にこびりついており、胸が騒めく。
あれは本当、いきなりのことだった。
何故そんなことをされたのかわからない。
もしこれが悪戯だとすると、あまりに悪質過ぎるだろう。
(あぁもう、どういうつもりだよっ!)
内心そんなことを悪態吐き、気恥ずかしさを誤魔化す様に両手でガシガシと頭を掻き混ぜ、部屋を出て階段を下りる。
「あ、兄さん。おはよう」
「おはよ、英梨花」
リビングへ顔を出すとダイニングテーブルに居た英梨花がこちらに気付き、挨拶を交わす。丁度食べ終えたのか、食器を重ねてキッチンの方へと持っていくところのようだ。
英梨花は既に制服に着替え終わっていた。髪もきちんとセットされており、いつでも家を出られるような状態だ。
寝起きそのままのシャツと短パン姿の翔太や先ほどの美桜とは真逆で、英梨花は家でも凛としており、中々に隙を見せない。最初は気を張っているのかと思ったものの、どうやらそういう性分らしい。
ダイニングテーブルに視線を移せば、翔太の分と思われるチーズトーストに目玉焼き、茹でブロッコリーにヨーグルト。それを見てお腹がくぅ、と自己主張をし始めれば、英梨花がくすくすと笑う。
翔太がきまり悪そうに人差し指で頬を掻きながら席に着けば、シンクに食器を置いた英梨花が声を掛ける。
「兄さんもコーヒー飲む?」
「あぁ、もらおうかな。えぇっと――」
「ミルク多めにお砂糖は一杯だよね?」
「そうそう、お子さま仕様で」
「ふふっ、お子さま仕様って。でも私と一緒」
そんな家族らしいやり取りに、互いに頬を綻ばす。
英梨花が淹れてくれたコーヒーにたっぷりのミルクを注ぎ、ちょうど飲み頃の熱さになったカフェオレ片手に黙々と朝食を摂る。
しばらくすると、目の前の席に座る英梨花から視線を感じた。
顔を上げ視線が合うと、英梨花は目を細め少し咎めるような口調で言う。
「兄さん、頭ボサボサ過ぎ」
寝癖だけでなく、先ほど頭を掻きむしったというのもあるのだろう。
英梨花が思わず口にするほど、ひどい状態になっているようだ。
翔太は困ったなと、曖昧な笑みを浮かべて答える。
「あー……これ食べ終えたらなんとかするよ」
「ん、時間がもったいない。私が直してあげる」
「英梨花?」
英梨花は言うや否やぱたぱたと洗面所へ駆け込み、ヘアミストと共に戻ってくる。
そして翔太の背後に立ち、問答無用とヘアミストを吹きかけ手櫛で髪を梳く。
少しばかりこそばゆくも気恥ずかしく、そして食べにくいのも事実。
だけど英梨花が機嫌良さそうに鼻歌まじりで髪を弄っていれば、止めさせるのも野暮というもの。それにこれは英梨花なりに妹として甘えてきているのがわかるから、なおさら。
「兄さんの髪、少し硬いね」
「おかげで一度寝癖がつくと、結構ガンコなんだよな」
「ふふっ、でもこの髪質、色だけじゃなくて私と似ているのかも。私もよく寝癖ついて苦労するし」
「そうなのか?」
「今朝も大変だったよ」
「全然そうは見えないな……」
「そりゃ、見せないようにしているもの」
いつもしっかりとした姿を見ているだけに、本人からそう言われても想像できやしない。翔太が首を捻れば、英梨花は可笑しそうに笑う。
やがて翔太が食べ終えると共に、英梨花の寝癖直しも終わる。
「んっ、できた」
「ありがと、英梨花」
ごちそうさまと手を合わせた翔太は立ち上がり、自分の仕事に満足そうに頷く英梨花に礼を述べる。
するとその時、ふいに手を引かれた。
他になにか用でもあるのだろうか?
翔太が首を傾げていると、英梨花は美桜が自分の部屋でドタバタしていることを確認した後、素早く背伸びをして――その唇を自らの唇で啄む。あっという間のことだった。
「え、え、え、えええ英梨花、な、なな何を!?」
「何って……家族の挨拶? まだだったかなぁって」
「いやでも……」
「ふふっ、変な兄さん」
思わず動揺からドキリと肩を跳ねさせる翔太。
そしてたちまち先日の、なるべく意識しないようにはしていたことが思い起こされ、にわかに心臓が早鐘を打ちだす。
あの時の瞳を閉じ唇を塞いでいた顔、その後に目を覚ましたのを確認されてからさらに啄まれた時に見せた怪しげな笑みは鮮烈で、忘れられそうにない。ちょっと思い出すだけで胸が疼いてしまう。
(っ、何が家族の挨拶、だよ……っ!)
自分から言い出した言い訳だというのに、そんなことを思ってしまう。
目の前の英梨花は、どこか確信犯めいた悪戯っぽい笑みを浮かべている。
一体どう言うつもりなのだろうか?
「学校行く準備してくるね」
「あ、あぁ……」
英梨花は困惑する翔太の唇を人差し指でツンと突き、機嫌良さそうに自分の部屋へと戻っていく。
後に残された翔太は、唖然としていた。
顔はこれ以上熱くなっており、頭の中は空白。
そこで立ち尽くすことしばし。
やがて制服に着替え終わった美桜がやってきた。
「しょ、しょーちゃん」
「み、美桜」
「えっと……着替えないの?」
「あ、あぁ、今着替えてくる」
美桜もまた、顔を赤らめている翔太を見て、頬を染めていく。
少しむず痒い空気の中、目を逸らした美桜の言葉を合図にして、翔太は弾かれたように自分の部屋へと向かう。
扉を閉め、背を預け、天井を仰ぎ片手で目を覆い、ほとほと困ったとばかりに少し情けない声を上げた。
「あー、もぅっ!」
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