53.㊦新たな関係のプロローグ
あとがきにお知らせがあります
◇◆◇
部屋に逃げるように駆け込んだ美桜は、その勢いのまま布団へとダイブした。
「お礼ってなんだよ、もぉーっ!」
熱く茹だりそうになる頭を枕に押し当て足をジタバタ。うぅぅ~っと、漏れ出る低い唸り声。
頬の熱は一向に冷める気配はなく、心臓はますます早鐘を打つ。原因はわかっている。
「まるでマーキングじゃん、あたし」
あの時のキスは翔太からカレシ役はお役御免だと告げられた瞬間、他の誰かのものになってしまうんじゃという、子供じみた独占欲から衝動的にやってしまったこと。
そんな自分にびっくりだった。こんな恋愛に結び付くようなことをするとは露とも思っていなかったから、なおさら。
だというのに悪くないと思ってしまい、自然と唇に手を当てては先ほどの翔太の頬の感触を思い返し、顔がニヤつくのを自覚する。そんな自分に呆れてしまう。
「相手がしょーちゃん、だからなのかも」
小さな頃からずっと傍におり、何でも知っていて、考えることはなんでも手に取るようにわかる幼馴染だからだろう。
「……あ、れ?」
だというのに、ふと翔太が今どんな気持ちなのかを想像して――何もわからなかった。
すると同時に――のことを思い出し、その時の翔太の顔が浮かび上がる。浮かれていた心は急に冷めていき、代わり浮上するのは不安と焦燥。それから翔太を求める欲求。
美桜は慌てて顔を上げ、ぐちゃぐちゃになっていく感情を追い払うように頭を振り、自らを言い聞かせるように拳を握り、鼓舞するように呟いた。
「しょ、しょーちゃんは家族みたいなもんで、さっきのは偽装とはいえカップルだし、セーフだよね」
◇◆◇
ブクブクと湯船の水面に、お湯の中で吐き出したため息が泡を作っていく。
翔太はまるでのぼせたかのように赤くなった顔で天井を仰ぎ、美桜にキスされた頬を撫でながら呟く。
「家族の挨拶ってなんだよ……」
先ほどの美桜の行為は、幼馴染としても偽装カップルとしても逸脱するものだった。
英梨花に対する言い訳も、まったくもって苦しいもの。
確かにそうした風習がある国もあるだろう。だけどここは日本で、翔太自身も日本人としての感覚で暮らしている。英梨花だってそうだろう。釈然としない表情で眉を寄せていたのが、目に焼き付いている。
驚いたものの、別にされたことが嫌だったとかいうわけじゃない。
男の自分とは違う唇の瑞々しさと柔らかさ、頬を染めはにかむ可愛らしい顔、ふわりと香る胸を騒めかせる甘い匂い――それらが引き金になって、美桜が女の子だと思い知らされてしまったのが問題なのだ。
「あぁ、くそっ」
美桜がイメチェンして以来、ドキリとさせられることはあった。そりゃそうだろう。中身そのままにゆるふわな外見で距離感はそのまま、女子としての隙が多けりゃハラハラしてしまうというもの。
そうしたことが色々あったが、それでも美桜は美桜だったのだ。
細かい世話を焼き、ご飯を作ってくれて、バカみたいな話で盛り上がり一緒に笑う。
ただ見た目が変わっただけ。
だから今日の親睦会でのことも、家族相手に当然のことをしたまでだった。
それなのにそれらが全て、あのキスのせいでひっくり返されてしまった。
一体どういうつもりなのだろう? もしこれが悪戯だとすれば、これ以上なく悪質だ。だって、女の子として意識させられてしまっているから。どんな美桜の顔を思い返しても、胸がドキドキしてしまっている。
――ただでさえ、英梨花との距離も測りかねているというのに。
翔太はほとほと困った顔で、ポツリと言葉を零した。
「これからどんな顔すりゃいいんだよ……」
◇
当然のことながら、その日の夜はキスのことばかり考え、中々寝付けないでいた。
せっかく夢の世界に旅立ったというのに、そこでも美桜が出てくる始末。
夢の中の美桜は照れたり恥じらったり、今まで見せなかった貌を見せてくる。
現実の美桜はこんなしおらしくもないし、迫って来ない。そのことはわかっている。
だけど、こうして蠱惑的に挑発されれば反応してしまうというもの。
ドキドキと高鳴る鼓動。また、これが夢だという自覚もはっきりとあった。
はたしてこれは自分の願望なのか、それとも夢特有の荒唐無稽なことか。
わからない。ただ頭の中はもう、美桜いっぱいに占められていた。
流れに身を任せ、寄せられる唇に魅入られ、吸い寄せられるように自らの口も寄せ――そしてふいに呼吸を止められ、息苦しさから意識を覚醒させた。
「ん……んぅ……」
「……んんっ⁉」
一瞬、何が起こっているかわからなかった。
目を開ければ、瞳を閉じた英梨花の顔。
互いの吐息がかかるほどの距離にあるのに、それを感じられない。
何故なら、お互いの唇と唇が塞がれていたから。
それは紛うことなくキスだった。
頭の中は混乱の極致に陥っていく。やがて翔太の起床に気付いた英梨花は唇を離し、ツッと2人間に朝陽に照らされた銀糸が架かる。
「な、ちょ、英梨花っ⁉」
「兄さん、起きた? ……んっ」
「んんっ⁉」
目を開けた翔太を見とめた英梨花は、にこりと笑みを浮かべて耳元で囁き、再度チュッと唇を啄む。そしてペロリと舌で自らのそれを舐め、花が綻ぶような笑みを浮かべる。
「おはよう、兄さん」
「お、おはよう」
「もう時間だよ?」
「そ、それはそうかも、だけど、どうして……っ」
「どうしてって……挨拶でしょう? 昨日、兄さんが言ってたじゃない」
そう言って英梨花は「おかしな兄さん」、と言ってくすくすと笑う。
いきなりの妹のキスに、翔太は事態が読み込めず、混乱の極致にあった。
時間を確認すれば、起床する時間。
起こしに来た? でもどうして?
ぐるぐると思考が空回る中、ふいに英梨花に手を引かれて起こされる。
「もぅ、兄さん早く起きてってば。朝ごはん出来てるよ!」
「っ! あ、あぁ……って!」
翔太がまごついていると、英梨花はそのまま手を掴んだまま階下へと引っ張っていく。
もう何が何やら。事態をよく呑み込めず、されるがままになる翔太。
手のひらに伝わるのは小さく柔らかく、少しばかり冷たい、血のつながりが希薄な妹、英梨花の、|異性(女の子)の感触。嫌でも先程の唇の感触も意識してしまい、頬が熱を帯びていくのがわかる。
その一方で、リビングから漂うコーヒーの香りと共に、美桜の後ろ姿にも気付く。
英梨花で占められていた心の中を、昨日のことを思い出せばたちまち美桜が塗り替える。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
どんな顔をしていいかわからないまま、なるべく普段を装い話しかけた。
「おはよ、美桜」
「お、おおおおおぉおぉおぉおはよ、しょーちゃん!」
「……美桜?」
「え、えぇええぇぇっとその、朝ご飯今用意するからちょっと待っててね!」
美桜の反応は劇的だった。昨日のことを気にしているのがありありとわかり、目も合わせず挙動不審。しかし、慣れた手つきで朝食の準備を進めていく。
それがなんだか美桜らしくておかしくて、だけど可愛らしいと思ってしまい――その時ふいに英梨花が顔を覗き込み、少し唇を尖らせながら囁いた。
「あぁいうみーちゃんの反応、新鮮だね?」
「っ、そういう日もあるだろう」
まるで咎められるかのように感じでしまった翔太は、少し拗ねたような顔をする妹から目を逸らし、席に着いてコーヒーの入ったカップを眺める。
黒い水面に映るのは、英梨花と美桜で揺れているかのような自分の顔。
翔太は眉をよせ、それを一気に飲み干した。
◇
その後、特に会話もなく家を出た。
ギクシャクした空気をそのままに、早朝の通学路にはアスファルトを叩く靴の音だけが響く。
気まずい空気が流れていた。このままでいいわけはないだろう。
だけど、どうすればいいのか見当も付かない。
するとふいに美桜が「あ!」と声を上げ、あわててスマホを取りだした
「美桜?」
「いやぁ、今週の特売品のチェックしてなかったなって思いまして――あ、豚ブロックがかなり安いや」
「へぇ、それで何が作れるんだ?」
「まるごとチャーシューにしたり、角煮にしたり。切り分けてトンカツもいいかも」
「お、トンカツいいね。山盛りキャベツにソースかけてガッツリいきたい」
「あたしはおろしポン酢! えりちゃんは?」
「んー、摺りゴマのやつとか好き」
「お、それも旨そうだな。やべ、口の中がもうトンカツになってきた」
「あはは、じゃあ帰りにゴマも買って帰らないと」
「そういやみーちゃん、味噌も切れかかってるって言ってなかったっけ?」
「おっと、そうだった。あとマヨネーズも誰かさんのおかげで思った以上に消費が早いから、補充しとかないと」
「……悪かったな」
翔太が拗ねたようにそっぽを向けば、美桜と英梨花から屈託のない笑い声が上がる。
他にも髪が長い人がいるおかげで風呂の排水溝の掃除の回数が増えた、今日の体育の時間が変更されて朝一で憂鬱、そろそろ購買のカツサンドを攻略したい等々。通学路を歩き電車に揺られつつ、そんな他愛のない話を咲かせば、いつしか気まずい空気は霧散していた。そのことにホッと胸を撫で下ろす翔太。
(……変に気にし過ぎてたみたいだな)
偽装カップルに、久しぶりの家での共同生活。お互い慣れないことをしていたということもあって、雰囲気に呑み込まれてしまっただけなのかもしれない。そう思うと、苦笑も零れる。
そして学校への最寄り駅に着き降車する時、ふいに美桜が足を取られた。
「っと、大丈夫か? もしかして昨日の靴擦れか?」
「……………………ぁ」
昨日と同じく咄嗟に腕を掴むものの、どうしたわけか美桜はその体勢のまま固まってしまった。
そしてみるみる顔を耳まで真っ赤に染め上げていき、腕を振り払うかのように勢いよく踵を返す。
「に、日直! そう、そういえば日直だったかもしれない! 先に行くね!」
「あ、おい!」
美桜はそれだけ言って、周囲の注目を集めながら一気に学校へと駆け出していく。
一体どうしたことかと呆気に取られた翔太に、英梨花が耳元に口を寄せ囁いた。
「今の昨日と同じ格好になってたね、兄さん」
「っ⁉」
「キスのこと思い出しちゃったのかも」
「え、あ……っ」
英梨花に指摘され、思わず美桜の唇が触れた頬に手を当てる。すると英梨花はつんっと翔太の唇を人差し指でつつく。
「兄さんも思い出した?」
「ち、違ぇよ!」
「ふぅん?」そこで英梨花は言葉を区切り、耳元に口を寄せて囁く。「それとも私の方?」
「っ⁉」
一気に顔が赤くなっていくのがわかった。
返す言葉に困った翔太を英梨花は満足そうに眺め、クスリと妖しげに笑って先を行く。
後に残された翔太の心は、英梨花と美桜によって一瞬にして塗りつぶされてしまった。
きっと2人を天秤に乗せれば、ぐらぐら揺れ動くクセにどちらか一方には傾かないのだろう。そして、自分の意志でどちらかに傾かせやしない。
「そもそも、どっちも家族だろ……っ」
翔太は自分に言い聞かせるように小さく呟き、天を仰ぐのだった。
書籍化決定です!
12月1日、スニーカー文庫から発売予定です!
詳しくは割烹にて
もう1つの新作、ヤレるものなら~も書籍化決定です
そちらの方もよろしくお願いしますっ