52.㊤家族の、挨拶
親睦会の帰り道。
翔太たちは西日に長く引き伸ばされた影を重ねながら、家路を歩く。
まだ少し冷たい春の終わりの風が、羞恥に染まった翔太の顔を撫でる。
「ええっと、《お姫様抱っことか初めて見た!》《美桜っちってば大切にされてる!》《あーしもあんな風に助けられたい》……あ、また来た。今度は《葛城くん、めっちゃ早かったし!》《カレシめっちゃ欲しくなった……》《自然な感じがまたいいよね!》だって」
「あぁ、そうかよ」
「ま、言われるのも仕方ないよ。あの時の兄さん、さながらお姫様を守る騎士みたいだったもんね」
「うぐ……っ」
先ほどから引っ切り無しに届けられるメッセージを、器用に読み上げる美桜。英梨花も少し呆れ気味に、その内容に同調する。美桜を背負う翔太は羞恥で身を捩らすことも出来ず、ただただ足早に家を目指す。
(……やっちまった!)
先ほどの自分を思い返す。よろめいた美桜を咄嗟に支えたかと思えば、有無を言わさずお姫様抱っこ。素足を曝け出させて靴擦れの傷口を舐め、おでこをごっつんこ。そして公衆の面前でおんぶして連れ帰る。
咄嗟のことだったとはいえ、それが周囲の目にはどう映ったことか。
週明け学校で何と言われるかを想像すれば、気も重くなる。もっとも、後悔は微塵もしていないのだが。
そんな翔太を目にした美桜は、さすがに弄り過ぎたと思ったのか、慰めるように言う。
「まぁまぁしょーちゃん、ポジティブに考えようよ。ほら、今日のこれで偽装が盤石になったってさ! りっちゃんも、北村くんが目を丸くして唸ってたって言ってるし」
「……確かに、あれこれカップルを装わなくていいと思えば、気が楽か」
「そうそう、これからはこれまで通り、フツーに振舞えばいいだけ!」
「なら、ある意味これでカレシ役はお役御免だな」
「…………ぁ」
「…………美桜?」
美桜はいきなり息を呑み、黙り込む。
どうしたのだろうか? こちらからはその顔を窺えない。英梨花はいつもの外行きの無表情で、わずかに目を瞬かせるのみ。首を捻る翔太。
やがて家が見えてきた。
手の塞がっている翔太と美桜の代わりに、英梨花が素早く玄関に駆け寄り鍵を開ける。
それと同時に、美桜はひょいっと飛び降りた。とんとんと確認するかのように軽く跳ねる。どうやら怪我はもう、大丈夫らしい。
翔太が安堵の笑みを浮かべれば、目が合った美桜は一瞬固まり、目をぱちくりとさせた。少々気恥ずかしそうに頬を染めたかと思えば、一息に距離を詰め、桜色の唇を翔太の頬へと押し当てた。
「み、美桜っ⁉ い、いきなり何をっ」
「っ⁉」
翔太は突然のことに思わず飛びのき、瞠目する。唇を当てられたところを中心に、顔はこれ以上なく熱くなり、頭の中も真っ白になってしまう。
当の美桜本人はといえば、自分のしたことが信じられないとばかりに目を大きくし、口元に手を当てていた。
「え、えっとそれ、お礼……っ」
「お、お礼ってなんだよ!」
「く、唇の方が良かったかな⁉」
「そういう意味じゃなく!」
「そ、そういうわけだから!」
「あ、おいっ!」
そう言って美桜は脱兎のごとく家へと身を滑らせ、自分の部屋へと逃げ込んでいく。
後に残された翔太は茹だった頭に片手を当て、「なんだよ、もう」と搔きまわす。
英梨花はといえば、突然のことで固まってしまっていた。色素の薄い瞳でこちらの顔をまじまじと見つめてくれば、気まずい空気が醸成される。
翔太は愛想笑いを浮かべ、それらを払拭するよう、努めて軽い感じで言った。
「み、美桜にも困ったもんだな」
「……兄さんは」
「うん?」
「兄さんはあのキス、どう思ったの?」
しかし英梨花はそれを許さず、訊ね返す。その瞳はひどく真剣だった。
うぐっ、と言葉を詰まらせる翔太。
どう思ったかだなんて――
「挨拶かなにかだろ、あんなの。ほら、父さんの国じゃ家族への挨拶みたいなもんだし」
「家族への、挨拶……」
「ほら、美桜ってうちのもう1人の家族みたいなもんだしな、ははっ!」
「……っ」
結局、翔太は誤魔化すようなそんな返事をするのだった。
◇◆◇
家へと逃げるように入っていく兄の背中を見て、英梨花はくしゃりと顔を歪める。
しみじみと思う。再会した美桜と兄の仲は睦まじかった。
気を許しているのがよくわかる無防備な姿、遠慮なく言い放つ我儘や頼み事、だけど言葉の端々に感じる確かな絆。
それはきっと、自分が居ない間に育まれたものに違いない。
だから美桜こそが、まるで翔太の妹のように見えた。
正直なところ、そのことが羨ましくないと言えば嘘になる。
――もう1人の家族。
先ほど翔太から告げられた言葉が、ズキリと胸に突き刺さる。そこから滲むは不安と焦燥。
今日の帰り道、翔太に背負われていた美桜の姿を思い返す。かつてはあんな風に背負われていたのは自分の方だったではないか。
あぁどうして今、あるべきところに自分が収まっていないのだろう?
どうしてかだなんてわかっている。遠く離れていた距離と時間がこうさせているのだ。
英梨花の目から見ても、先ほどの翔太と美桜は明らかに互いを意識していた。そして強く惹かれあっていた。
このままいずれ強く結びつき、本物の家族になるだろう。
――自分を仲間外れにして。
それを回避するにはどうすればいいのか?
「……家族の、挨拶」
英梨花はそう呟き、自らの唇をそっと撫でた。