英国の首都とジェームズ・ポンド
「宝石強盗⁉」
千紘の大声が図書室に響いた。駆け寄って注意する図書委員に平謝りする。
今は昼休み、学校の図書室では肉屋の裏の図書館のように放埓に過ごすわけにはいかない。
千紘の勉学状況は、昼休みを図書室で過ごさねばならないほど追い詰められている。
「えええ! イギリスの首都ってフランスじゃないのかよ⁉」
「んなわけあるか。それはきっとパラレルワールドだ」
「じゃあどこだよ、メキシコか? アレクサンドリアか?」
「諸外国を巻き込まないでやってくれ……もう、地理はやめよう、な? 塵ほどの役にも立たない」
「うぐぐ……な、なら日本史を」
「なら、タイムリーに鎌倉でも」
「ふんふん。なあ、銀行強盗の話が脳味噌にこびりついて集中できないんだけど」
「落とせ。頑固な汚れは腕力で落とせ」
「そんなあ……なあ、その宝石強盗の逮捕に貢献したら単位にならないかな?」
「なるわけねえだろ」
宝石強盗の話をしたのは間違いだった。
ただでさえ少ないやる気が、好奇心に押し流されて消えてしまった。
警察は行方を捜しててんやわんやだ。犯人の行方ではなく、カナロアの裂果の行方だ。宝石店から、早く取り返してくれと矢の催促らしい。六科警部が頭でっかちの盆暗と毒づく三島市警にも尻を蹴られ、休む暇もないそうな。
そもそも、走り去る強盗の車に振り切られて逃がしてしまったのは三島の警察だ。運転手は、その日に行われていた道路工事を全て把握していて、警察は把握していなかった。渋滞を正確に予測した逃走劇は、犯人の勝利に終わった。
得られた成果といえば、犯人の一人が市の道路交通事情に詳しい人物であろうということだけだ。公務員か、民間人かすらわからない。少なくとも市の交通課には、行方をくらました人物はいなかった。
宝石店から去った、手引きと思われる女性従業員も偽名だった。竹内辰巳と名乗っていたそうだが、身分証明書が偽造であったとわかっている。
「それだけ警察が探してもみつからないやつらを、どうやって探し出すってんだよ」
「だよなあ……意外と、お前の山に迷い込んでたりして」
「そこまで間抜けだったらいいけどな」
「でもよ、折角奪った宝石を民家のゴミ箱に捨てていったんだろ? そういう神経してんだろうな」
「カナロアとかいう胡散臭い海の神様のフルーツが、大層高価らしい。それさえ手元に残れば、他ははした金なんだろう」
「高価って、どれくらいだ?」
「三百万ポンドだとよ」
「ポンド……?」
「日本円で大体三億五千万円だ」
「さ、三億⁉」
またもや大きな声を立てて、図書委員が注意に来る。叱って、顔を赤くして帰っていくあたり、ただイケメンと話す口実にしているだけかもしれない。
「ぽ、ポンドすげえ……」
「イギリスの通貨な。それくらいは覚えといたほうがいいと思う」
「フランスすげえ」
「イギリスといっただろ」
「ジェームズ・ポンドすげえ」
「やかましい。それはきっとパチモンだ」
三億円の宝石を探すよりは、地道に勉強した方が効率がいい。
しかし、集中力を切らした千紘の勉学は聊かも捗らず、昼休みはほぼ徒労に終わった。
羽裔は、石の上にどっかりと腰を下ろした。
カナロアの行方は杳として知れない。
羽裔は炉鹿への対抗心のみで、強盗団の拿捕と宝石の奪取を計画していた。
肩に巨大な木刀を乗せて、子飼いの者どもに周辺を探らせている。木刀は使い古した櫂を削って作った。長年海水をかき分けてきた木は重く、十分武器として使える。
遠き古の戦国時代、剣聖宮本武蔵も、巌流島の決戦の際には櫂を用いて燕返しの秘剣に打ち勝ったという。
本当は、家の倉庫にしまってある三尺余りの野太刀を引っ張り出そうとしたのだが、父親に止められた。羽裔は知らなかったが、現代日本には銃刀法という破廉恥な法律があり、武器の携帯が基本的に認められていないのだ。
そんな法律を可決した馬鹿者はおもしを括り付けて二、三日沈めてやりたいところだ。
が、今は宝石だ。グラスゴーの富豪が目をつけたカナロアの裂果に、羽裔は興味津々だった。少女的なキラキラして興味ではない。海賊的なギラギラした興味だ。
親友も巻き込まれていることだし、上手くいけば炉鹿の鼻を明かすことができる。まるで自分には論理的な思考ができないかのように笑っている鼻を。
物理の宿題中に散々馬鹿にされたことを、まだ根に持っていた。
「姐さん! 郵便局の職員が、缶詰工場の前でこんなもんを拾ってやした!」
「お、よくやってくれたね。へえ……なんか綺麗だし、落とした宝石かな」
「さあ……? 周りに似た石が落ちてるわけでもなし、そうだと思いやすがね」
ご苦労だった、と子飼いの男に小遣いをやる。岩波のお嬢様は、一声かければ十も百も働く手下をたくさん抱えている。
缶詰工場は、下多賀の南部の海岸沿い、郵便局のすぐ近くにある。
敷地は狭く、大部分が平家で、一部だけたんこぶのように二階部分が増設されていた。
看板は海風に色褪せて、文字が全く読めない。かろうじて何かが書いてあったとわかる程度だ。
昼時で、昼食に出歩く社会人の姿がちらほら見える。学生の姿はない。本来ならば、羽裔も学校にいなければならないのだが、細かいことだ。
「アタシたちの海に、悪党が居座ってるのは我慢ならないからね……行き場がないんなら山ん中にでも行きな」
そう呟いて、堂々と中に侵入した。
錆びた扉が耳障りな金属音を立てる。
臭いがひどい。かなり長い間、人の手が入っていない。機械類はネトネトした油まみれで、床を踏むたびにガムを踏んだような感触が残る。
中には、誰もいないようだ。ネズミが数十匹蠢いている以外、営みらしいものはない。
異臭に麻痺していた羽裔の鼻が、徐々に鋭さを取り戻していく。
工業油や古い金属の臭いの中に、有機的な臭いが混じっている。
一際大きな機械のあたりからだ。
ベチョベチョと音を立てて機械の裏に回る。
男が白目を剥いて倒れている。
「っ! こ、これって……」
その時、目の前から大きな声がした。
「きゃあああっ」
羽裔が、世にも珍しく女の子らしい悲鳴をあげて工場から走り去る。坂を降りて郵便局の横を通り過ぎて、まつの鮮魚店を目指す。
息を切らして鮮魚店に着いた時、聞いた声は人間のものではなく鼠の鳴き声だったと思い至った。
「ちくしょう……こんなのアイツに知られたら……末代までの恥」
「あら、羽裔ちゃん。どうしたんだい」
家の前で腹を切らんばかりに悔しがっている羽裔を、三笠の母が見つける。
ただならぬ様子の羽裔に驚いた様子だ。
「で、電話を貸してください」
「え?」
羽裔は携帯電話を持っていない。三度買って、どれも三日と持たなかった。五日間も壊さなかった炉直に、それはそれは煽られた。
「いいけど、誰にかけるんだい。家? 学校?」
「警察と、救急車に」
羽裔は寒さとは別の理由で震えながら言った。
「郵便局前の缶詰工場で、人が倒れてて……多分、死んでる」