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 血の気が引く音が聞こえてくるかのようだった。先程まで上気していた少女の顔は見る見る内に蒼褪めて、うっとりと微笑んでいた筈の表情が刹那に凍り付く。

 少女は嫌々をするように頭を振り、次いで恐怖に戦慄く自身の細い肩を両腕で抱き締めた。フィロを凝視するその瞳は恐れの為に目一杯に見開かれ、眦にじわりと涙の雫が浮かぶ。

 一つ、二つ、三つ、四つ。少女が喘ぐような呼吸を繰り返す。次の瞬間、少女は絹を裂くような悲鳴を上げて身を翻した。今し方入って来たばかりの扉を駆け抜け、一目散に外を目指して走り去る。

 表の貸本屋の方の扉が勢い良く閉まる音がして、扉に取り付けられた小さな鐘がけたたましく鳴り響く。フィロは台所を角にして右へと折れ曲がる鉤型の空間に設けられた小さな居間の、食卓にもなる円卓脇の椅子の前で立ち尽くし、嘆息した。

 自分達の恋路に立ちはだかる数々の障害をどうにかしたい。その為に魔法使いに力を貸してもらいたい。それが、つい先程この場から逃げ出して行った少女の頼みだった。だからフィロは答えたのだ。ならばどのような人間を何人始末すればいいのか、と。

 呪術師の一種である傀儡師のフィロに出来るのは、直接間接を問わずの殺害か、少女の言う障害への呪詛くらいのものだ。対象の命を絶つ。精神を錯乱、将又崩壊させる。意識を奪い、封じ込め、二度と自らの意思で動けないようにする。基本的にそうした禍事に特化しているからの呪術だ。当たり障り無く穏便に片を付ける術が揃っているのなら、呪いの術とは呼ばれまい。でなければ生国でも呪術師と法術師という、曖昧ながらも明確な区分などは存在しなかっただろう。

 恋の障害は取り除きたいが、人を介してとはいえ他者に危害を加えるのは恐ろしく、悍ましい。ならば相手の青年と手に手を取って駆け落ちでもすればよいのではなかろうか。自身には何の覚悟も無い癖に、望みを叶える為に人の手を借りようとなどとは笑わせる。フィロは少女の考えの甘さに辟易し、少女が開けっ放しにしていった店へ続く扉を閉めた。

「何だ。また金蔓(きゃく)を逃がしたのか?」

 元いた椅子へと戻ろうとしているところで、階段の上から揶揄の声が降ってくる。見上げれば、三階の書斎に籠もっていた筈のシェディールがいつの間にか、曲げた片腕に凭れ掛かり、僅かに身を乗り出すようにしてフィロの事を覗き込んでいた。

「…向こウガ勝手に逃ゲテ行っタだけでス」

「似たようなものだろう。どうせ、お前の言動が原因なのだろうからな」

 なら、呪殺や呪詛の相談を笑顔で行えばいいのか。其方の方が余程恐怖を煽るような気がするが。フィロは言葉にはしない反論を階段を下りて来るシェディールを見つめる目付きに託した。フィロの不服を知ってか知らずか――否、恐らく見透かしているのだろう。シェディールはいっそ太平楽に台所の前に立ち、水瓶から鉄瓶に水を汲んでいる。

「…お茶なラ、僕が淹レマしょウカ?」

「いや。傀儡師殿は何やらお忙しいご様子だ。茶ぐらい自分で淹れるとしよう」

 本業の写本師としての仕事の休憩がてらに降りて来たのだろうシェディールにそのように言われると、最早皮肉に他ならない。事実そうなのだろう。所在無く椅子に戻ったフィロへと向けられた肩越しの視線には愉快げな笑みが混じっている。

 気持ち良く開け放たれた窓からは晩春の、未だ穏やかな空気が風となって入り込んで来る。鉄瓶を掛けた竈に火を入れ、シェディールは調理台に後ろ手に手を突いて此方を振り返った。薄い唇が言葉を発する形に開き加減になり、怜悧に整った容貌が意地の悪い微笑を湛える。

 何かを言われる前に先手必勝とフィロはついさっき座ったばかりの椅子を立ち、台所脇の戸棚から茶葉と茶器、茶請けの菓子の用意を始めた。

「どうした。今日は随分と気が利くな?」

 面白がる風に放られた言葉を聞こえない振りで受け流す。視界の片端でシェディールの薄笑いがちらついた。フィロは淡々と卓上の用意を整え、けれども店先の方から聞こえた訪いの挨拶に手を止めた。

 同じく挨拶の声が聞こえたようでシェディールが怪訝に眉根を寄せ、店に続く扉を見遣る。フィロは向こう側から開かれる扉を見つめたまま、来客の分の茶も用意するべきかと少しだけ悩んだ。

 扉が開き、来客がフィロかシェディールの在宅を確かめる風に頭だけをひょっこりと覗かせた。きょろきょろと店の奥を窺う露草の青を思わせる瞳が此方に向く。目当ての人物が二人共揃っているのを見て、ルチカは破顔して卓の側へとやって来た。機嫌の良い子供染みて弾む足取りに合わせ、銀髪の毛先が嬉しそうに跳ねている。

「やあやあ。二人共、こんにちは。元気だった?」

 信者への説教で喉を鍛えているからか、麗らかな春の風情を思わせるルチカの明るい声は必要以上に良く徹った。お馴染みの法衣の上から旅装の外套を羽織った出で立ちで足早に円卓まで寄って来たルチカは脱いだ外套を側にある衣装掛けに引っ掛け、二つしか無い椅子の片方に然り気無く陣取る。

「あれ、お茶の時間?じゃあ、ボクにも頂戴」

 両手で頬杖を突き、にこにこと笑うルチカ。対するシェディールは無情にも彼を椅子ごと蹴り倒した。

「ほら。くれてやるから好きなだけ食んでいろ」

 シェディールは床に倒れ伏して悶えている親友の傍らに、ことん、と茶葉の入った小振りの缶を置いた。端から見ると酷い遣り取りだが、いつもの事なのでフィロは黙って静観を決め込む。

「うう…。酷いよ。邪悪の権化かい、君は?」

 ずるずると起き上がりながらルチカは卓の端に攀じ登るように頭半分を出した。続けてつまみ食いをする幼子のように、そうっとに皿に盛られたビスケットに手を伸ばす。すんでのところでシェディールが皿を引き、ルチカが抗議に頬を膨らませる。

「挙げ句にこの仕打ちだ。こんな悪魔のような人間の何処がいいんだい、お人形ちゃん」

「……イらっシャいませ、ルチカさん」

 この状況でその事について詳しく話す気には到底なれなかったので、フィロは取り敢えず定型の挨拶だけを口にした。ルチカは怨念の沼底から這い上がって来た亡者のような体勢のまま、一転花が咲くような笑顔になった。

「お人形ちゃんだけだよ、この家でボクを歓迎してくれるのは」

「歓迎されていないのが判っているのなら、早く帰ったらどうだ?」

 シェディールは温かな湯気を立てる茶器を並べ、自分で倒した椅子を元に戻して其処に座る。小さく顎をしゃくるシェディールに促されてフィロはもう一つの椅子に腰掛けた。これでルチカの分の椅子は無くなった訳だが、このくらいでは全くめげないルチカは窓辺の所に二つ並べてある来客用の椅子を持ち出して来る。流石だとフィロは感心した。

「――で、今日は一体何の用だ?」

「うん。じふはね、ろくさ、ほっちのほーにふっほーりなっらんらよれ」

 ルチカは行儀悪くもビスケットを頬張りながら喋っているので、何を言っているのかフィロにはさっぱり理解出来なかった。其方を窺えばシェディールも同様らしく、何か酷く奇矯なものに出会したかの如く片眼を細めている。

「口の中の物を飲み込んでからにしろ」

 シェディールからの端的にして的確な指示にルチカは暫し口をもごもごとさせていた。円滑に話を進める為にフィロは自分の茶をルチカの前に差し出した。受け取ってルチカが茶を二口分程飲む。ルチカは育ちの良さを発揮して所作美しく茶碗(カップ)を受け皿に戻すと、微笑んで礼を述べた。

「有難う、お人形ちゃん。君はやっぱりシェディールには勿体ないくらいの良い子だね」

 フィロは特に返答はしなかった。それより、いい加減にその「お人形ちゃん」という呼び方を止めてもらえないだろうかという言葉が胸の辺りにまで迫り上がっている。しかし言っても仕方が無いような気がして、結局フィロは言葉を呑み込んだ。人形よりも人形らしい〝人形遣い〟だから、お人形ちゃん。以前にルチカが彼特有のその呼び方の由来をそう語っていたが、フィロとしてはルチカの感性にはどうにも付いていけない。

「そのお人形ちゃんがお前の莫迦さ加減に閉口しているぞ。いいからさっさと用件を話せ」

 何とも言えず複雑なフィロの胸中の想いを汲んだかのように言って、呆れ顔のシェディールが卓に頬杖を突いた。ルチカは一瞬むくれるように唇を突き出したが、直ぐに脳天気にも見える笑顔に戻り、口を開いた。

「そうそう。実はね、ボクさ、クラレント(こっち)の方に出向になったんだよね」

「は?」

 そう聞き返すシェディールの声には一抹の驚きすら無く、どちかというと冷淡な響きを持っていた。しかしルチカはそれまでと全く同じ朗らかな表情と声音で話を続ける。やはり、強い。フィロとしては感心を通り越してそろそろ驚嘆する想いである。

「教会の方で、クラレントの大聖堂に少し人手を回したいって話が出てさ。ほら、此処の大聖堂って巡礼の人で連日大盛況でしょ。なら丁度シェディールやお人形ちゃんも住んでる所だし、楽しそうだなってボクが立候補したんだ。だからこれからはもっと頻繁に遊びに来られるし、来てもらえるよ。ね、嬉しいでしょ?」

「寝言は永遠に眠ってから言え」

「…それ、ボク、死んでるよね?言えないよ、寝言?」

 茶碗の蔓に指を掛けながら其方を見もせずに言うシェディールと、真顔で問い質すルチカ。早速楽しそうな二人を見て零した吐息に微かな失笑を紛れさせたフィロは、茶のお代わりを淹れようと立ち上がろうとした。其処に、表の店番をさせている槐から来客の報告が脳裏に届く。

 どうやらまた、魔術師目当ての客が来たようだ。一日に二度も客が現れるのは珍しい。フィロはその旨を二人に話した。客をいきなりこの珍妙な茶会の席に招く訳にもいかないので、一先ず表に出るべく椅子を立つ。

「貴重な収入源だ。次は逃がさないように気を付けろ」

「頑張ってね、お人形ちゃん。応援してるよ」

「………」

 片や素気なく、片やにこやかに。底意地の悪そうな微笑みを浮かべて足を組んだシェディールと片手をひらひらと振るルチカとに送り出されるこの状況。疑問、不平、滑稽、遺憾。何とも表し難く複雑に入り乱れた感情を無表情の裏側に抱いたフィロは、けれど見た目ばかりは平然そのものに表へ向かう。

「――ねえ、シェディール。お人形ちゃん、大丈夫かな?」

「要努力…と言ったところだろうな」

 声を潜めて交わされている出端を挫くような遣り取りには一切耳を貸さない事にする。多少は今に見ていろと奮起する想いも無くは無いが、ああやって途端に真面目な調子で案じられると却って居た堪れなくなるではないか。

 フィロは店へと出て、成る可く音を立てぬよう静かに扉を閉めた。場合によっては詳しい話を聞く為に奥へ案内するのだから一々閉めなくてもいいのだが、シェディール等に聞き耳を立てられるのが嫌だったのだ。それが心配から来るものであれば殊更にである。

 幼い子供ではあるまいし、接客くらい一人で出来る。ただ、故国でそうしていた時と少々勝手が違うだけだ。

 言い訳がましいのは自分でも解っていたが、心の中でそう弁解せずにはいられない。其処には傀儡師としてではないフィロ個人のささやかな、だが確固たる矜持が存在するのであった。

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