5
窒息しそうな程の土の香が全身を包み込んでいた。実際には土と顔の部分との間に辛うじて呼吸の可能な空間があるが、しかし生き埋めとはこういう感覚なのだろうか。天地上下すら判然としない土中の闇を感じながらフィロは自由にならない身体を動かそうとしてみた。だが手も足も胴体も土にしっかりと固められており、身を捩るどころか指の一本すら動かせそうにない。
唐突に、土の匂いが散った。同時に身体の自由が戻る。一拍遅れて地面に放り出された衝撃があり、漸くあの使い魔の体内――と言っていいのかは判らないが――から解放されたのを知った。
捕らわれている間に何処かへ運ばれているようだったが、果たして此処は何処だろう。フィロは辺りを窺った。土の中から解放されたばかりの眼にも周囲の様子は暗い。暫く前に沈んだ太陽の遺した薄明かりも宵の空の果てに吸い込まれてしまったようだ。
随分と広い場所だった。小さな家屋の一軒くらいは余裕で収まるのではなかろうか。天井は梁が剥き出しになっていて、その先に見える屋根には幾つかの天窓が規則正しく並び、外からの光を取り入れている。星明かりだろう、四角い天窓から幽かながらも光が幾筋も注ぎ、外は新月の宵とはいえ取り敢えず視界に不足は無い。
床部分は手前半分が土間、奥側半分が板敷きになっていた。板敷きの側には差し渡しだけで人が二人掛かりで両腕を広げた分はありそうな、これまた大きな木棚が広い屋内に間仕切りのように幾つも配置されている。けれども大棚には何一つ物が置かれていないようだ。雰囲気から推測するに使われていない倉庫の類かと思われた。となると此処は、先刻までいた路地から南に行った場所に存在する倉庫街の何処かなのだろう。点在する木箱は椅子代わりらしく、見覚えのある連中がそれぞれに腰掛け、此方の動きを注視していた。
傍らの、木箱の一つに載せられた角灯の灯りのぎりぎり届こうかという薄闇の縁では、既に立ち上がったシェディールが外套の土汚れを軽く払っている。この状況で余裕すら感じさせるその行動に、居並ぶ男達の中から一人、稲束を横に寝かせたような前髪をした男が忌々しげに唾を吐いた。
「へっ。お貴族様はどんな時でも余裕綽々ってか?けどな、そうやって澄ましていられるのも今の内だぜ」
不機嫌に言い捨てたキリーが自分の座っていた木箱を思い切り蹴り飛ばす。中身は空であるらしく木箱はかなりの勢いで飛んだ。未だ放り出された体勢で座り込んでいたフィロは土埃を立てて手前で止まった木箱を見、地面に手を突いてのろのろと起き上がる。
「悪いが私は貴族ではない。生家は確かに魔導師の家系としては名家の部類に入るだろうが、かといって混同してもらっては困るな」
シェディールが嗤う。肩から零れた三つ編みを背に弾き、彼女は不遜に片手を腰に当てた。
「尤も魔導師と魔術師と、それ等を名乗るも烏滸がましいような無能な連中との違いすらも判らんようなお前達には難しい話だったか」
「…んだと、テメエっ!!」
「あ゛あ゛!?おい、口の利き方に気をつけな!」
挑発染みた言葉に面々が気色ばみ、木箱を蹴立ててシェディールに詰め寄ろうとする。そうやって簡単に挑発に乗る時点で三下であるのが知れるようだ。昨夜、自身も絡まれたあの判り易い破落戸連中にフィロは冷めた眼を向けた。
「おいおい。お前ら、少しは落ち着きやがれ。大の男がみっともねえぜ」
キリーが手近な所から新たな木箱を引っ張って来て、その上に座り込む。つい先程の己の行動を完全に棚に上げた台詞だったが、キリーは一目置かれる立場であるようで他の男等は不承不承に引き下がった。
「なあ、言った通りだったろ?余計な首を突っ込むな。〝人形遣い〟はやべえ奴だ、ってよお」
キリーは傾けるように上体をフィロの側へと回して、訳知り顔で顎を擦った。シェディールよりはフィロの方が扱い易いと踏んだのだろう。目許口許を性悪な嗤笑に吊り上げ、指笛を吹く。それを合図にフィロの直ぐ隣の地面が盛り上がり、土塊の使い魔が再度出現した。
「みーんな、こいつにやられちまったんだよ。勿論、俺たちもちょいとばかし協力はしたけどな]
親指で使い魔を指し、得意げに眉を聳やかすキリー。使い魔はうぞうぞとフィロの周りを動き回った後、主を慕う飼い犬のようにキリーの足下に潰れた。
「あの小面憎いラークスの野郎もなあ、素直に俺の言う事を聞いてりゃああんな目に遭わなくて済んだのによ。ったく、何が破門になった以上兄弟子でも弟弟子でも何でもない、だ。偉そうな口叩きやがって。ハナタレのクソガキがよ…っ!」
言いながら顔を怨情一色に染め、キリーは親指の爪を噛んだ。彼等が相弟子時代にどのような関係だったのかは知らないが、キリーにはラークスに対して宿意があったのだろう。かねてよりの怨み辛みにキリーの眉間には幾筋もの深い皺が寄った。
「片恨み、という言葉を知っているか?」
せせら笑うようにシェディールが言う。キリーの人となりを見ている限りではフィロも同意見だった。恐らく兄弟子を諫める為の言葉を讒言のように取り、勝手に怨みを募らせたに違い無い。これまでに見聞きしたキリーの言動はそう思わせるには充分である。
「うるせえっ!!ちったあ黙ってろ!ぶっ殺すぞ!!」
怒りに駆られたキリーが唾を飛ばして叫んだ。だがシェディールは一向に怯まず、泰然自若としている。怒気を立ち上らせて肩を怒らすキリーに追随し、彼の仲間達が凄みを利かせて威圧の構えを取る。
特に言うべき事も無いのでフィロは無言を貫いていた。思う事は大体シェディールが言ってくれている。
つと流れて来たキリーの視線と偶然目が合った拍子、キリーがぽかんと口を開けた。次いでキリーは苦々しげに表情を歪める。終始押し黙ったままのフィロが恐怖に震えて声も出せずにいる訳ではなく、寧ろ彼等を取るに足らない者達として我関せずでいるのが漸く判ったらしかった。
「……てめえ。ホントにぶっ殺されてえみてえだな…」
キリーはシェディールとフィロを見比べるように横目を使い、フィロの事を血走った瞳で睨み付けた。
「………」
フィロは何も答えず、キリーを正視する。
「出来るものならやってみろ、の意だな」
ご丁寧にシェディールが注釈を付ける。キリーの堪忍袋の緒が切れる音が聞こえたような気がした。
「…そんじゃあ、お望み通りにしてやるよ――と言いてえところだが……惜しかったなあ?お出でなすったようだぜ」
喉の奥で唸るような発声でそう言い、渋面のキリーはフィロ達の後方へと顎をしゃくった。
がらがらという引き戸を開ける大きな物音が背後から響く。振り返れば、倉庫の扉が開かれようとしているところだった。重そうな板戸の下部に小さな車輪のような物が並んでいて、始めに力を掛ければ後は車輪のお陰で滑るように、すんなりと戸が開く仕組みになっているらしい。滑らかに開き始めた引き戸の隙間からは外に在るらしき灯りが洩れていた。
今や、倉庫内にいる者全てが其方に注目していた。勿体付けるみたいにしてゆっくりと開かれていく扉の隙間から、地面に置かれた角灯の灯火が生み出す炎色の光が零れてくる。その光に照らされながら、空き倉庫を訪れた人物が纏う桔梗色のローブの端々が強めの夜風にはためいた。
「皆さん、お揃いのようですね」
緊張感とは無縁な、酷く穏やかな声色。玉の座に平伏した臣下の前に現れる王の如き佇まい。白の上衣に袖無しの皮の胴着を重ね、濃茶の脚衣に黒の長靴という揃いの衣装を身に着け腰には長剣を佩いた私兵と思しき男を二人も従えて入口から闊歩して来る、鮮やかな茶の髪をした男。
「遅かったな、ガルシア・ルクレール。衣装選びに手間取りでもしたのか?」
「この状況でその減らず口。いっそ感心すら覚えますよ、シェディール・ディアン」
揶揄の微笑を浮かべて言うシェディールにガルシアは先刻見たものと何ら変わらない、優雅で物柔らかな微笑みを返した。続いて彼はキリー等を順繰りに見、そして最後にフィロに目を留める。
「お待たせ致しました、フィロ。どうにも所用が長引いてしまいまして」
「……」
さも済まなげに眉尻を下げてみせ、不要なくらいに感情を込めた声で告げるガルシア。その言葉が額面通りに受け取っていいものではない事に気付かぬ程、フィロは莫迦ではない。
「モう、結構でス」
ガルシアは一瞬だけ意味が解らないという風に少し眼を丸くしてみせたが、直ぐに笑い混じりに頭を振る。改めて微笑み直し、ガルシアは綽々として髪を軽く掻き上げた。
「そうですか。ならば私も率直に行きましょう。下らない寸劇をいつまでも続けるのも退屈ですからね」
優しい大人の振りはもう終わりだ。ガルシアの深緑の双眸がそう語り掛けていた。まだ勝手な子供扱いを続けるのかとフィロはうんざりした。
私兵の一人が捧げ持つ角灯の灯りを受けたガルシアの影が長く延びる。フィロが煩わしさに俯けた視線の先に影が触れるか触れないかという辺りでガルシアは立ち止まり、ゆったりと皆の顔を見回した。
開かれた引き戸から夜風が入り込む。春の陽気を失った外気に冷や水を浴びせられたかのようにキリーが身震いをした。キリーは腰をやや屈め、諂うような上目遣いになる。
「旦那。全部、言いつけ通りに…」
へへっ、と卑屈な笑い声を洩らしてキリーがガルシアの反応と機嫌を窺う。残りの三人も揉み手をしたり、へいこらしたりと忙しくガルシアの機嫌取りに走る。その様子をシェディールが滑稽だと言わんばかりに鼻先で笑った。
キリーの言にガルシアが頷く。ガルシアの取り澄ました横顔に向け、シェディールが突っ慳貪に声を掛けた。
「…さて。遅れて登場した主役殿には既に演説の用意があるのだろう?出来れば長広舌は避けてもらいものだな」
「貴女が要らぬ口を挟まなければ問題はありませんよ。速やかに済ませたいと言うのであれば、黙って静かにしていて下さい。尤も、貴女にそれが出来ればの話ではありますが」
嘲るシェディールと素っ気なく言い返すガルシア。双方一歩も譲らずに牽制染みた視線を戦わせる事暫し。先に目を逸らしたのはガルシアだった。シェディールなど相手にしていては埒が明かないという雰囲気でガルシアは背けた目線をフィロへと滑らせる。
「魔術師狩りの調査に協力して頂き、本当に感謝しています」
其処に含まれたものを鋭敏に感じ取ったフィロは真っ直ぐにガルシアを見つめ返す。
「でハ、コの魔術師狩リもソろそろ終ワりにすルノでスカ?」
「…意外に頭が回るようですね。もっとのんびりしているように思っていたのですが、話が早くて何よりです」
「負け惜しみにしか聞こえんな。大方気付かれてなどいる筈も無いと高を括っていたのだろうが、言っただろう?それはお前如きが手に負えるような奴ではない、と」
シェディールは皮肉げに口の片端を引き上げ、過失を指摘するみたいに指を指す。冷嘲めかした彼女の言動をガルシアは背中で黙殺したが、キリーが「うるせえ、てめえは黙ってろってんだ!」と噛み付いた。ここぞとばかりに声を荒らげるキリーをしれっとした顔で無視するシェディールに、フィロは成る程と自分の推測が正しかった事を知った。先達てガルシアと別れた際に彼が言っていた気になる人影とは、やはりシェディールの事だったのか。
調子に乗って喧しく騒ぐキリーをガルシアが小さく睨め付ける。キリーはあっという間に勢いを失くして小さくなった。「成る程。よく躾てあるようだ」とシェディールが呟く。
「…ですが、少々勘違いしているようですよ。この度の一連の事件を引き起こしたのは其処にいるキリーという男です。私はただ事件に関する調査を行っていただけで、犯行に荷担していたかのように言われるのは甚だ心外ですね」
直前までの騒ぎなどまるで無かった事にしてガルシアが話を続ける姿勢を見せる。フィロは此方を向いているガルシア越しにシェディールを見遣り、少しの間黙っていて欲しいと目顔で頼んだ。仕方が無いとシェディールが態とらしく肩を竦める。
「彼はかつて魔術の師の許を破門になり、後に身を持ち崩し、世を怨み、延いては魔術師という存在そのものを怨んで今回の魔術師狩りを計画した。其処に私が入り込む余地はありません。貴方方の配役は…そうですね。どうにか犯人にまで辿り着きはしたものの、敢え無く返り討ちに遭ってしまった――というものでどうでしょう?」
「…愚かでスね」
「ええ。でも、貴方や彼女には丁度良い立ち位置かと思いますよ」
ガルシアは蔑む風に言った。取り繕おうとしてはいるものの、内心の愉悦を隠し切れずにいるのが語調から聞き取れる。胸元を飾る青の薄布を結び直したガルシアはフィロへ優しげに笑い掛け、浅はかな幼子を諭すような口調で言葉を継いだ。
「先程の台詞ではありませんが、貴方には本当に感謝しているのですよ、フィロ。貴方のお陰で目障りな蠅を捕らえる事が出来た。何をどう嗅ぎ付けたのかは知りませんが、このところ貴方の〝恋人〟が私の周囲に探りを入れているようでしたので、非常に邪魔だったのですよ」
「だろうと当たりを付けてはいたが、となるとユーディス・バルセル等があの場にいたのはお前の差し金か」
「ええ。仕事の都合で昼前に彼等と会う約束があったのですが、魔術師狩りの話題で盛り上がっていたようなので、最も新しい事件現場の詳細をお教えしたのです。彼等はあの性格ですから出向いた先に誰か――特に魔術師でもいれば、当然言い掛かりを付けたり等するでしょう。其処へ貴女が現れるかどうか、賭けてみたのです。上手くいけば小虫の如く鬱陶しく周囲を飛び回る貴女を共々に確保出来ますからね。結果は上々でした。…ですが、貴女にとってこの少年がそれ程までに大切だとは思いませんでしたよ」
口許に意味ありげな笑みを含み、ガルシアが眼だけを動かしてシェディールを見る。シェディールはガルシアの持たせた含みごとその視線を一笑に付した。
「実にお前らしい発想だな。序でに魔術師狩りの黒幕であるお前が何故今回の事件を起こそうと計画したのか、自白してもらえると有難い」
「自白というのは罪を犯した者がそれを認めて行うものですよ」
「成る程。確かに、相手は高が魔術師だ。凡俗な連中が何人傷付き、仮令命を落とそうとも、お前にはどうでもよい事だろうな。ガルシア・ルクレール」
「その通りですが、何か問題でも?シェディール・ディアン」
我が意を得たりとガルシアが胸に片手を当てて軽く礼をする。シェディールは不快げに眉を顰めた。ガルシアが背筋を伸ばし、彼の両脇に屹立するみたく控えていた私兵二人に目配せをし、最後にキリー等へ指図をするような視線を投げ掛ける。この場での手筈は前以て整えてあったのだろう。おう、というキリーからの短い声掛けに残りの三人が動き出した。
破落戸等の摺り足が足下の土を削る。あるいは脚衣の隠しに両手を突っ込み、あるいはしまっておいた獲物を取り出そうと懐を探り、荒っぽく呼気を吐き捨て、彼等は扇形に散開する。
「では、私はこれで失礼します。ご存知の通り、今宵は連盟の会合がありますから」
平然と言うとガルシアはあの穏やかな微笑を湛えた。ガルシアの余裕をそのまま表したかの如くに緩やかに翻ったローブの背へ、フィロは聞こえるように言葉を零した。
『本当に、見掛けばかりの人ですね』
外へと歩き掛けていたガルシアが訝り、振り返る。フィロは構わず無感動に、だが思うままを言葉に変えて紡いだ。
『口調や物腰、絶やさない微笑。そのどれもが見掛けだけ。貴方個人に興味がある訳ではないのでそれは構わないけれども、他人からどう見られるかを其処まで計算しているのなら、一時の感情で本性を覗かせるのは止めた方がいいと思います。…それとも、詰めが甘いだけですか?だとしても、然して驚きはしませんが』
用いた言葉はフィロの生国の言語であり、意味が理解出来ないガルシアは不審に眉根を寄せる。フィロも彼方の言葉で語り掛けて理解してもらえるものとは思っていない。だが仮にガルシアにも解せる言葉で話したとしても、本当の意味でガルシアがフィロの語る言葉を聞く事は無いだろう。ならば無理に外つ国の言葉を使う必要は無い。どうせ拙い発音を無意味に笑われるだけだろうから。
フィロを除いてこの場で唯一フィロの使った言語を理解するシェディールが小さく吹き出した。怪訝の余り睨むように其方を見遣ったガルシアに、シェディールが親切にフィロの言葉を通訳してやった。半分以上面白がっての事なのは言うまでもない。
「――だ、そうだ」
ガルシアの顔から表情が抜け落ちた。ガルシアが無駄に誇り高い事は火を見るよりも明らかだった。その彼が塵芥同然と考える凡百の魔術師の一人に過ぎないフィロにあのように言われたら、とても冷静ではいられないだろう。
心頭に発した怒りで逆に蒼白になった顔。地の底から響くような低い声でガルシアは命じた。
「――片付けておけ」
主の命令に私兵二人が短い会釈をする。最早先程までの慇懃な口調すら捨て去ったガルシアは腹立ちも露わに早足で空き倉庫を立ち去った。出入口の両脇に控えていた私兵の一方が、ガルシアを出て行くのを待って引き戸を閉める。鎖された空間には事が起こる前の静けさが降りた。戸が閉まる寸前に迷い込み、外へ抜け出す事の適わなくなった夜風の一陣が戸惑うように散っていく。
「さあてと……お楽しみの時間だぜ?」
キリーが右腕を高らかに持ち上げ、呼応するように土塊の使い魔が唸りを上げる。待ってましたと他の三人がじりじりと間合いを詰めて来るのをシェディールが呆れの溜め息で迎えた。
「やれやれ…。とんだ愚か者共だな」
同感である。ガルシアの私兵等が助勢の為に残されたのではないとは、きっと考えもしないのだろう。先ずフィロ達を片付けた後、私兵は恐らくガルシアの先んじての命に従ってキリー等の処分をするに違い無いのに。フィロは出入口を固めるように引き戸の手前付近に陣取る私兵二人へ目を向けた。抜き身の長剣を提げてこそいるが、彼等に直ぐに動く気配が無いのを見て取って視線をキリー達の方へ移す。
破落戸の一人が短剣を振り翳し、手近にいたシェディールに襲い掛かる。意気ばかり盛んな男を冷然と見据え、シェディールは外套の内、腰の後ろに手を遣った。取り出した伸縮式の杖を瞬きの間に引き伸ばし、男の短剣を打ち払う。
いきり立って次々に向かって来る破落戸にシェディールは面倒臭そうに瞳を細めた。さながら達人の扱う棍のように彼女の手の中の杖が閃き、的確に男達の手足を殴打し、武器を取り落とさせてゆく。
「この女…っ!」
慌てて短剣を拾い上げようとするも、眼前に杖の先端を突き付けられて男の動きがぎくりと停止する。それなりに仲間意識があるのか、他の二人が助けに入ろうとするもシェディールに鋭く一睨みされ、男達は気圧されて後退った。
仲間達――それとも手下というべきだろうか――の劣勢にキリーが歯噛みをする。助けの手を乞うようにキリーがガルシアの私兵を見るが、私兵達は手にしていた角灯こそ地面に下ろしたものの鉄の無表情で一歩も動こうとはしない。
打開策を講じて素早く辺りを見回すキリーの視線が一度過ぎ行き、また戻ってフィロを認めた。キリーもその手下達も此方には目もくれないのでこのままシェディールに任せてしまおうかと傍観していたのだが、どうやらそうもいかないらしい。
「おい!これを見ろ!!」
キリーがほとんど吠えるように叫ぶ。同時に地面がフィロを取り囲むように隆起し、輪を描いて盛り上がった土中から土塊の使い魔が飛び出した。この魔物は土中を自在に移動出来るらしい。小山のような身体から触手染みた太い腕を生やし、その腕で使い魔はフィロの首を絡めて締め上げる。
喉元に覆い被さる冷たい土の感触と圧迫感に息が詰まった。フィロは使い魔の腕を引き剥がそうと試みるが、腕は正しくしっかりと固められた土染みて微動だにしない。
「こいつがどうなってもいいのか!?このガキを絞め殺されたくなかったら大人しくしな!!」
お定まりの脅し文句にシェディールが油断無く手下達と私兵を警戒したまま、キリーに一瞥をくれる。シェディールは深呼吸一つの間、鼻息荒く息巻くキリーから顔を背けた。だが手にした杖を一振りすると次いで冷淡な眼差しでキリーを射抜く。
「その程度の脅しで私が怯むとでも思ったのか?」
「脅しだなんてとんでもねえ。俺は本気だぜ」
ぎりり、と使い魔の腕がフィロの首に食い込む。一層強く締め上げられ、フィロは思わず咳き込んだ。手下の男の鳩尾を杖の石突きで突いて昏倒させたシェディールの動きが止まる。だがそれはほんの一瞬の事であり、彼女は隙ありと見て短剣を腰の辺りで構えて突進して来た別の男を躱し様、手の中で杖をくるりと回し、回転の勢いを乗せて逆に男を打ちのめした。強かに打ち据えられて気絶した男がどさりと地面に倒れ伏す。
相手にした者の思わぬ強さに鼻白んだ手下の最後の一人が掠れた声でキリーの名を呼んだ。手下からの救いを求める呼び声にキリーが舌打ちをする。
「…ホントに使えねえ連中だぜ」
キリーが吐き捨てる。苛立ちに幾らかの焦りを滲ませたキリーの瞳がフィロを捉え、残忍に歪む。
「言っておくけどなあ、俺は警告したぜ?恨むんなら、あの女を恨みな」
嗤笑。キリーが使い魔に向かって「おい!」と倉庫中に響き渡るような大音声で命令する。土で出来た使い魔の腕に強く強く力が込められる。
最後に残った蓬髪の男へ杖を振るうシェディールの姿が視界の中心に在った。フィロは頸部を圧迫し潰そうとする苦痛に顔を顰める。潮時か。シェディールが最小の動作で男の振り回す刃物を避け、意識を刈り取る重い一撃を喰らわせた。
シェディールが杖を引く。残心めいたその動きを最後まで見る事は出来そうにない。首を掴む土の腕にぐっと一際大きく力が込められる前触れを感じたのだ。これは折られるな。直感する。だからフィロは、この首を圧し折られる苦痛が届くその前に全てを閉じた。
ぽきり、と。呆気無い、酷く乾いた音がした。
土の腕が離れ、白髪の頭が傾いで頽れる。辺りにはキリーの哄笑が谺する。
「はははっ!!だから言っただろうが。脅しじゃねえってな!」
それ見た事かと勝ち誇るキリーは続けてシェディールを殺せと使い魔に声高に命令を飛ばした。
「その女にあるのは腕っ節だけだ。大したもんじゃねえ。まあ、魔術師だったこのガキも俺に手も足も出ねえでこのザマだけどなあ!」
地に転がり、動かなくなった頭をキリーは爪先で蹴り付ける。
「この俺様を虚仮にすると、こうやって痛い目を見る訳よ。なあ?旦那から聞いてるぜ。あんた、結構な名門に生まれ付いた癖に碌な魔力も持たないんだってなあ。悲しいよなあ?無能も無能、役立たずの穀潰しだ。そんな奴がこの俺に楯突こうなんざあ、ひでえお笑い草だぜ」
土塊の剛腕が鞭のようにしなり、左右から続け様にシェディールを狙う。シェディールは大きく後方へ跳んで回避し、杖を身体の正面に構えた。
「何、才能の不足は努力で補おう」
まるで些事であるかのように口にされた一言。果たしてそれは、どれ程の苦悩の果てに辿り着いた境地であるのだろう。一体どれだけの想いで発せられた言葉であるのだろうか。シェディールの放った短い宣言を耳にしてこの胸に去来したこの感情の名は、同情ではない。これは、畏敬の念だった。
キリーと使い魔。キリーの手下達が倒れた事でそろそろと動き出したガルシアの私兵達。この場にいるそれ等全てを相手取る気構えで尚、シェディールは事も無げに微笑さえ浮かべてみせる。
本当に、強い人だ。もしも此処に自分がいなくても、シェディールの態度は微塵も変わりなどしないのだろう。明確な笑みとなって口許が綻んでいる事も我知らず、独り頷く。夜を渡る冴えた風を纏って靡く仄かに黄み掛かった長い白髪が眼前を、帚星の尾の如く翻った。
天窓を塞いでいた硝子板が割れる硬質な破砕音が鳴り響く。星の光を映してきらきらと輝きながら砕けた硝子の破片が倉庫内へ降り注いだ。驚いて上を見上げた私兵の一人の首筋に、着地した瞬間にはもう其方へと飛び込んでいた沙羅が足を絡めて引き倒す。彼等にとっては謎の闖入者であろう沙羅に突如として攻撃を仕掛けられて、私兵等が冷静さを失くして狼狽する。
「…な、なんだっ!?」
突然の事態に理解が追い付かず、当惑するキリーが悲鳴染みた声を上げた。反射的に逃げ出そうと引いた彼の足首を、首を折られて地に転がっていた〝死体〟が鷲掴みにする。キリーが恐怖に絶叫した。
耳を劈くようなキリーの絶叫が付近一帯の夜の静けさを塗り潰す。流石にこの高さから自力で着地する自信は無く、フィロは沙羅が硝子を割って潜り抜けた天窓を槐の背に取り付いて降りる事にした。
倉庫内に降り立った槐の背から降りたフィロへとシェディールがからかうような声を掛ける。
「随分と派手な登場だな、フィロ」
「態とデハありマせん」
元々見付からぬよう屋根の上に潜んでいたので、引き戸を開けるよりも此方の方が早かったまでだ。フィロの返事にやれやれと小さく肩を竦めたシェディールは、泡を食いつつも応戦しようとする私兵の一人へ目線をついと滑らせて右手の指を、ぱちん、と鳴らした。シェディールの手首で揺れる細身の銀の腕環に飾られた、小指の爪程の大きさの無色透明の水晶が青い光を発する。魔具に込められた術式が発動し、私兵の足下に冷気の霧が現れ、刹那の内にその両足を氷塊に閉じ込めた。
「くっ!」
足を封じられた私兵が慌てふためき、手にした長剣で氷を砕こうとする。引き倒した私兵の意識を奪う術を施す為、一時的に感覚を繋いで直接操作していた沙羅を術式制御に戻し、フィロは指先で印を結んで指示を出した。弩から発射された矢のように飛び出した沙羅が私兵の腹に拳を叩き込む。見掛けは少女であっても沙羅は傀儡である。その細腕から発揮される力は侮れるものではなく、沙羅は私兵を易々と沈黙させた。
たった今殺した筈のフィロがどういう訳かもう一人現れたとして、キリーは激しく動揺していた。己からやや離れた場所に佇むフィロを見、彼の足を掴む首の折れたフィロを見、混乱の形相で使い魔を呼ぶ。
「…ぜ、全員殺せ!殺しちまえっ!!」
土塊の使い魔は取り乱す主人の側でまごまごしていた。だが使い魔の巨体は命令に即座に反応を示した。追い風を受けて走り出す舟のように地面を滑る使い魔の速度はなかなかに驚異的である。足止めに使い魔の意識を其方へ向けようと、フィロはキリーの足下に転がる自身を模した傀儡である眞白を動かす。
むくりと上体を起こした眞白が折れた己の首を片手で掴み取り、フィロとシェディールの方へ滑り寄る使い魔の後頭部と思しき辺りを狙って思い切り投げ付ける。ぼん、とも、ごん、とも聞こえるような少々間の抜けた音がした。頭に頭をぶつけられた使い魔が驚いた様子でのっそりと其方を振り向く。
「一見繊細そうな割に存外雑なところがあるな、お前は」
現状を見てもう必要無いと判断したらしく、シェディールが杖を畳んで腰の後ろに戻す。
「今に始まッタ事でハないデしょう?」
呆れ返った声で言うシェディールに淡々とそう返し、フィロは腰の物入れに手を遣った。取り出したのは四本の長細い針。手首から中指の先までくらいの長さがあるそれをフィロは土塊の使い魔目掛け、その四方を囲むようにして撃ち出した。フィロが両手を軽く打ち鳴らすと、針の刺さった箇所を繋ぐように鬼火めいた蒼い光が奔る。瞬き一つの間も無く形成された光壁が使い魔の周囲四面を塞ぐ檻と化す。
閉じ込められてたじろいだように右往左往する土塊の巨躯を結界の四隅から発生した光の糸が縛り上げ、土塊の内側より小さな生物を絡め取った。大量の土が拠り所を失ったかのように雪崩染みて崩れ落ちる。後に残ったのは光糸に捕らわれた、胴体は細いものの蛸に似た矮躯を持った魔物のみ。魔物は胴体に据えられたぎょろりと丸い二つの目玉を当惑気味に動かして、彼方此方を窺っている。
まごつく使い魔を中央に捉えるフィロの視界の端で、キリーの身体が揺れた。浮き足立ち、この場からの逃走を考えているのが忙しなく泳ぐ視線から明らかだった。当たり前だが逃がしてやるつもりなど皆無だ。
『沙羅』
呟くような呼び掛けに沙羅がキリーの両足を払う。無様にも地面に顔から突っ伏したキリーを沙羅が後ろ手に捻じり上げて拘束する。
「くそっ、放せ!放しやがれっ!」
キリーは必死になって暴れるが沙羅による拘束はびくともしない。ならばとキリーは使い魔に睨むような視線をくれるが、頼みの綱はフィロの封縛結界に捕らえられている。結界の外に出るは疎か土中に逃れる事も、もう出来はしない。
往生際悪くも尚逃れようと足掻き続けるキリーの傍らへシェディールが歩み寄る。その綽然とした歩みを苛立ちと憎悪に染まった顔で睨み付け、キリーが唾を飛ばして喚き散らす。
「畜生、畜生っ。てめえ等、絶対にぶっ殺してやる……っ!」
シェディールの冷徹な瞳がキリーを見下ろし、素気なく細められる。ふざけるな。畜生。ぶっ殺す。程度の低い罵倒を際限無く繰り返すキリーに辟易したらしいシェディールは前髪を横へ掻き、酷薄に嗤った。
「その程度で〝人形遣い〟を名乗るとは片腹痛い。お前はもっと、己の分を弁えるべきだな」
「うるせえ!偉そうに何様のつもりだ、てめえ!?」
「いや、何。ガルシアの口車に乗せられた道化の騙り屋を哀れんでいるだけだ。お前は随分と軽い気持ちであったようだが、世の中には覚悟も無く手出しをするべきではない事があるのだと知っておくべきだったな」
「何をごちゃごちゃ…」
「この期に及んで理解力に乏しい事甚だしいな。つい先程お前が得意げに言っていた事だろう?〝人形遣い〟は危険な輩だ、と。――なあ、フィロ?」
揶揄たっぷりの意地悪いの笑みを目許に湛え、シェディールが静かながらも恫喝めいて言う。場所を空けるように脇へ退く彼女の酷く愉しげな視線を感じながら、フィロは槐を隣に従えてキリーの正面に立った。
「…其処マデ解っテイて、何故騙るノですカ?」
フィロの問いにキリーは唾を吐く事で答えた。キリーの吐き捨てた唾は無理矢理に地に組み伏せられたその体勢故にフィロには届かず、フィロの足下に落ちて乾いた土に小さな染みを穿った。
「………」
激昂に彩られたキリーの顔は、醜悪に淀んだ内面がそのまま映し出されているかのようだった。目を異様なまでに吊り上げて憤怒を露わにするキリー。だが、フィロの心中はキリーのそれを遙かに凌駕する、冷たく凍えるような怒りに満ち満ちていた。
お前如きが。その程度の力量で。命よりも重い、我が誇りを騙るのか。
思考は激憤の余り寧ろ冷静に冷め切っている。フィロが目で促すと傍らの槐が片手にずっと抱えてた肘から手首までくらいの大きさの、目鼻の凹凸も無くただ丸いだけの頭をした簡素な作りの木偶人形を差し出した。フィロは木偶を受け取り、徐にキリーの髪を一本引き抜いた。キリーが大袈裟に痛みを訴えたが黙殺する。
抜き取ったキリーの髪を木偶の首に巻き付け、フィロは指で木偶の頭にキリーの姓名を綴った。フィロの指の跡が赤い光の文字となって浮かび上がる。フィロの行動をキリーは胡散臭げな目付きで見ていた。が、フィロが日常の極自然な動作めいて木偶の片腕を圧し折った瞬間、彼の喉から魂が消し飛ぶかのような凄絶な悲鳴が迸った。
「――ぐがああぁああああっ!?」
腕を折られるのは、身を捩り、のた打ち回りたくなるような激痛であろう。けれども沙羅によって押さえ込まれているキリーには悲鳴を上げる以外に出来る事は無い。僅かにでも痛みを誤魔化す術が無いというのは、さぞや辛い事だろう。憐憫ではなく、客観的な事実としてフィロは思う。其処には無論、同情の想いなどは砂の一粒程すら存在しない。
暫し振り絞るような苦悶に喘いでいたキリーが息も絶え絶えに、恐る恐るフィロを見上げた。何故自分がこのような目に遭うのか。心底解らないという口振りでキリーが訴える。
「…っ、な…なあ?悪かったよ、俺が悪かった。…で…でもよ……魔術師狩りなんて大層な事をやらかそうって考えたのは…俺じゃあねえ。あの、ガルシアって野郎なんだよ…」
さっきまでの威勢は何処へやら。散々見下していた筈のフィロの顔色をキリーはおどおどと窺っている。とにかく自らに責任が無い事を理解してもらい、あわよくば見逃してもらおうという腹積もりであるらしい。何処までも卑劣なその性情にシェディールが軽蔑の失笑を洩らした。
フィロは恐怖に揺らぐキリーの瞳の色を観察し、手の中の木偶を弄んだ。確か、ラークスは片手と片足を折られ、全身に酷い打撲の痕があったのだったか。謂れの無い怨みを買った所為でそれだけの暴行を受け、挙げ句、決して短くはない時間を冷たい夜の底に襤褸切れのように放り出されていたというラークス。本当に不憫だ。フィロはそっと嘆息し、木偶の左足を無造作に折り取った。この木偶は簡単に壊す事が出来るよう元々脆い素材で作ってある。
再度迸る耳を覆いたくなるような絶叫。激痛に悶え苦しむキリーを眉一つ動かさずに見下ろし、フィロは言った。
「黒幕ガ誰かハ問題ジャなイ」
そう。問題はそんな事ではないのだ。フィロの胸中にあるのはキリー等が引き起こした魔術師狩りに対する憤りなどではないのだから、その辺りを勘違いしてもらっては困る。
すう、と深呼吸めいて息を吸い、フィロは呪歌の文句を諳んじるみたいにして滑らかに言葉を紡ぐ。
『傀儡師であるは我が矜持。その技は我が全て。思い上がりと逆恨みしか能の無い愚物がそれを騙るなど笑止千万。少しは恥というものを知るといい』
額に脂汗を浮かべ、口の端から涎を垂らしたキリーが苦痛と戸惑いと恐怖とを綯い交ぜにフィロを見上げていた。シェディールがフィロの言葉を冷笑混じりに訳す。折角だ。シェディールにはそのまま通訳の役割を頼むとしよう。フィロの送った短い一瞥にその意を汲み、シェディールは仕方が無いなとでも言うような吐息を零した。
『騙りには、死を。以て償う他に道は無し』
「……っま、待ってくれよ!し、し…知らなかったんだよ、あんたが本物の〝人形遣い〟だったなんてよ!」
驚きに眼を血走らせ、打って変わった卑屈な口調でキリーが釈明を述べようとする。だがフィロは構わず木偶の首を掴む手に力を込めてみせた。キリーが嗚咽混じりに呻く。許しを請おうとして必死に頭を振るキリーを見据え、フィロは木偶の首を捉える手はそのままに、キリーへ向けて感情の無い声で問う。
『…二度とこんな真似はしないと誓うのなら、命だけは許してもいい』
生を求めて喘ぐ息の下でキリーの瞳が、目前に提示された希望に縋るように輝いた。直ぐ其処に迫る死から逃れたい一心からであろう。キリーは彼に可能な限りの動作で何度も何度も頷いた。ややあって、フィロは木偶の首を放す。
『――次は、無い。肝に銘じておくように』
お前の命は此方の手中に在る。お前如き、いつでも殺す事は可能なのだ。フィロはそう言い聞かせるようにキリーの眼前に彼の名が刻まれた木偶を突き付けた。キリーが細い笛の音に似た息を呑む。
これで、此方が生殺与奪の権を握っている事を思い知らせる事が出来ただろうか。駄目押しにとフィロは木偶の腹を殴ってみせた。鳩尾というよりはほぼ腹部全体だろうが、木偶を通じて与えられた衝撃にキリーが白目を剥いて悶絶する。
沙羅に拘束を解くよう指示しつつフィロは木偶に巻き付けたキリーの髪を外した。次にフィロは記されたキリーの名前を一撫でする。赤い光の文字は判別の付かない淡い燐光となって消えてゆく。
「殺してしまわなくて良かったのか、〝人形遣い〟殿?」
シェディールが尋ねる。
「ソの価値も無イ。そウでショウ?」
フィロとしてはキリーが二度と〝人形遣い〟を騙らなければそれでいい。こういう手合いは一度味を占めると同じ事を繰り返す嫌いがある。だからこそ、あれだけの脅しを掛けておいたのだ。今し方の痛みと恐怖が心に在る限りは恐らく大丈夫だろう。キリーの髪の毛を適当に放り捨てながらのフィロの意見にシェディールが首肯する。
『問題はもう一人の方です。彼をあのままにしておく義理はありませんから』
ガルシア・ルクレール。あの男が怪しい事は出会った時から勘付いていた。フィロには他人の表情や仕草を観察する癖がある。元は傀儡をより人間らしく動かす為の勉強として行っていた事だったが、現在では純粋な習慣となっているものだ。キリーの差し向けた破落戸等との間に割って入って来た時の、あの狙い澄ましたかのような時機。少しでも優位に立とうとするかのように、必要も無いのに態々自身とシェディールの間に縁談があった事まで話して聞かせるような、語られる言葉の端々に見え隠れする彼の本性。あの時からフィロはガルシアが彼の言い分通りではない形で魔術師狩りに深く関わっている事を疑っていた。だから自らを囮にする事を考え、ガルシアと行動を共にするを承諾したのだった。
そして昨夜ガルシアと別れて直ぐの事。フィロは鳥を飛ばして彼の後を追わせた。其処で目にしたものはガルシアとキリー等の密談の光景。直前の判断が妥当であったのを確信するには充分過ぎる証拠であった。
今日の同行に生身ではなく眞白を使ったのは、フィロがガルシアが隠れ蓑に用いている〝人形遣い〟であると悟られない為だ。有事の際に傀儡を呼び出す、あるいは最初から同道させていてはそれと気付かれてしまう。余所から来た事以外には然したる特徴の無い魔術師だと思わせておけば、大して警戒はされないだろうと踏んだのだ。
『頭の回転が早い事だ。フィロはぼうっとしているようで、その実何処まで見透かしているやら判ったものではないからな。全く…ほとほと見掛けを裏切る奴だ。だからガルシアや其処の魔術師崩れのような表層しか見ない者は、ああやって易々と騙される』
『…その言い方では語弊があります。僕が故意に騙している訳ではなく、相手が勝手な思い違いをしているだけなのですから』
言語をフィロに合わせ、だが此方の発音を不得手とするフィロとは異なる流暢な発声でシェディールが揶揄する。底意地悪げに微笑するシェディールを見上げ、フィロは小首を傾げた。
『それは兎も角として…あれだけ早く彼等が食い付いて来たのは、貴女が動いていたから。ですよね、シェディール?』
シェディールは答えず、小さく笑みを零すように息を吐いた。確かな返答が無くともフィロには判っている。酒場の亭主も言っていたではないか。そもそもシェディールは、もう十日以上前から〝仕事〟で王都に来ているのだから。
それで、これからどうするのか。問い掛けを込めたフィロの視線にシェディールは不敵な面構えで応えた。
「これは私の〝仕事〟だからな」
手出しも手助けも無用だと、声音だけで断言する。騙りの首謀であるガルシアに手ずからの制裁を行いたい気持ちが無いと言えば嘘になる。だがフィロに傀儡師としての矜持があるように、シェディールにも自身の務めに抱く矜持がある。
嬉々として〝人形遣い〟を名乗っていたキリーは成敗した。ならば、自分はこの辺りで引き下がる事としよう。
『―――譲りましょう』
フィロは形代として用いた木偶を槐に手渡し、粛々と頭を垂れた。
天井から吊り下げられた、煌びやかな装飾の巨大な室内灯が魔術由来の月光のような白い光を灯している。光に満ちた室内は床や壁そのものがうっすらと発光しているかのようだ。何人もの織り子と幾月幾年の歳月を費やして織り上げられたのだろう絨毯は見渡す限りの面積を持ち、踏み出せば靴裏にその厚みを感じさせた。広間の奥側には背の高い硝子窓が幾つもの扉となって並び、春の花々の色彩豊かな中庭の光景を新月の夜に神秘的に浮かび上がらせていた。
正統魔導師連盟アルマローラの会合は、連盟の長の屋敷で行われるのが通例である。王家に連なる大貴族の館と比較しても遜色の無い広大な屋敷の大広間は大勢の魔導師達で賑わっている。各所に設けられた卓には染み一つ無い純白のクロスが掛けられ、出席者達が談笑しつつ繊細な意匠の硝子の酒杯を傾けている。
華やかな宴の様相を呈する大広間の中央をガルシアは主役然として通り抜け、主立った魔導師等と挨拶を交わす。才知に長け、弁舌も爽やかなガルシアには連盟の重鎮達も一目置いている。当然だという自負と愉悦を胸に抱き、ガルシアは近頃の王国の情勢や貴族の誰某がどうのといった雑談に興じてみせる。同年代の魔導師等の心酔や羨望の視線、あるいはうら若き令嬢達の陶酔の眼差しを一身に集め、しかしガルシアはまるで気付かぬ振りをしてみせ、ルクレール家の御曹司として相応しい物腰で魔導師とはこうあるべきという談義に花を咲かせていた。
暫しして、ガルシアは少し夜風に当たってくるとして席を離れた。長による演説が始まるのはまだ先だろう。高齢の長は近年めっきり足腰が衰えており、魔導師達皆が集まってから大広間に姿を見せるのが常となっているのだ。
硝子窓から中庭へと出ると其処は回廊になっている。矩形に切り抜かれた月の無い夜空が細かな宝石を鏤めた暗幕のように広がっていた。ガルシアは冷たくも心地好い夜風が髪を嬲るに任せ、夜の静寂を吸い込む。
向こうは上手くやっただろうか。都合の良い捨て駒として用いていたキリーは彼の手下含め、どうにも浅はかで愚かな連中だった。手抜かりなど無いようにと此方がどれだけ苦心したところであの連中の軽挙妄動は目に余るものだ。下手をすれば計画に破綻を来し兼ねない。ならばこの辺りでそろそろ処分しておくべきだろうと企み、ガルシアはあの場に私兵を残してきていた。
キリーとは王都の余り品の宜しくない酒場で知り合った。勿論ガルシアはそのような酒場に通っていた訳ではなく、当時主人から命じられていた役目の関わりで情報収集に訪れただけであったが、キリー達は以前からその酒場に屯していたらしい。その時は偶々キリー一人が角の卓に腰を落ち着け、ちびちびと安酒を啜っていた。
ガルシアが何故そのような低次の輩に声を掛けたのか。それは偏に連盟員が引き起こした魔物の逃亡事件に端を発していた。
あれは、彼此一月以上前になるだろう。とある魔導師が使い魔にしようとして異界より喚び出した魔物が逃げ出し、王都の街で暴れ回るという愚かしい事件が発生した。魔導師として優れた実力を持つガルシアはどうして王都に魔物が出るのかという巷の混乱を余所に、早くから事の真相を見抜いていた。どうせ王都に巣くう低俗なる魔術師の仕業だろうと考えていたところだけは事実と違っていたが、事件の概要そのものは大方の推測通りだった。
そんなつまらない事柄に拘らって時を無為にするのは下らない。ガルシアは当初、事態を静観していた。しかし主人であるグラント卿は国内の警吏を束ね、更には王都の安全に尽力する立場に在る。そのグラント卿に魔導師としての能力を買われ、此度の魔物騒動を迅速な解決に導いて欲しいと頼まれれば、ガルシアとて否やは無い。満を持してと勇んで解決に乗り出したのだが、其処へ入ったのが不躾な輩による無礼な横槍だ。
横槍を入れたのは、何処の馬の骨とも知らぬ一介の魔術師。降って湧いたような其奴が逃亡していた魔物を捕捉し、召喚者さえもあっさりと突き止め、たった一日の間に事件を解決してしまったのである。
悔しいというより腹が立って仕方が無かった。魔術師風情が何を出しゃばるのか。あの程度の事件など、このガルシアの手に掛かれば容易に片が付く筈だったのに。付け加えれば、グラント卿がその魔術師を賞賛するような事を言ったのも激しく気に入らなかった。
心を苛むこの恥辱を雪ぐ為に己に出来得る事をガルシアは探した。遺恨を抱えたままではいられなかった。これは誇りの問題だと、内なる声が叫んでいた。けれどもガルシアはその魔術師の身許どころか名前すら知らなかった。ならばと雪辱の方法としてガルシアが考え付いたのが、今回の魔術師狩りであった。
本を糺せば全て、魔術師などという下賤の輩がこの世に存在する事が悪いのだ。ガルシアの憂悶の原因は、高尚なる魔導師である己が愚劣な魔術師風情に出し抜かれたという事実にあるのだから。そうして王都中の魔術師を潰してゆけば、いずれあの分を弁えぬ厚かましい魔術師にも行き着くだろう。雪辱を果たす瞬間の事を思えば苦悩に沈む心も躍った。
取るに足りない存在である魔術師の命など考慮する必要などは無い。とにかく魔術師を排除すれば良いのだけなのだ。行動を起こすに際して〝人形遣い〟の名を使ったのは、それが物珍しさから来るものとはいえ近年広く知られたものであったからだ。加えて、その名を王都で聞かなくなってから半年以上が経つ。其処に再び〝人形遣い〟が現れたとなれば、世間はいやが上にも騒ぎ立てる事だろう。
そして当然の帰結ながら物事はガルシアの思惑通りに運んだ。魔術師狩りは王都を騒がす重大な関心事となっており、いつ自らが標的になるかと恐れ戦き王都を出奔する魔術師も現れ始めていると聞く。難を言えば、どういう訳かシェディール・ディアンに嗅ぎ付けられたのが厄介ではあったが、それも今頃はキリー等共々綺麗に片付いている事だろう。ガルシアはほくそ笑んだ。手駒ならまた探せばいい。ああした使い捨ての連中など、文字通り掃いて捨てる程いるのだから。
月は闇に呑まれ、星は夜空を覆う薄い雲の向こうに儚く瞬いている。直に長がお出ましになる頃だろうか。春の夜気にガルシアは左胸に家紋が刺繍された盛装用のローブの前を掻き合わせ、踵を回らせた。
と。丁寧に刈り込まれた下草を踏む足音がしてガルシアは怪訝に眉を顰めた。自分の他に中庭に出て来ている者はいなかった筈だがと疑問に思って後ろを振り返る。美しい迷路を成す背の高い生け垣が闇に沈んでいる、先程までと変わらぬ風景。だが一つだけ異なるものがあった。緑の壁となった樹影を背景に、今は見えない月明かりを束ねて編んだような金の髪が仄か輝く。
「……奇妙な場所でお会いしますね。このような場所で何をしているですか」
問い掛ける声が僅かながら硬くなっているのが自分でも判る。けれども何食わぬ風を装ってガルシアは尋ねた。問われたシェディールの冷然とした微笑がガルシアの心に幾許かの焦燥を感じさせる。
「先刻の座興の礼を言おうと思ってな。それで――一応訊いてやるが、他に打つ手は用意してあるのか?」
「一体何の話でしょう?」
「しらを切るつもりか?別段構わんが、キリー・ランドルフが全て吐いた事は教えておいてやろう。それでも逃げ切る勝算があるというのなら、やってみるがいい」
ガルシアは思わず舌打ちをしそうになった。射竦めるようなシェディールの双眸は氷の刃めいてガルシアをひたと捉えている。
大丈夫だ。まだ負けた訳ではない。ガルシアは優雅に笑んでみせた。
「どうやら貴女は何か誤解をしているようですね。逃げるも何も、私にそのような事をする理由などありませんよ」
「流石の厚顔だな。お前が魔術師狩りの首謀者である事は最早疑う余地も無い。素直に全てを白状して大人しく裁決の場に出るというのならば、穏便に済ませてやろう」
まあ、あり得ないとは思うがな。そう嫌味たらしく付け足して、シェディールは大広間から届く煌々とした灯りに不快げに顔を顰めた。唾棄すべきものに対する表情もそのままにシェディールの鋭く細められた眼がガルシアを射る。
「話にならないという表情だな?」
「ええ。正直に言って、貴女の言う事は支離滅裂で理解不能です」
動揺などは微塵も無い、冷静そのものの声でガルシアは答えた。平生通りの穏やかな微笑みを目くらましの仮面に変え、素早く思考を巡らせる。
キリー等の処分の他、連中が失敗した時にも備えて私兵を置いてきたというのに仕損じるとは一体何をやっているのか。予定を狂わされ腹立たしくはあるものの、しかし未だ有利なのはガルシアの方である事に変わりはない。仮令シェディールがこの会合の場でガルシアの行いを公言するような暴挙に出たとして、連盟内での人望という点だけで考えてもシェディールには勝ち目などありはしないのだ。両家の家格に大きく差がある訳でもなし、であれば集まった魔導師達はガルシアの味方ばかりである筈だ。シェディールが何を言ったところで信じる者など一握りもいないだろう。
己が導き出した結論に裏打ちされてガルシアは意を強くする。
「私が魔術師狩りの首謀者だなどと口が過ぎますよ。貴女は随分と妄想が逞しいようですが、致し方無い事でしょうか。名門の家系に長子として生まれながら、魔導師となるに足る才を持たない。心中お察しします。そざや辛い事でしょう。その所為で貴女が他者に対して優越を感じようとあらぬ罪を着せるような、心根の歪んだ人間となってしまったのはとても悲しい事ですが」
「何だ。自分の事を言っているのか、ガルシア?」
「……貴女は本当に、不憫な方ですね」
嘲笑に返す嘲笑。皮肉と嫌味の応酬を重ね、夜更けの空気よりも冷たい沈黙が訪れる。
「どうあっても認める気は無い、か。それでこそガルシア・ルクレールといったところか」
「認めるも何も、やってもいない事をやったと言う方がおかしいでしょう」
シェディールは片手を竦め、煩わしげに瞑目した。
「それでは、もう話は終わりで宜しいでしょうか?貴女と違い、何かと忙しい身の上なものでして。直に長の演説も始まるでしょうから」
「ああ。私からの話は終わりだ。お前のような陋劣なる愚昧の徒を相手に言葉と時間を浪費した事には心からの後悔を禁じ得ん。―――が、私は構わずともお前と話がしたいという者が生憎他にいてな。もう少しだけ付き合ってもらうぞ」
「それは、あのフィロとかいう少年の事ですか?」
嘲りに満ちたガルシアの問いにシェディールは嗤うだけで返事は無いが、どうでもよかった。実力の程を確かめる機会こそ無かったが、シェディールなどと馴れ合っているようではあの魔術師の少年もどうせ碌な力量は有していまい。元より愚鈍にして凡庸なる魔術師如きと語る言葉など持ち合わせないガルシアは無視して屋内へ戻ろうとした。
不意に、春の夜とは思えない底冷えのするような風が吹く。身震いするような夜風の流れに釣られて周囲を見回し、ガルシアは不覚にも驚愕に目を剥いてしまった。
今の今まで話をしていた筈のシェディールの姿が忽然と消えていた。入れ替わるようにその場に現れたのは、茶掛かった金髪の、長い前髪を横へ寝かせたような髪型をしたガルシアよりも年嵩の男。
男は――キリーは言う。唇の端から赤い筋を垂らしながら、何処を見ているのかも定かではないような胡乱な眼で。
「…なあ、旦那。まだ報酬をもらってねえぜ。約束だったじゃねえか、あんたの言う通りに動いたら褒美はがっぽりってよお…」
全身に纏わり付くような恨みがましいキリーの声。じわじわと染み出して辺りの空気を浸食するようなその声に足を絡め取られ、ガルシアは身動ぎ一つ出来ずにキリーを凝視した。
キリーは身体中に酷い傷を負っており、至る所から真っ赤な血を滴らせている。一目で助からないと判断出来る有様にも拘わらずキリーは微かな呻きさえ洩らさず、ガルシアに使い捨てにされた恨みを訥々と吐露し続ける。
「ひでえよなあ…。あんたが言ったんだぜ?〝人形遣い〟を騙って王都にいる魔術師を襲え…ってな。だからやった。…俺はよお、あんたのお言い付けに従っただけなのによ。そしたらこの様だ。なあ…どうにかしてくれよ、旦那ぁ…」
土気色の肌。止め処もなく流れ続ける血。だというのにキリーは痛苦に顔を歪めるでもなく、唖然として立ち尽くすガルシアの許へと全身を引き摺りながら迫って来る。
死んだ人間が蘇るなどあり得ない。それは如何なる魔術を以てしても成し得ないとされる神秘の御業であり、魔術に通暁する数多の者達が幾星霜の日々を費やして研究を重ねても、未だに不可能とされる領域の事象である。
死者が生き返る事は決して無い。けれどもキリーの様子は正に動き回る死体といった雰囲気だった。もし何者かがキリーの死体を魔術で操っているのだとしたら、このように意思があるかのように喋りなどしない筈だ。それ等を踏まえれば、差し向かいに対峙するキリーの正体の察しが付く。
「――っ、…幻術か!!」
ガルシアは鋭く吐き捨て、手早く抜き放った腰の剣でキリーへと斬り掛かった。刃に有りっ丈の力と破幻の術式を乗せて。だが。
「…なっ!?」
肉を斬り裂き、骨にまで刃の食い込む重い手応えがあった。鮮血を撒き散らしながらキリーの身体が傾いで崩れる。
下草の緑を深紅に染めてゆく血溜まり。振り下ろした剣の一撃で漸く事切れたかのように動かないキリー。ガルシアは周章して、思わず剣を取り落とした。
幻術だ。幻術に違いないのだ。これは死者を用いた操り人形でもなければ、所謂幽霊の類でも無い。恐らくはシェディールの仕業だろう。あの女には初歩の魔術を行使するだけの魔力すら無いが、魔具を用いればそれも可能となる。術式と共に魔力まで充填されている物を使えばいい。だが、しかし。ならば何故、キリーは倒れたまま消えないのか。
鼻腔に絡み付くような血の臭いに吐き気を催しながら、まるで自分が斬り殺したようになったキリーの側へとガルシアは恐る恐る近付く。虚空を覗き込んでいたキリーの死んで濁った瞳が突如、ぎょろりと此方を見た。
ガルシアは絶叫して剣を拾い、二度、三度と全力でキリーの胸に突き立てた。鋼鉄の刃を振り下ろす度にキリーの身体が衝撃に跳ね、血飛沫が飛び、肉を断つ感触が、骨を削る振動が、ガルシアの知覚を侵した。
お前も此方へ来いとでも言うつもりか、手招くように差し伸べられたキリーの腕が力を失って血溜まりに落ちる。ガルシアは激しく肩を上下させ、酷く重くなった剣を杖のように地面に突いた。
「――あーあ。殺しちまったなあ、魔法使いの兄さんよう」
新たな声にガルシアは戦慄し、下ろそうとしていた剣を握り直した。
「こりゃまたむごい殺し方したもんだなあ」
「仕方がねえよ。オレ達の事なんか利用するだけ利用して後はサヨナラ、ってな」
「アンタの誘いに乗り気だったのはキリーの野郎で、となると俺等はとんだ巻き添えって奴じゃねえか」
下卑た哄笑が巻き起こり、ガルシアを取り残して周囲が沸く。キリーの仲間である男達だった。
「虫も殺さないような振りしてよお、あんた、俺達よかよっぽど悪人じゃねえか。なあ?根性が汚ねぇよ、根性が」
蓬髪の男の言に男達の間からどっと笑い声を上がる。彼等は腹を抱えて一斉にガルシアを指差した。ガルシアは指の骨が軋む程に強く強く剣の柄を握り締める。
「………そうか。纏めて殺して欲しいという事だな――!!」
ガルシアの双眸が恐怖と狂気に爛々と光る。見せ掛けばかりの穏やかな笑みや慇懃な口調を保つだけの理性は、この異様な出来事を前にして消し飛んでいた。
ガルシアは力任せに剣を振り回し、笑い転げる男達を片っ端から斬って斬って斬り払った。次第に重くなってゆく両腕に蹌踉めく剣が虚空を切って獣染みた唸りを上げる。
「おのれ、蛆虫にも等しい輩がっ!下賤の身の分際でこの私に協力出来た事をこそ誉れに思え!」
悲鳴を上げて生け垣の葉が、花壇の花が舞い散る。逃げる男の一人の肩口を掠めた切っ先が回廊の敷石を削って耳障りな音を奏でた。だがガルシアは剣を握る手に伝わる痺れさえ気にせずに男達を追い回す。
「魔術師共め!愚物は愚物らしく引っ込んでいればいいものを、大きな顔をして人の手柄を横取りにするとは不届きな。だから狩られるのだと身を以て知るがいい。この私が思い知らせてくれる。お前達もだ、卑しい詐欺師風情が!お前達など生かしておくだけの価値も無い。この私自らが手に掛けてやるというのだから、有難く、死ね――っ!!」
がぁん、と。叩き割るような勢いで剣が敷石に打ち付けられ、刃が毀れる。ガルシアの目には頭を搗ち割られ、血と脳漿を飛び散らせながら頽れる蓬髪の男の姿が視えていた。けれども、たった今彼が殺してやった男の死体は夢幻のように、その場から掻き消えてしまう。
やっと大人しくなったか。ガルシアは額に手を当てて高笑いした。それ見た事か。この世にこの私に逆らえる者など存在する筈が無いのだ。
ガルシアは知らなかった。焦慮と恐慌に駆られた殺戮の最中、それに気付く余裕などは存在しなかった。
いつの間にか、大広間の硝子窓が一つ残らず開け放たれていた。窓枠の向こうでは暴れ回るガルシアの怒声に集まって来たらしき会合の出席者達が慄然と、そうでない者は物見高く、様子を窺っていた。騒ぎを聞き付けたのか、それとも誰かが注進に行ったのか。ひそひそと囁き交わす人集りの中には杖を突いた長の姿もある。
狂乱したガルシアの口走る言葉の一部始終を聞いていた一同の気不味げな視線が突き刺さる。長が痛ましげな顔をして、厳粛にガルシアの名を呼んだ。
長の声にガルシアは我に返り、中庭の惨状と回廊付近に集まった人々を見た。死体などは何処にも無い。血痕の一つさえも見当たらない中庭には、ただガルシアが剣を取って暴れた形跡が無惨に荒れた生け垣と花壇、敷石の傷に残るのみ。
問い質すような少しの間が在り、彼の正気を確かめるように長がもう一度「ガルシア」と呼び掛けてくる。途端、常軌を逸したような可笑しさが込み上げ、ガルシアは高らかに笑い出した。
ほら。やはり幻術だったではないか。いつだって正しいのは自分であるのだ。これは、誰にも枉げる事の出来ない自明の理なのだ。
ガルシアは笑った。気が触れたかの如く声高に、喉が掠れる程長々と。笑い続ける彼を集まった皆は狂人を見るような眼で見ていたが、不思議な事にガルシアにはそれが少しも気にならなかった。
*
「――こんなところか」
本を閉じる音が生け垣の迷路の一隅にそっと響く。重なり合う葉が作り上げた高い壁を幾つも挟んだ向こう側で、ガルシアの狂笑めいた声が遠ざかってゆく。
「…連盟ノ人間に任セておイテ大丈夫デスか?」
状況の偵察役として回廊の屋根上に止まらせてあった鳥型の傀儡を呼び戻しながらの疑問。間を置かずして闇夜を戻って来た傀儡を受け留めたフィロへ、シェディールは問題無いと頷いた。
「あれだけの衆人環視の中で己の行いを自白したのだ。幾らルクレール家が連盟のお偉方とて、完全に握り潰す事など不可能だ」
更に言えば、連盟には派閥もある。これを好機とルクレールと反目し合う家々が口を極めてガルシアへの厳罰を訴える事だろう。どれだけ低く見積もってみても手緩い決着となる筈が無い。
「オ疲れ様デした」
口では労いの言葉を掛けつつ此方に目もくれないフィロが傀儡を送還する。フィロはガルシアへの処置に幾分の不満を抱いているようだ。傀儡師としての誇りを他に代え難い、何よりも大切なものとして胸奥に抱いているのがこの少年だ。始末をシェディールの手に委ねたとはいえ、あの程度では報復として納得いかないのは仕方が無い事か。
心做し唇を尖らせているようなフィロの横顔を見つめ、シェディールは小さく忍び笑いを洩らす。何を笑っているのかと人形めいた無表情が問い掛けてくるが、素知らぬ顔をしてシェディールは手にした本の表紙に目を落とした。
胡桃色の布装幀の表紙を懐かしむように撫で、再度開く。本の前書きにはかなり読み難い癖字でこう記されている。
―――親愛なる異端の狩人へ捧ぐ。我が術を汝が狩りに役立てよ。
この本は〝幻術師〟と呼ばれ恐れられた稀代の魔術師クレイ・マーカムの形見だ。彼の幻術の粋を詰め込んだ魔具であり、昨秋老衰で亡くなったクレイがシェディールに遺してくれた大切な品である。
思い返せばシェディールが亡き祖父から連盟の〝異端狩り〟の役を引き継いで初めての仕事が、クレイを異端として〝狩る〟事であった。
連盟の思想に反する者。仇なす者。連盟に属しながらもその名を汚す行いをする者。それ等を秘密裏に始末するのが〝異端狩り〟の務め。だがシェディールの祖父は〝異端狩り〟としての本来の在り方とは異なる遣り方で任務を遂行していた。
祖父は堕ちた連盟の身勝手な言い分で才と実力ある魔術師の命を奪うを嫌悪していた。だからこそ祖父は連盟に異端の烙印を押された魔術師等と密かに繋ぎを付け、連盟を欺いて余所へと逃がすという手段を講じたのだった。無論、連盟の目を盗んでの行為である。露見すれば自身もただでは済まないが、それでも祖父は生涯己の流儀を貫き通した。
〝異端狩り〟の後継とは連盟の意思ではなく、狩人本人の意向によって決まる。お前ならば、上手くやるだろう。あの日掛けられた祖父からの言葉は今もシェディールの耳に、心に焼き付いている。他人にどう思われるかではなく、自らの誇りを汚す事無い行いを心掛けていた気高い祖父を、シェディールは尊敬していた。後継として指名された際は祖父に認められた事を喜ぶ気持ちは勿論あったが、それ以上に期待に添えるよう心血を注ぐ事を誓う想いの方が格段に強かった。
クレイの件も、他の魔術師の件も、シェディールは祖父より受け継いだ自身もそう在るべきと信じる〝異端狩り〟としての在り方を守り通した。もう、一年は前になるだろうか。フィロの時もそうだった。〝人形遣い〟の名が広く知れ渡るにつれ、連盟はそれを疎んじ、その存在を抹殺しようと考えた。だからシェディールはその役割が後二人いる他の〝異端狩り〟ではなく自分に回って来たのを幸いと、それまでの狩りと同じく〝人形遣い〟を始末したように偽り、連盟の目が届かない場所へと逃れさせたのだった。
灯台下暗しと王都に程近い、自身も住まうクラレントの街を隠れ場所に選んだのは単に都合が良かった事と、シェディールがフィロの用いる異国の技に興味を持ったからである。それがこうして親しく付き合う切っ掛けとなるとは、縁とは不思議なものだ。
近くで顔を合わせ言葉を交わすのは実に十数日振りになるだろうか。とはいえフィロは普段と変わらずの無言と無表情である。少々恋人甲斐が無いのではなかろうか、などと半ば以上は冗談ではあるが多少なりとも思わないではない。だが、そうした感情を抱いていてくれたとしても「逢えなくて寂しかった」などとは口が裂けても言わないのがフィロらしさである。シェディールとしても、もしもフィロがそのような事を口走ったならば正直、熱でもあるのかとを疑う事だろう。
閉じ直した本を片手に、恋人としての目から見るとまだ少々不本意げな様子のフィロの頭をシェディールは空いている手で、ぽん、と一つ叩いた。此方を見上げるフィロの緑青の瞳が不機嫌に瞬きをする。恐らく苦情の類を言う為にフィロが口を開き掛けるが、その瞬間、シェディールには見慣れた風変わりな衣装に包まれた華奢な肩がぴくりと動いた。脇へ流れたフィロの視線を追ってシェディールもまた其方へ目を向ける。丁度、生け垣の陰から一人の娘が辺りを窺うように顔を出したところだった。
下ろしたままの清らかな光の滝染みた金の髪を夜風に編ませ、凛とした雰囲気を持ちながらも愛らしい面差しを娘は微かに顰める。
「…さっきの騒動、やっぱりお姉様の仕業だったのね。近くにいるとしたらこの辺りだろうと思ったけど、読みが当たっても余り嬉しくはないわね」
大きな溜め息をついて言う妹にシェディールは薄く笑った。
「どうした、アリエット。会合はもう終わったのか?」
謝るでも宥めるない姉の笑みにアリエットは組んだままの腕を指先でとんとんと叩きながら渋い表情を作る。
「というより、続く訳が無いわね。ガルシア・ルクレールの狂態を目の当たりにして皆、戦々恐々としているもの」
「興味津々の間違いだろう?」
「……そういうところよね、お姉様の評判が良くない訳は」
アリエットは疲れたように頭を振った。世間では長子のシェディールではなく三つ下の妹であるアリエットが家督を継いだ事を面白可笑しく取り沙汰しているようだが、実際には姉妹間の仲は至って良好なのである。シェディールとしてはディアン家の当主として連盟の連中と面倒な人付き合いをしていかなければならない妹を可哀想に思っているくらいだ。とはいえ、仮令アリエットが涙ながらに変わって欲しいと頼んできても、断固として拒否するが。
指摘して直る訳でも無し、今更姉の性格について論じても詮無い事とアリエットは憮然として顔を逸らした。途中、シェディールのものと同じ空色の瞳がふと姉の傍らに立つフィロを認め、邪気の無い好奇と喜色を滲ませる。
「――貴方がフィロ?初めまして。アリエット・ディアンと申します。愚姉が常々ご迷惑をお掛けしているでしょう?いつ見切りを付けて下さっても構いませんから」
「…いエ」
「フィロ。その返答だと私が常日頃お前に迷惑を掛けているように聞こえるぞ」
「あら、そうじゃないの?だってお姉様だもの」
当たり前でしょうとアリエットがつんと澄まして外方を向く。フィロは姉妹の遣り取りを常態である無表情で見ているだけで、間違ってもシェディールを擁護するつもりなど無いのが態度で丸分かりだった。どうせ、似た者姉妹だな、とでも考えているのだろう。幾ら心情が顔に出ない質だといってもシェディールの眼は誤魔化せない。
初めて会った姉の恋人に俄然興味を引かれた様子の妹にシェディールは苦笑した。妹の相手を無言一辺倒のフィロに任せ、遠く屋敷の彼方に思いを巡らす。
ともあれ、魔術師狩りなる事件は落着した。これでラークスの身の安全も図れただろう。他の三件に比べてラークスの一件だけ襲撃の程度が妙に執拗であり、シェディールは其処に怨恨の影を見た。それ故にラークス宅一帯に幻術を張り巡らせ、家人等限られた者以外に訪ねる者を惑わせて辿り着けないようにし、あの善良な薬師を襲った者が万が一にも止めなど刺せないようにしておいたのだ。後にルチカからの依頼でやって来たというフィロの傀儡に幻惑を突破されたのは悔しいが、もっとこの魔具に込められた幻術の扱いを学ぼうと志す良い機会になったと思えば悪くはない。
「御国はどのような所なの?貴方が扱うものも含めてどういった魔術が主流なのかしら?そもそもお姉様なんかの何処に惹かれるような要素があったの?」
アリエットからの怒濤の質問責めに遭い、だがその全て受け流すように適当な相槌のみを続けるフィロ。聞き捨てならない質問が一つあったように思ったがシェディールは見逃してやる事にした。隙を見て、前のめり気味の妹と直立不動のフィロの間に割って入るように声を掛ける。
「私はそろそろ行くぞ。長殿への報告もある」
魔術師狩りとして世間を騒がす者が〝人形遣い〟を名乗っているとの噂の波は連盟にまで及んでいた。だからこそ過去に密命を帯びて〝人形遣い〟を始末した筈のシェディールが呼び出されたのだ。かつて任を請け負った〝異端狩り〟が始末に失敗していたのではないかと疑う異端審議会の言い分を長から聞かされ、長を相手に平然と嘘をつき通し、ならばと真相を探る務めを与えられて現在に至るのだが、さて長殿は何処までを察しておられるやら。いつも通り、ぼかすべきところはぼかした上手い報告を考えなければなるまい。俗物共を束ねる立場にあり、自身も損得勘定ばかりが得意な人間ではあるが、あの老爺は慧眼の持ち主だ。伊達に連盟の長の座に在る訳ではないという事なのだろう。
耳を澄ませてみれば、屋敷の騒ぎもすっかり静かになったようだ。良い頃合いだろう。シェディールは屋敷の裏手に隠されている内密の出入口へと歩き出す。二、三歩進んだところでそうだと思い立ち、シェディールはフィロを振り返って尋ねた。
「今夜はもう遅い。私の方は報告が終わり次第ディアンの屋敷に戻るが、どうする。お前も来るか?」
何故かアリエットが目を輝かせたが、フィロはと言えば素っ気なくも直ぐ様首を横に振る。
「イいエ。宿を取っテあリマすから」
取り付く島も無い口調で言下に断りを入れ、フィロは辞去を告げる意を表して小さく頭を下げた。序でのような口調でフィロが例の空き倉庫の方にも警吏と衛士がやって来たと告げる。様子見に彼方に残してきた槐から報告が入ったのだろう。キリー等はフィロの縛の術を掛けて転がしてある。犯行に使われた凶器の一種という扱いで例の使い魔の方もシェディールがアリエットに頼んで用意してあった魔物の拘束に用いる縄で、身動きが取れないよう雁字搦めにしておいた。これまたフィロが鳥を使ってグラント卿の館へ名指しでお出ましを願う密告の手紙を放り込んだので、なあなあで終わる事は無いだろう。グラント卿は謹厳実直にして高潔な大人物である。取り調べの中で家付き魔導師のガルシアの名が出たとしても、決して裁断に手を抜いたりなどはするまい。あの御仁ならば寧ろ、ガルシアが身内の者だからこそ厳しく沙汰を下す筈だろう。
シェディールは頷き、「では、明朝。ルチカの所で」と待ち合わせの確認をした。フィロがこくりと頷きを返す。ぞろりとした異郷の衣を翻して生け垣の奥の闇にフィロの小柄な体躯が消えるのを見送り、アリエットが言った。
「…彼、随分と変わった子ね。変人は変人同士――という事かしら?」
それまでの燥ぎ様が嘘のような落ち着き振りでアリエットは片手を頬に当てた。私、あの子をお義兄様って呼ぶ事になるのかしら。難しい顔をして呟く妹にシェディールはそっと笑いを噛み殺す。
「あれでなかなか判り易いところもある。からかうと存外面白いぞ?」
常日頃から愛想も可愛げも無いが、かといって構って面白くない訳ではない。
「……そういう事ばかりしていていつか捨てられても知らないわよ。お姉様」
完全なる呆れの色に染まったアリエットの長嘆。シェディールは口煩く可愛い妹の諫言を背中で聞き流す。星明かりの闇を駆ける清冽な夜風がアリエットの溜め息の切れ端を浚い、吹き抜けて行った。