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翌、日中。礼拝や説教の終わったであろう頃合いを見計らって訪れたエレンディアの聖堂で。何故犯人が〝人形遣い〟を名乗っていると先に教えなかったのだと問い質すフィロに、ルチカは明後日の方向を見てこう言った。
「だって、お人形ちゃんってば、その辺りの事になると人が変わったみたいに厳しくなるんだもん」
多少ばつが悪げなルチカは後ろ手に両手を組み、空々しくもフィロに背を向けて数歩の距離を取る。その様に幾分非難の気持ちを込めてフィロは思った。まるで安全圏へと逃れるみたいだ、と。
ルチカが「んー…」と額に人差し指を当てる悩む仕草をし、上半身ごと頭を傾げ、数拍。くるりと向き直って再びフィロの顔を見たルチカは此方が拍子抜けするような、あっけらかんとした笑顔に変わっていた。
「そもそも、ボクが妙な事を言って、下手な先入観とか持たせない方がいいでしょ?調査に影響が出ちゃうと困るしね。それに、ほら。お人形ちゃんならどうせ自分でその情報に辿り着くと思ってさ。実際そうなったんだから、何も問題無いんじゃない?」
「………」
「あ、でも謝ってはおくね。ごめんね、お人形ちゃん」
一理あるので言い返せずにいるところへの、畳み掛けるような謝罪の台詞。当の謝罪に一欠片の誠意も感じられなかったとはいえ、こうなると正にぐうの音も出ない。
ルチカも一筋縄ではいかない男だ。伊達にあのシェディールが親友として何年もの付き合いを続けている訳ではないという事か。裏で密かに〝魔術師使い〟と渾名される彼の器量の片鱗を見たような気分だった。
尤もルチカにはその他にもう隠し事は無いらしかった。嫌に晴れ晴れとした笑みを顔一杯に湛え、ルチカは肩の荷が下りたかのようにご機嫌だ。折角だから昼食でも一緒にどうかとの誘いをフィロは依怙地に断り、宿へと引き返した。
昨深夜、共に魔術師狩りの調査を行おうと約束をしたもののガルシアは連盟の中でもそれなりの地位にいるらしく、彼の仕事の都合で探索事は夕刻からという事になっていた。
落ち合う予定の時刻までを無為に潰していた訳ではないが、その多くをフィロは宿の一室で過ごした。当ても無く王都を彷徨くよりも、少ないながらも手持ちの情報を整理しつつ夕の訪れを待つ方が有意義だと判断したからだ。
フィロは思索に耽りながらも、重傷のラークスの様子を確認する為に鳥を模した傀儡を飛ばした。接続した視界が傀儡が窓から飛び立つのに併せて空へと翔る。上空から見下ろす王都は徒歩で見るのとはまた一味変わった目まぐるしさに溢れていた。大通りを行き交う人々や馬車。小さな広場を威風堂々と闊歩して行った衛士等が通行人のいない路地裏へと差し掛り、俄に威厳を捨て去って仲間内での雑談に興じ始める様子。風に乗って運ばれる誰かの楽しげな笑い声が、傀儡を介してフィロの聴覚に届いた。
王都を取り囲む二重の城壁。その内側の高い石壁が近くなり、壁の向こうに広がる、広狭様々ながらも庭としての敷地までを有した大きな屋敷ばかりが在る貴族街が見えてくる。
フィロはほとんど無意識に傀儡を貴族街の方向へと飛ばしていた。ルチカに一応尋ねておいた、シェディールの生家があるという方角を目指して。
ふと。春風駘蕩とは言い難い、上空を吹く強い風の唸り声がフィロを引き留めるかのように耳朶を打った。一体何をしているのだ、自分は。我に返ると己の行動が酷く莫迦莫迦しく思え、フィロは雑念を振り払おうと頭を振る。
会ってどうするつもりだ。昨夜の彼女の様子を思い出せ。無言で路地に消えて行った臙脂の外套の裾が記憶の中で翻る。何も言わないという事は、あの場で言うべき事は何も無いという事だろう。少なくとも、フィロの知るシェディールとはそういう人だ。
らしくもなく余計な思考に絡め捕られ、やるべき事が疎かになっている事を自嘲する。フィロは意識して気持ちを切り替え、気付かれぬようラークスの家へと傀儡を近付けた。
換気に開けられた窓からそっと覗いたラークスは身体中包帯だらけの痛々しい姿で床に臥し、昏々と眠っていた。彼の横たわる寝台の傍らに跪いた妻女が心痛の面持ちで、労るように夫の手を握っている。
フィロは小さな溜め息と共に視覚と聴覚の接続を切り、傀儡を引き返させた。暫しして手許に戻った傀儡を抱え、ただ時が経つまでをぼんやりと過ごす。そうして約束の刻限が近付いた。胸の奥で痼るような私的な心情は全て排し、フィロは部屋を出る。
暮れゆく空は茜の色に染まっている。オーロールの国教の一つに数えられるエレンディア聖教を始めとした、王都中の教会という教会が随所で打ち鳴らす晩鐘の歌が厳かに世界を震わせていた。
フィロはガルシアとの待ち合わせ場所である中央大広場の隅でつくねんと立っている。
偶々今日は市の立つ日であったようで、晩鐘の鳴る時刻を迎えても大広場は平生以上の賑わいに包まれていた。日頃から常設されている軽食等の屋台店の他、近隣の街や村からやって来た行商達が所狭しと露店を開いており、売り口上の声が未だひっきりなしに聞こえてくる。
丁度フィロの目線が行き着く先で、土汚れの付いた野良着姿の農夫達がほくほく顔で空っぽになった木箱や笊を荷車に積んでいた。地場で穫れた野菜等を持って来たようだが、売り切れになって店仕舞いをしている中途であるらしい。何とは無しに辺りを見渡せば、他にも所々で露店の片付けを始めている者達がいた。
大勢の人々で活気づく大広場の光景は至って平和そのものだった。王都でどのような事件が起こっていても、自らに降り掛かりさえしなければ所詮他人事。噂話に恐れはしても、現実的な問題として捉える事などしないのだろう。尤も、そういった事件の一つ一つに怯えていてはとても生活などしていけないという事もあるのだろうが。
それでも此処でガルシアを待つ間、魔術師襲撃に関する話題が広場を行き交う者達の口の端にちらほらと上っているのは耳にした。面白半分、興味はあるらしい。だが流石に有益な噂などは聞こえてはこなかった。
貴族街へと通じる、大きく開かれた内壁の門扉の向こう側を見遣ってフィロは其処にガルシアの姿を探す。どうやら待ち人はまだ現れないようだ。
いつしか晩鐘も鳴り止み、その余韻が長く尾を引いて黄昏の空に溶けてゆく。直に暗くなるだろう。暇を持て余しているフィロは見るとも無しに夕空を見上げ、霞むように棚引く雲の行方を眺めた。
日暮れにも衰えを知らぬような雑踏の喧噪に交じり、規則正しい靴音が石畳に一定の拍子を刻んで近付いて来るのにふと気付く。目を遣ればガルシアが此方に歩いて来るところだった。
「お待たせしました。では、行きましょうか?」
穏和に笑んでガルシアが言う。フィロが頷くとガルシアは颯爽と歩き出した。大広場を抜けるまでに何人かの通行人と程近くで擦れ違ったが、擦れ違う娘達は皆、見栄えのする容貌をしたガルシアを振り返ってはうっとりと頬を染めた。当のガルシアは他者からそのような憧れの眼差しで見られる事に慣れているようだ。うら若い少女達からの視線などはあって無いようなものなのか、気にも留めない様子である。
これから向かう先はラークスが発見された現場である、とある路地の袋小路だ。これはガルシアからの提案だった。ラークスが襲われた時から日が経っているとはいえ、彼処は最も新しい犯行の場だ。一人では何の痕跡も見付けられずとも、二人掛かりで入念に調べてみれば新たに気付く事もあるかも知れない。目的地を定めるに当たってガルシアはそのように説明した。彼がそう言うのであればフィロには特に異存は無い。
ガルシアの先導で人影も疎らになった通りを行き、幾つかの路地を経由する。現場はラークスの家からは離れている上、普段から人通りなど全く無いような場所であった。その所為もあって倒れている彼の発見は遅れてしまったらしい。
次第に斜陽の光も弱まり、極淡い薄紫と燃えるような橙色とが遙か彼方にまで続く階調を描き出す空が帳となって頭上を覆い尽くす。夜の訪れを触れ回るかのように、風には肌寒いような冷たさが混じり始めた。
裏道めいた路地へと入ってもガルシアの歩みに躊躇いは感じられない。その確たる歩みは彼の自信の表れなのだろう。堂々と先を行くガルシアと彼の後ろにを黙って付いて行くフィロという二人連れは、傍目には名高い貴族の子息とその従者にでも見えるかも知れない。実際には、このような並びになって歩いているのは単純に道幅の細い路地を行くのに都合が良いというだけの事なのだが。
慣れぬ者ならば直ぐに迷ってしまいそうな入り組んだ小道を行く間、ガルシアは色々と話題を振ってはフィロとの会話を試みてきた。外国人だと聞いたが、どのような国からやって来たのか。魔術を学んだのはオーロールに来てからの事なのか。シェディールとは一体どのようにして知り合ったのか。全ての話にフィロは適当な相槌を打つだけで済ませた。偶に肩越しに振り返ってはフィロに返答を促す素振りを見せていたガルシアだが、フィロが芳しくない反応を繰り返す為に興が醒めたようだ。ガルシアは小さく頭を振り、後は口を噤んで足を動かす事だけに意識を向けたらしかった。
静まり返った路地に響くのは二人分の足音と、徐々に冷たさを増す風の音だけ。互いに黙して歩き続け、それまでの長い一本道から四つ辻へと出る。と、突然ガルシアが立ち止まった。
「ドうかシましタか?」
フィロが尋ねるとガルシアは戸惑い気味に口籠もった。右手側に延びる道へ視線を遣り、呼吸二つ分程の間考え込むような態度を取り、顔だけをフィロの方に向けて言う。
「フィロ。申し訳ありませんが先に行って頂けますか。つい先程、彼方に人影が見えたような気がして…少々確認する時間が欲しいのです」
フィロに話し掛ける際にはガルシアは穏やかな微笑を絶やなさかったのだが、今は厳しく表情を引き締めていた。緊迫感さえ漂わせる深緑の瞳が強い光を帯び、道の先を睨むように見据える。
「…はイ。解りマシた」
「有難うございます。――では」
ガルシアはローブの合わせ目を掴み、改めて羽織り直すみたいにして大きく跳ね上げた。早足で歩み去るガルシアの背が纏う空気は奇妙に決然としている。
フィロは四つ辻の中央に進み出て、揺れる桔梗の色を見送った。ガルシアの言う人影は彼の後方にいたフィロには見えなかったが、さて、どのような人影だったのか。
自分の足下に延びる影に視線を落とし、だが直ぐに顔を上げてフィロもまた、正面に続く道へと歩を進める事にした。
影はまるでガルシアをからかうかの如くするりと裏路地の先へ滑り込む。後を追ってガルシアが同じ角を曲がってもその姿は見当たらず、ただ、此方へと来いと誘っているかのような外套の端だけが次の曲がり角へと消えて行くのみだ。
逃げ水を追い掛けているかのようだった。少しずつ募ってゆく苛立ちにガルシアは微かに歯噛みをした。
駄目だ。これでは相手の思う壺ではないか。冷静になれ。進行方向を睨み据えながらもガルシアは平静を保とうと意識する。
もう何度目の曲がり角になるだろうか。半ば駆け足になって飛び込んだ夕映えの小道の中程に立つ、金と臙脂の色合いが目を刺した。ガルシアは咄嗟に速度を落とし、時経て欠けたままにされている疎らな石畳に数歩分の空足を踏む。此処まで追っては来たものの、それまで恰も幻であるかのように追い付く事すら出来なかったというのに。先へ先へと消えて行った者がいざ目前に現れた事で、ガルシアは一抹の当惑を覚えた。
ガルシアが思わずたじろいでしまった一瞬の隙を衝くように、彼女の纏う臙脂の外套が旗印めいて翻る。振り返ったその面はガルシアを嘲るような微笑に彩られていた。
「――…シェディール・ディアン。此処で、何をしているのです?」
問う。さも意味ありげに此方を窺うような姿を見せ、のらりくらりと逃げるようにしながらガルシアをこの路地へと誘い込んだ、その理由を。ほとんど詰問するような口調になっていたが、シェディールは意に介する風も無く皮肉げに眼を眇めた。
「それは此方が訊きたいものだな、ガルシア・ルクレール?」
「質問しているのは此方ですよ。本当に、貴女は相変わらずのようですね」
ガルシアはきつくなってしまった先の口調を反省し、今度はやんわりと言った。「お久し振りです」と挨拶の言葉を添えてガルシアは笑んでみせたが、対するシェディールは彼を小莫迦にするように小さく鼻を鳴らすだけだ。
こつ、こつ、とシェディールは長靴の靴音を路地に響かせる。シェディールは間合いを詰めるかのようにガルシアの手前までやって来ると、空色の双眸に蔑みの感情を露わにして冷笑する。
女性としてはかなり長身の部類に入るシェディールはガルシアにも引けを取らない背丈をしており、こうして目の前に立たれると目線の高さが大体同じくらいになる。それ故より間近で睨み合うような恰好になり、ガルシアは負けじとしてただでさえ姿勢正しい背筋を更に伸ばした。
「私の方は魔術師達ばかりを標的にした襲撃事件について調べているだけですよ。恐らくは街の噂等で貴女もご存知でしょう?」
「ああ。よく知っている」
「それは良かった。説明の手間が省けます。その件に関してですが、犯人の行方が全く掴めない事で主のグラント卿が酷くお心を痛めておられまして。ですがグラント卿はお忙しい身の上ですし、私の方で自主的に調査を進めているという訳です」
ルクレール一族は昔から代々、オーロール王国の名門大貴族グラント家の顧問魔導師を務めている。勿論、一族の中でガルシアのみがグラント卿に仕えているという訳ではないが、時に主の手足となり、その悩みを解決する手助けをするのが顧問魔導師たる者の務めだ。
ガルシアは魔導師としての誇りと自負に胸を張った。その働きへの賞賛の証に主人から賜った、宝飾品としての側面を兼ねた腰の剣の鞘に指で触れる。そうすると誇らしさで心が満たされるようだった。シェディールはというと僅かに眉根を寄せて思案顔をしたが、直ぐに思い出したという風に一人頷いて口を開いた。
「そう言えば、お前の主人は国の警吏を束ねる立場の人間だったか。主人に恵まれて幸いだな、ガルシア。お陰で好き放題、他人の悪行に関する裏話が仕入れられる」
声に含まれた紛れもない嘲弄。投げ付けられた罵詈にガルシアは気分を害したが、シェディールの発言に一々目くじらを立てていては話が進まないだろう。ガルシアは言い返したいのをぐっと堪え、敢えて柔らかな笑みを浮かべた。
「私が何をしているのかはお答えしました。さあ、次は貴女が答える番ですよ」
初めにした質問の答えを促してガルシアは右手を軽く差し出した。
「お前が答えたら私も答える。そんな約束をした覚えは無いが?」
シェディールは憎らしい程平然とした調子で言って退け、頬に掛かった鬢を指先で払い除ける。ガルシアは悟った。何が目的でガルシアをこの路地へ誘い込んだのかは解らないが、此方の問い掛けに答えるつもりなどシェディールには端から微塵も無いのだ。
永きに渡り連盟に籍を置く名門同士。幼い頃から折に触れて顔を合わせる機会があったが故に、このシェディールという女の性根の曲がり具合についてはガルシアも熟知している。ガルシアとの縁談が持ち上がった時だってそうだった。両家の親達の間で話し合いが行われている場にシェディール自身が出し抜けに現れ、それを拒否したらしいのだ。それも、かなり一方的に話を断る形で。ガルシアとてシェディールとの婚姻など全く望んでなどいなかったが、だからといってそのように切って捨てるみたく話を断れられた事には業腹だった。
幾ら家柄及び血統が良くてもシェディールのような人間にはルクレール家との縁組みなど、身に過ぎた良縁であったというのに。それを無下に断り、剰え今も尚ガルシアに対してこのような謂れの無い軽侮の態度で接するなどという事が罷り通るのか。否、とガルシアは憤然とした。
シェディールは目線こそガルシアに向けてはいるが、酷くつまらなげに瞳を細めている。ガルシアはどうにか微笑を保っていたが、ともすれば募り続ける苛立ちに頬が引き攣ってしまいそうだった。これではいけない。気を取り直すように瞼を閉じ、一拍。再び開け、ガルシアは笑みを浮かべ直した。
「―――そうだ。フィロという名の貴女の恋人であるという少年が、私と共に事件の調査をしてくれているのですが」
先刻――いや、昨夜あの場にシェディールがいたらしいのをフィロが見掛けたと言っていたので、彼女は恐らくこの事を知っているだろう。最初の質問の答えを引き出せないかと鎌を掛けるようなつもりでガルシアは曖昧に言葉尻を濁す。ガルシアの口からフィロの名が出た所為なのか、一瞬シェディールの眼光が鋭くなった。しかしシェディールは飽くまで沈黙を貫く気であるようだ。ならばもう一押しとガルシアは言葉を継ぐ。
「どうやら貴女とは異なり、とても素直な少年であるように見受けます。貴女の許可を頂かねばならない事ではないとは思いますが、調査に当たって私に協力して頂いても構いませんね?」
語尾に静かに力を込め、ガルシアは問うた。瞬間、肌を刺す程に冷たい通り風が吹き抜けて彼我の外套とローブを共々に嬲った。同じ風の名残にシェディールの長い三つ編みが吹き流しの如く靡いて肩から前へと零れる。シェディールは三つ編みを背へと雑に払うとガルシアを真正面から見据え、
「好きにしろ」
と応じて、嗤った。凄まじいまでに不敵なその笑みは、言外に「出来るものならばそうしてみろ」とガルシアを嘲笑うかのようであった。
「だが、一つだけ忠告しておいてやろう。あれを甘く見ると痛い目に遭うのはお前の方だぞ?あれはお前如きが手に負えるような柔な人間ではないからな」
唖然とするガルシアを後目に、言いたい事は言い終えたとシェディールが歩き出す。ガルシアの事など路傍の小石程度にも目に入らないような悠揚迫らぬ態度で。王侯貴族も斯くやとばかりに臙脂の外套を緩やかにはためかせて。
擦れ違い、遠ざかって行く長靴の響き。靴音は次第に小さくなっていき、やがて完全に聞こえなくなった。シェディールが立ち去り、ガルシアは路地の直中に取り残された。だから、ローブの陰で逆手に剣の柄を握り締めたその手に関節が白くなる程の力が込められている事に、誰一人として気付く者はいなかった。
こういう展開は昨夜に続いて二度目だな。フィロは路地の袋小路を背にし、眼前に立ち並んだ男女の一団を見渡した。
年の頃は皆、二十歳前後であろうと思われる。彼等は仕立ての良い豪奢な衣装に身を包み、その上に一目で高級品と判るようなローブを羽織っている。各々の造作こそ違えど驕奢な生活に溺れて暮らしているのが推測される苦労知らずの面立ちに、鋳型に嵌めたような性悪な含み笑いが浮かんでいる。
見るからに貴人であると身形で訴え掛けているような人間が、このような何も無い路地裏の袋小路に何用だろうか。フィロは内心で首を捻った。三方を囲む塀が煉瓦造りではなく、表面の風化も著しい古い石壁だという事くらいしかこの場に目新しい物は無い。此処は暫く前に魔術師のラークスが瀕死の重傷を負った現場ではあるが、野次馬には些か時が経ち過ぎているのではなかろうか。
心中の雄弁はともかく表面上は彼等をじっと見つめるだけのフィロを前に、青年達は目配せをして互いに笑い交わした。集団の真ん中にいた、黄金色の長髪を首の後ろで一つに括った青年がすっと胸を反り返らせ、尊大に一歩進み出る。
「おい。こんな所で何をしている?」
権高な問い掛けは明らかな尋問の響きを孕んでいた。それは此方の台詞でもあるのだが、と思いはしたがフィロは口を噤んでいる事を選んだ。
偉そうな青年が威張って肩を聳やかす。ユーディス、と傍らにいた飴色の巻き毛の女が青年を窘めるように囁くが、その実面白がって本気で制止する気が無いのが口振りに表れていた。
ユーディスと呼ばれたこの青年がどうやら一団の中心格であるらしい。見れば、周りの者達は彼の一挙一動に注目しており、いつでも彼の言動に賛同出来るよう備えているように思えた。だが他の者も取り巻き然としてはいても、それぞれこの状況を見世物めいて楽しんでいるらしい事が此方を見る目付きから窺える。
「妙な恰好をしているが、お前は魔術師だろ?仄かに魔力の気配がするぞ」
ユーディスのその言葉を皮切りに、周りの者が口々に囃し立てる。
「ねえ、知っていて?此処は今流行りの魔術師狩りがあった場所なのよ」
「こんな時間にこんな所で一人でいるなんて、如何にも怪しいわよねえ。そんな恐ろしい出来事があった場所になんて、普通、用も無く出掛けて来ないでしょう?」
「案外、こいつがその魔術師狩りの犯人だったりしてな。ほとぼりが冷めたような頃を狙って、残してしまった証拠を始末しに来たとか」
「おいおい。幾らなんでもマヌケすぎやしないか?流石にありえないだろ。なあ、ユーディス」
「いや、そうとは言い切れないぞ。――おい、お前。僕達は連盟に名を連ねる由緒正しい魔導師だ。もしもお前が犯人だと言うなら、徒に王都を騒がせた罪で我々が処罰してやる」
まるで鳥が喧しく鳴き騒いでいるようだ。面倒さ故にフィロは侮蔑に塗れた言葉の数々を顔色一つ変えずに聞き流した。
一同が声を立てて笑い合う中、此方を見下すユーディスの眼と、無感動に其方を見つめるフィロの視線が交わる。莫迦莫迦し過ぎて相手をする気にもなれなかった。本当に面倒な事この上無い。嫌気が差してフィロはユーディスから顔を背けた。
ユーディスが嗜虐的な愉悦を口許に刻み、片手を軽く挙げて皆の笑い声を止める。ユーディスは左肩を突き出すようにしてフィロの方へと更に踏み出し、にやりと両眼を細めた。
薄明の残光はいつしか儚く掻き消え、宵闇がその衣を広げて王都の街並みを包み込んでゆく。路地の奥、袋小路の暗闇に落ちる沈黙。そんな無言の緊張を孕んだ空気を、思い掛けず涼やかに徹る声が揺るがせた。
「――高名なる連盟の魔導師殿が雁首揃え、このようなうら寂しい路地の片隅で何をしている?今宵は新月。アルマローラの月に一度の会合がある夜ではなかったか?」
ユーディス等が弾かれたように後ろを振り返る。予期せぬ人物の登場にフィロは驚いて僅かに目を見開いた。空色の瞳が一瞬だけフィロを見、次いでユーディス達を睥睨する。
「それとも、会合に列席するよりも余程有意義な事でも?一見、子供一人を集団で取り囲んで威圧的に詰め寄っている風にしか見えないが」
子供、の部分をフィロにだけ判るよう然り気無く強調して言い、シェディールは小道の方から袋小路へ足を踏み入れた。果たして何処で見聞きしていたのか。やはり昨夜の、酒場からの帰りにあった一連の出来事辺りだろうか。散々子供扱いされてフィロが不服に思っていたのを見抜かれていたらしい。解っているのならば態々そんな風に強調するのは止めてもらいたい。たった今、心の中に湧いた不満を込めてフィロはシェディールを見つめた。彼女は睨まれていると察したようではあったが、一笑するだけで取り合いもしない。
魔導師達は突如現れたシェディールにぎょっとし、気を呑まれたように固まった。だが相手が誰であるかを見て取ると俄に優位を確信した嘲笑を浮かべ、または隣にいる者と何事か囁き交わす。
仲間達の間を割るように通り抜けたユーディスが傲然と顎を突き出した。
「これはこれは。誰かと思えばディアン家の御長女シェディール殿じゃないか。何年か前に王都を出て行ったと噂に聞いていたが、これは全く素晴らしい偶然だ。なあ、皆?」
芝居掛かって両腕を広げながら周りを見渡すユーディスに、女達がくすくすと忍び笑いを洩らす。その反応にユーディスは満足げに小鼻を蠢かせて次なる言葉を口にする。
「ディアンの家督は妹御が継いだんだったな。それで、王都にはどういった用件で訪れたんだ?此処にはもう、お前のような者の居場所は無い筈だろう?それを理解したからこそ、自ら都を出て行ったんだとばかり思っていたよ」
ユーディスを含めた男達が耳障りな高笑いをし、女達がさも上品げに口許を手で覆いながらころころと笑い転げる。シェディールに向けられた彼等のこの態度の理由にフィロは心当たりがあったが、よくもまあ己を棚上げにしてこうも笑っていられるものだと思う。こうした連中ばかりであるから、アルマローラの魔導師には碌な人間がいないという印象になるのだ。
シェディールが助け船めいた言葉など望んでいないのは理解しているのでフィロは彼女の事を忍び見るだけに止めた。仮に此処でフィロが反論に出たとしても、ユーディス等には届かないどころか、発音の不明瞭さが彼等の物笑いの種になるだけだろう。彼等に敢えてそんなものを提供してやる義理は無い。
一頻りの笑い声が収まるのを待って、シェディールが事も無げに言った。それだけで彼女がユーディス達など愚にも付かない連中だと思っているのが推察出来る。
「何、王都でしか幅を利かせる事の出来ない各々方と一緒にしないで頂きたい。私は居場所を欲して王都を出た訳ではないのだからな。…しかし、何年振りの邂逅だろうか。最後にご尊顔を拝した折から少しの進歩も無く、相も変わらず蒙昧なる皆様方との無意味極まりない談話で時を浪費するのは忍びない。願わくば、早々に屋敷に戻られ、各々方に相応しき会合とは名ばかりの愚劣なる宴の支度をされるといいだろう」
慇懃に並べ立てられる幾多の軽蔑の語句を聞き、巻き毛の女が頬にさっと朱を散らす。
「な…く、口を慎みなさい、ディアン!これ以上の侮辱はこの私が許さないわ。しかも貴女、崇高なる連盟の会合をそのように言うなんて――!!」
「失敬、ロクセリア殿。だが私は正直な性分なのでな。故に生憎、貴殿等に捧げる美辞麗句に持ち合わせが無い。会合についても同様。私の眼から見たままを言ったまでだ」
「貴女という人は……っ!」
怒りに噛み締めた歯を剥き出しにしたロクセリアが小刻みに肩を震わせる。ロクセリアを庇うかのようにユーディスが彼女を脇へ押し退け、シェディールの真正面に立った。ユーディスは罵倒の台詞を探すかのように視線を巡らし、思い付いた様子で得意げに腕組みをした。
止せばいいのに。フィロは呆れ返って、ふんぞり返ったようになっているユーディスの背中を見た。彼は自分がシェディールに口喧嘩で勝てるとでも思っているのだろうか。同じく連盟に名を連ねる家系のようであるし、シェディールがしおらしく言い負かされるような性格ではない事くらい知っている筈だろうに。いや、そもそも口喧嘩でなくとも勝ち目など無いだろうとフィロは思い直した。やはり、止せばいいのに。
フィロが最早哀れみめいた心持ちでいる事など露知らず、ユーディスは勝利を宣言するみたいに高らかに言い放った。
「はん!お前みたいなのが血筋に名を連ねているなんて、先祖代々多くの宮廷魔導師を輩出してきたディアンの家名が泣いているんじゃないか?」
「血統を何代重ねてもただの一人も宮仕えの人間を輩出出来ていないバルセルの御当主の口からそのようなご心配を頂くとは、大変痛み入る」
透かさず返した言葉の終わりに、シェディールは態とらしく一礼してみせた。片足を軽く引き、左手を胸に、伸ばした右腕を水平に上げて腰を屈めた礼の姿勢を取ったシェディールが僅かに顔を上げ、冷笑する。その動作は白々しくも、思わずフィロが見惚れる程に優雅なものだった。
「…このっ、お前なんて、能無しのクズの癖にっ!!」
「……能無しの屑、か。面白い事を言う。その言葉、そっくりそのまま返してやろう」
呟くように静かに言ったシェディールが長い足を一歩、前へと踏み出す。ユーディスを筆頭に気圧された一同がシェディールの踏み出した距離の分だけ、靴底で白茶けた地面を擦って後方へ下がった。
「己の地位を守る為なら阿諛追従も辞さず、貴族諸侯の顧問とは名ばかりに愚にも付かない政権争いや恋占いに精を出し、何が魔〝導〟師だ?貴様等如きが導く者を名乗るなど笑止千万」
本来は柔らかな色合いをしている筈のシェディールの瞳の空色。しかしユーディス達を睨み据えるその双眸は鋭く、淡い空の青さえ凍り付くような鋭利な冷たさを宿している。さながらそれは気高い獣の眼であるようにフィロには思えた。仲間も無くただの一頭であろうとも、満身創痍であろうとも。其処に戦うべき敵がいる限り、臆する事も逃げ出す事も無く立ち向かう、誇り高い獣の眼。
「かといって、魔術師を名乗るのも厚かましいがな。少なくとも彼等は魔術を使う。貴様等のように愚かしい権謀術数を張り巡らせてばかりで魔術の魔の字も忘れたような連中とは根本から違っている。彼等も同一視などされたくはないだろう」
「…っの、言わせておけば!!」
気色ばんでユーディスが叫び、シェディールに向かって右腕を突き出した。掌に喚起された魔力が集まってゆく。
一触即発の域を疾うに越えた状況にも拘わらずシェディールは涼しい顔をしていた。いつの間にかフィロはすっかり蚊帳の外に置かれている。ユーディス等の注意が全てシェディールに注がれているので、自分はこのまま手出しをしない方がいいのだろう、とフィロは目交ぜでシェディールに尋ねた。無論、個人的な感情としてはユーディス等の言動に思うところが無い訳ではない。けれども、フィロの手による報復をシェディールが求める事など無いのは判り切っていた。
フィロからの視線に気付き、シェディールが仄かな微笑を浮かべる。微笑は直ぐにユーディスへの嘲りへと色を変えた。
「構築が遅い。これが実戦だったら魔術の発動を待たずして終わっているな」
シェディールの煽るような物言いに目一杯に吊り上げられたユーディスの瞳が怒りに燃えた。彼の掌の中央で収束した魔力が光刃を成す。ユーディスが攻撃の為の魔術を完成させ、いざシェディールへと投じようとした、その瞬間、
「きゃあああああ!?」
ロクセリアともう一人の女の甲高い悲鳴が場の空気を切り裂いた。背後からの悲鳴に驚いたユーディスが飛び上がるようにして女達の方を振り向き、同時に発動寸前だった彼の魔術が霧散する。驚いた拍子に集中が乱れて途切れたようだ。
フィロは袋小路の奥にいた為にそれの出現がよく見えた。不意の出来事だった。ユーディスとは別種の魔力の気配を感じた直後、フィロの前方、シェディールの方を向いた魔導師達の一団の最後尾にいた女達の真後ろの地面が突然波打ち出したのだ。
「な、何だこれ!?」
「うわあっ!?」
情けない声を上げる男達が石塀に背を擦り付けるようにして、蠢く地面から逃げようとする。きゃあきゃあと騒ぎながらロクセリアがすっかり及び腰になっているユーディスにしがみ付いた。もう一方の女も近くいた仲間の男の腕に縋って真っ青な顔をしている。
間も無く、ぼこっ、と沸騰する湯の表面に似た様子で地面が大きく膨れ上がった。盛り上がった土の塊をシェディールが鋭く睨み据える脇を、到頭堰が切れたかのように恐怖に満ちた悲鳴を喉の奥から迸らせた魔導師達が駆け抜けて行く。
動く土塊は逃げ出す魔導師達には目もくれず、ずるりと全身を巡らせてフィロの事を見た。見た、と判ったのは此方を向いた土塊に眼窩のような落ち窪んだ二つの穴があった事と、暗い沼底から獲物を窺うかのようなねっとりとした視線を感じたからだ。
ずずっ、と全身を引き摺って、土塊が此方へ近付いて来る。小山を成す白茶けた土の中心に魔物の気配が在った。魔物とは本来この世とは別の世界に棲息するモノだ。種々の要因によってこの世に顕現する事はあるが、幾ら寂しい裏路地の一角とはいえ仮にも王都の中に、突如として魔物が出現するとは考え難い。となれば、これは誰ぞの使い魔だろう。フィロは鈍重に迫り来る、見上げる程に大きな土塊を仰視した。
土塊が声にならない、腹の底に響くような音で咆哮する。視界一杯に覆い被さるように広がった土の緞帳をフィロは他人事みたいに眺めていた。呑まれる。そう思ったその時、横合いからいきなり手首を掴まれる感触がした。
「フィロ!」
いつの間にか此方へ飛び込んで来ていたシェディールがフィロの手首を取っていた。触れられた箇所から彼女の掌の冷たい温もりが伝わってくる。
逃げ場を奪うかのように土塊の使い魔が道幅一杯に広がり、フィロ達の退路を断つ。石塀を乗り越えるという手段もあるかも知れないが、そうするには時が足りなかった。頭上には夜を迎える空よりも暗い影が差し、フィロ達を土で出来た体内に呑み込もうとしている。
フィロは傍らに立つシェディールを見上げた。こんな風に彼女まで巻き込んでしまったのは申し訳無い。だが、謝罪も弁解も今は置いておこう。目線を土塊に戻し、フィロはこれから起こるだろう事に備えた。
「―――全く…。お前には、どうもそういうところがあるな」
掴んだままのフィロの腕に視線を落とし、シェディールは自嘲めいて苦笑する。声音に窺える呆れの色はどうやら彼女自身に向けてのものらしい。残念ながら返答を返す暇はもう無いようだった。土砂降りの雨にも似た、大量の土が降り注ぐ轟音が聴覚を埋め尽くし、視界が闇に閉ざされる。後にはただ、猛烈な、乾いた土の匂いだけがしていた。