3
人を訪ねるのであれば陽の高い時刻がいい。フィロはルチカに教えられた魔術師ラークスの家を目指していた。
重傷を負ったというラークスの家は、庶民等の暮らす市街と貴族街を隔てる内壁の程近く、王都の中央大広場の北東の方角にあるという話だ。色味の異なる三種の煉瓦組みに草色に塗られた漆喰の壁、灰色っぽい石屋根の一軒家だと聞いている。細かい配色こそ種々あるとはいえ王都には大体よくある感じの家屋だが、庭には小さな畑があり、其処で薬草を育てているのでそれが目印になるだろうとルチカが言っていた。
背の高い家屋に挟まれて日陰になった路地を進み、幾つかの角を折れ曲がる。商店の多い場所ならばともかく、こう似たような外観の家ばかりだと同じ所をぐるぐると回っているような錯覚に陥りそうになるが、フィロの歩みに迷いは無い。道に迷っているようでは王都での仕事は熟せないからだ。殊に生国にいた頃と同様、世間一般には後ろ暗いと言われるような仕事を主に受けていたフィロにとって、人気に乏しい路地の裏道は大切な通り道の一つだ。時に仕事場にもなり得るそういった場所に関しての知識は所謂〝真っ当〟に生きている王都生まれ王都育ちの人間よりも詳しい自信がある。
民家の煉瓦塀の上で昼寝をしている猫を横目に影の落ちる小道を抜ける。道の先からは打ち寄せる細波めいて華やいだ喧噪が流れてくる。この小道は中央大広場への抜け道なのだ。
開けた視界に柔らかくも眩しい真昼の陽射しが降り注ぐ。陽春に沸く人々の賑わいは騒がしく、麗らかな空気は活気に満ちていた。
石畳に靴音を高く鳴らして駆け回る子供達。広場の真ん中にある噴水の縁石に腰掛けた老婆とその孫らしき幼い少女が笑い合い、袋に入った菓子を頬張る。広場の外周には所々に軽食や菓子を売る屋台が点在し、行き交う者の食欲をそそるような匂いをさせて客の気を引いていた。雑踏の響きに旅芸人が奏でる軽快な楽の音が混じる様はさながら祭りのようである。
王都で最も大きな広場であるこの場所はいつだってこうした華やかさに溢れている。今更物珍しくもなく、また珍しく思ったとしても、心躍らせ目を輝かせる質でもない。フィロは賑わしい光景には目もくれず、目的地へ向かって広場を突っ切った。
東側にある街門へと王都を貫く大通りを暫し歩き、途中で道を左手に折れる。僅かに細くなった道を一定の歩調を崩さぬままフィロは歩き続けた。
やがて見えた、並び建つ民家に紛れて小さなパン屋がある三叉路を右へ。其処から更に脇道へ入って歩いて行けば、直にラークスの家がある区画へと辿り着く筈だ。
内壁の際とまではいかないが奥まった場所、というルチカの言に当たりを付け、民家の壁や敷地を囲む煉瓦塀の間を縫うように通る、どうにか人と人が擦れ違える程度の細い道を行く。時刻はそろそろ昼食時のようで、付近の家の窓から漂う煮炊きをする匂いが風に混じり始めていた。そんな昼食の支度をする匂いに紛れて仄か、何処からか青草染みた爽やかな香りがする。
ラークスの家には薬草畑がある。恐らくはその香りだろう。フィロは風の香を嗅いで匂いの強くなる方角へと爪先を向けた。
ふわりと心地好い春風が頬を撫でて駆け去って行く。フィロは思わず瞳を瞬かせた。
何故か、パン屋のある通りに戻って来てしまっていた。一体何処で道を間違えたのだろう。匂いだけを頼りにラークスの家を見付けようとしたのが失敗だったか。
薬草の香りだと思って辿っていたものを、途中で香辛料入りのパンを焼く匂いと取り違えていたのかも知れない。我ながら間抜けな事だ。フィロは一つ瞬きをして再度脇道へと入り込む。
歩く。今度はうっかり道を逸れないよう注意した。先にも見掛けた庭先に沢山の洗濯物がはためく家の角を曲がり、薬草の香りだけに集中して道を選ばないよう心掛けて進む。
見上げれば内壁の威容が間近に迫っている。内壁の先は貴族等の住まう地区であり、一般庶民は立ち入りを禁じられてこそいないものの、敷居が高く感じられるのか、仕事という様子でもないのにふらりと行き来する街人を見る事は皆無に近い。
内壁の上部、永の年月に因る風化で端々が所々丸みを帯びている胸壁をフィロは数えた。フィロが今いる位置の正面辺りにある胸壁は、内壁の門扉がある場所から右側へ三つ目の位置にある。うろ覚えではあるが、先程道を間違えた際にも今と同じような場所を通った気がする。
左右を確認し、通りに戻る方角ではない方へと角を折れる。一度間違えたのだから今度は重々気を付けて道を選んだつもりだった。
「……」
焼き上がったばかりらしいパンの香ばしい香りが鼻に付く。
脇の小道から出て来たフィロの事など気にも留めず、通行人が数歩前をのんびりと通り過ぎた。お使いに来たらしい子供がパン屋に駆け込んで行って元気良く声を張り上げる。
目前に広がるのは、既に二度も後にした筈の通り。幾ら何でもこれはおかしい。通りから遠ざかるように道を進んで、何故何度も此処へ戻って来てしまうのか。
フィロは傍目には気付かないくらい微かに眼を細め、元来た道へ引き返した。
意識的に同じ道筋を辿りながら空気の中に薬草の香気を探す。――見付けた。ラークスの家は多分、此処からそう遠くはないのだろう。この辺りまではきっと正しい。
フィロは通行人のいない小道の直中で足を止めた。精神を研ぎ澄ますように息を吸い、ぱん、と大きく一つ、両の掌を打ち合わせる。同時に石畳の上に円を描いて白い光が奔り、フィロの足下にこの大陸の人間には複雑な図形にしか見えないらしい故国の文字を組み合わせた陣が現れる。
柏手めいた音の余韻が波紋となって空間を震わす。陣の中心で光が収束し、直後反転して、放射状に音も無く炸裂した。陣を形作っていた文字が淡く溶けるように消え失せ、その場に一人の――一体の傀儡が出現する。此方へ渡ってから学んだ、所謂召喚術の応用だ。
射于玉の黒髪を吹き抜けた風に揺らし、槐が辺りを見回す。フィロは槐の視界に自らの視覚を同調させた。槐を先行させて東側へと続く例の曲がり角へ歩を進める。僅か十歩程度先に、それは在った。
真っ直ぐ先へと延びる道と右手側へと折れる道とが交わる箇所。その曲がり角の辺りに、刻み付けられた魔術の術式が視える。フィロの視界には映らず、並行して脳裏に展開される槐の視界にのみ浮かび上がる術式。を調べてみると、やはり幻術の類であった。
フィロの眼には小道がただ単調に続いているだけにしか視えないが、槐の視界では道なりに進んだ先にはルチカの言っていた特徴通りの家が視える。この路地を抜けようとする者は知らぬ間に仕込まれた幻術に惑わされ、手前の角を曲がって通りの方へ向かうよう誘導されているらしい。
誰が、何の為に。フィロの胸裏で疑念が頭を擡げる。
フィロは呪術師としての修行の一環として幻惑に抗する耐性のようなものを身に付けている。その自分がこうも容易く惑わされ、更には惑わされている事にすら直ぐには気付かないとは。
刻まれた術式の側で槐に片膝を折らせ、構成を注視する。此方の魔術に関するフィロの知識は豊かとはいえないが、それでもこの幻術の術構成がかなり高度なものである事は理解出来た。故に、逆に解らなくなる。
これ程の幻惑を果たして誰が施したのか。しかも、ラークスの家に向かうのを阻むかの如くに。
ラークス本人は魔法薬を調合する薬師であると聞いていた。その素顔を知る周囲の者達からはルチカは軽佻浮薄な人物だと思われがちであるらしいが、フィロから見た彼の言動は常に一貫しており、決して嘘は吐かない人間だと確信している。仮にラークスが自身の身の安全の為にこの幻術を仕掛けているのだとしたら、ラークスと繋がりがあるルチカはそれを知っている筈だ。その上でフィロに黙っている理由がルチカにあるとは思えない。
高度な幻術。惑わされている者が、その術中にある事にさえ気付かないような。
術者に心当たりが無いではなかった。閃くように脳裏に浮かんだのは、冷たく輝く金の色。しかし、何故。もしも一連の魔術師襲撃事件が通り魔的な犯行であるならば尚更だ。
心当たりが正解であるとしたら、当然厄介な事になる。だが現段階では、今一つ己の思考に自信が持てない。情報が足りな過ぎる。
とにかく、ラークス本人から話を聞いてみるしかないだろう。口を利けるくらい彼の容態が良く、素直に証言をしてくれればの話ではあるが。
佇むフィロに薬草の香を纏った向かい風が緩く吹き付ける。ラークスの家を見据える無感動な瞳の奥で様々な思考を巡らせつつ、フィロは槐を道の先へと向かわせた。
陽は疾うに西の彼方に沈み行き、辺りが夜の帳に包み込まれた頃。フィロは一人、裏路地を歩いていた。
ラークスの家を訪ねると彼本人は床にあり、代わりに彼の妻だという女が応対に出た。妻女はフィロ――正確には槐のみであるのだが――の訪れに非常に驚いた顔をしていた。それが幻術を潜り抜けて来た者に対する驚きであったのかどうかは判然としなかった。彼女の様子は何処となく不安げで、おずおずと、やたらと前掛けを弄る仕草が目立った。
訪れた目的やルチカからの依頼で行動している事を筆談で告げると、妻女は僅かにほっとした風に眉尻を下げた。けれども妻女の話からはめぼしい情報は得られず、薬を飲んで寝ているとかで残念ながらラークス本人に話を聞く事も出来なかった。
仕方が無いのでラークスの家を出た後、彼や他の魔術師等が襲われたという現場も回ってみた。だがその当時から大分時間が経ってしまっている所為で魔力の残滓等はフィロには感じ取れず、手掛かりになりそうな事柄は生憎一つも見出せなかった。
なのでフィロはこうして今、目抜き通りから大きく外れた人っ子一人いないような裏路地を歩いている。
民家は皆此方に背を向けるようにして建ち、路地の其処彼処から滲み出して辺りを浸食してゆくような冷たい夜闇に煤けた白壁を晒している。路地は夜の訪れと共に全てが寝静まってしまったかのような静寂に呑み込まれ、民家の窓から時折洩れる淡く幽かな灯りは却って周辺の闇を深くしていた。
小柄なフィロであっても猫と擦れ違うの精一杯だろうという、狭い道。その道幅が半歩分程広がった辺りでフィロは立ち止まった。
然して間口の広くないその店の看板は単なる正方形の一枚板で、其処には何も記されてはいない。軒の角灯に冥土の道標染みてぽつんと小さな青い炎が灯されており、角灯の周囲を飛び回る数匹の羽虫の影が壁面を幻灯めいて舞い踊る。微かながらに付近に漂う酒精の匂いが、無記名の看板を掲げるこの店が酒場である事を示していた。
振りの客を拒むかの如くぴたりと閉ざされた扉をフィロは躊躇無く押し開ける。扉は、ぎいぃ、と重く軋む音を立てて店内に新たな来客を知らせた。
間口の狭さに反して奥行きのある店の中は随分と広く感じられる。向かって左奥の一角を占拠する厨房を囲んで作られたカウンターと、ゆったりと間隔を取って配置された円い卓。幾つかの円卓は先客で埋まっているが、店内は酒場と言われて一般に想像するような喧噪とは程遠い静けさを湛えている。しんと静まり返った店をフィロは構わず奥へ進み、誰も座っていない止まり木の中程に腰掛けた。カウンターの向こうでは、柿渋色の髪を短く刈り込んだ壮年の亭主がどっしりと構えるみたいにして立っている。
ちらちらと好奇の、あるいは多少の畏怖を含んだ視線が此方に投げ掛けられる中、我関せずといった風に亭主が目顔で注文を尋ねてくる。亭主はいつだって自身の役割に忠実だ。彼が己の仕事に誇りを持ち、また真摯であろうと心掛けているのはその仕事振りを見ていれば自ずと判る。酒が飲めない事は無いが今はそうした気分ではないので、フィロは酒精抜きで適当な飲み物を頼んだ。
間も無くしてフィロの前になみなみと紅茶の注がれた茶碗が差し出される。立ち上る湯気の温もりが、歩き詰めの身体にほっと一息つかせてくれるようだった。
フィロは出された紅茶を一口啜る。紅茶の風味に続いて、ほんのりとした砂糖の甘味が舌に広がる。温かな液体が喉を通り、空の胃の腑に染み渡った。
「――で、依頼目当てか?シバ」
寡黙な亭主が言葉少なに問い掛ける。名前の無いこの店は実は、知られていないが為に常人はほぼ訪れない、魔術師達が集う隠れた酒場なのだった。求めれば亭主が仕事の斡旋もしてくれるので、余所からやって来た人間や駆け出しの魔術師にとって重宝する場所でもある。だが今夜は仕事が欲しくて顔を出したのではない。フィロは小さく首を振った。
「情報を。昨今王都デ起こっテイる、魔術師狩りにツいテ」
「あれか。悪いが大した情報は無いぞ」
「構イませン」
フィロが頷くと亭主は双眸鋭く、厳めしく口を開いた。しかしながら本人が先に述べたように事件に関する情報そのものは余り無く、聞き得た事柄の大半はルチカから聞いた話に多少の補足を加えた程度のものであった。
亭主が持つ優れた情報網を頼ろうとして久し振りに此処を訪れてみたが、さて無駄足だったか。紅茶の水面に溜め息めいた吐息を吹き掛け、フィロは未だ香りの良い湯気を立てる茶碗に口を付けた。勘の鋭い亭主はフィロが胸中に納めた考えを察したらしく、気難しげな太い眉と眉を不機嫌そうに寄せ、ふん、と鼻を鳴らした。
「期待外れで悪かったな」
謝罪というよりも嫌味のように亭主が言い捨てる。まるでフィロへの不快を表しているように思えるが、客の要望に満足のゆく答えを返せなかった自分への腹立ち紛れなのだ。眉間に深く皺を刻み込んだ亭主は手近にあった硝子製の水呑みを手に取ると、手慰みのように磨き布で拭き始める。
「調べてるのは、ベルフォートの坊主の依頼でか?」
多くの魔術師と手を組むルチカは、当たり前だがその筋では有名な人間だ。フィロが王都に出て来た時分からそれなりに付き合いのある亭主はフィロが個人的な興味等で一連の事件を調べている訳ではなく、恐らくはルチカからの依頼で行動しているのだろうと見抜いたらしい。別段隠さなければならない事でもないので、フィロはあっさりと頷いた。
「……連盟の〝異端狩り〟が動いているらしい。精々気を付けろ」
亭主の言葉にフィロは一瞬だけ茶碗を持ち上げる手を止めた。
〝異端狩り〟。アルマローラの思想に反する者を狩る、連盟の暗部に属する狩人の事だ。魔術師達の間ではほぼ周知の事実だが、連盟の言う〝異端〟とは巷で幅を利かせている魔術師をも含むらしかった。要するに彼等にとって目障りな存在は全てが異端なのだ。昔はともかく現在のアルマローラがどういった者達の集まりなのか、その辺りで底が知れる。
態々忠告してくれるのは有難いが、フィロは既に一度〝異端狩り〟に追われた事があるので然して警戒するような気にはならなかった。それが原因で王都を出る事にはなったが、だからといって格別の不自由も無いのだ。とはいえ折角の忠告だ。念の為、心に留め置こうとは思う。
「それから――」
大分中身の減った茶碗をフィロが受け皿に戻すのを見計らって亭主が言葉を継ぐ。磨かれて台に置かれた水呑みが、近くにあった別の水呑みと触れ合って澄んだ音を鳴らす。
「―――犯人は〝人形遣い〟を名乗っている。…襲われたジェイがそう聞いたそうだ。事実、奴は土塊の人形にやられたらしい」
フィロは僅かに目を見開いた。直ぐ様顔を上げ、本当かと尋ねる意で亭主を見つめる。亭主は苦虫を噛み潰したかのように顔を顰めた。
そのように呼び名されてはいるがフィロは自身を〝人形遣い〟を称した覚えは無い。此方での生計を立てる為にもとして活動を続ける内、扱う技から自然と〝人形遣い〟と呼ばれるようになったというだけだ。故あって故国を捨てオーロールに渡った斯波一族の傀儡師はフィロを含めて三人いるが、他の二人――大叔母である蘭月とその直弟子の入夜も自らそのような名乗りはしていなかった。
となると魔術師を襲っているのは〝人形遣い〟を騙る何者かという事になる。思い返してみれば、事件について話していた時のルチカの態度には、ジェイが襲われた際の話に差し掛かった時に幾分奇妙なところがあった。あの時は結局それを問う事無く終わったが、ルチカはジェイの証言で犯人が「自分は〝人形遣い〟である」とような事を話していたのを知っていたのだろう。にも拘わらずフィロの機嫌を損ねない為か、あるいは別の理由かは知らないが、敢えて黙っていたという訳だ。
フィロは瞳を伏せ、閉じた。心奥から這い上がるような感情が平静を喰い破ろうとしているのを感じた。感情の名は、怒りだ。けれどもフィロは意識して心を落ち着かせようと努める。
フィロにとって唯一の矜持とも言える、自らの技。傀儡師であるという事。正確に言うならばフィロ一人を指す通称ではないとはいえ、〝人形遣い〟を騙るというのは、それ等を踏み躙り、汚すという事に他ならない所行だった。許せる訳が無い。否。許してやる気になど、どうしてなれようか。
表面上こそ平らかに、だが胸裏では憎悪にも似た憤怒を懸命に宥め、フィロは大きく息をついた。其処へ突如、やけに嬉々とした男の声が割って入る。
「よう!お前、〝人形遣い〟の事を調べてんのか?」
琥珀色の液体が入った大振りの水呑みを片手にやって来た男の目許は酒精の為だろう、ほんのりと赤くなっている。吊り目気味の瞳を笑みの形に撓めた男はカウンターに背中を凭れさせ、フィロの左隣にどっかりと腰を落ち着けた。男の大声に釣られて店内にいる客達の視線が一斉に此方に向く。幾人かの客は訳知り顔で「止めておけばいいのに」という憐憫めいた表情で男を見遣ったが、男はそれに気付く素振りも無く、手にした酒を一息に呷る。
「やべえよなあ。もう四人だぜ?〝人形遣い〟の野郎、何考えてやがんだろうな?」
言って男は水呑みをカウンターの上に叩き付けるようにして置き、亭主に向け顎をしゃくり、次の一杯を催促する。亭主は酷く冷めた眼で男を一瞥し、酒を注いでやった。
「次はここにいる誰かかも知れねえもんなあ!はははっ!おい、チビ。お前も気を付けた方がいいぜえ?〝人形遣い〟はホントにやべえ奴だからな」
上機嫌の男が意気揚々と、水呑みを高々と差し上げた。稲束を横に寝かせた風にも見える、気障っぽく伸ばされた男の前髪がその動作に小さく跳ねる。その間、フィロはただ黙って男を見つめていた。男の様子を具に観察しつつ、その思惑を計る。
暫し水呑みの中身をちびちびとやっていた男が不意ににやりとした。じっと押し黙るフィロの態度を怯えている所為だと取ったらしい。男はフィロの方へと突き出すようにして顔を寄せ、脅すように低く囁く。
「次は、殺されちまうかも知れねえよな。…なあ。ガキが首突っ込んでいいような事じゃねえんだぜ?」
「……」
フィロは口を噤んで男を見つめ返した。相手は見たところ、三十路の手前くらいの年齢だろうか。此方では年齢よりも幾らか幼く見られる事が多いがフィロはもう十五だ。故国では元服といって疾うに成人として認められる年齢なのである。チビは事実だとしても、ガキ呼ばわりされる謂れは無い。
恫喝染みた言葉そのものではなく、どちらかといえば子供だと思われた事の方が少しだけ気に障る。無表情の奥に隠されたそんなフィロの感想など露知らずの男は、残った酒を実に美味そうに喉を鳴らして飲み干した。
男の置いた水呑みの底面とカウンターの天板がぶつかり合って、静かな店内に硬質な響きを打ち鳴らす。
「…じゃあな」
酒臭い息でそう言うと男は銀貨を一枚、亭主の前に放り出した。薄汚れた粗末な衣服の、脚衣の隠しに両手を突っ込み、肩を揺するようにして男は店の出入口へ歩き去って行く。男が乱暴に扉を閉めるのと同時に、フィロ達の動向を注視していた他の客等の緊張が解れたのが店内の空気から察せられた。
「……今のハ?」
フィロはあれが誰か知っているかと亭主に訊いてみた。すると、むすっとした顔で勘定を拾い上げていた亭主が凄みの利いた目付きで男の出て行った扉を睥睨した。
「キリー・ランドルフ。少しばかり前に王都に出て来た、チンケな詐欺師だ」
亭主によれば、あのキリーという男は金持ち貧乏人を問わず、ちゃちな幻術を使って魔術に疎い商人を騙しては金銭等を巻き上げるという魔術師であるらしい。過去、行状の悪さ故に師の許を破門になり、以降は破落戸同然の暮らしをしていたようだと言う。キリーが王都にやって来たのは今から一月以上前だという話だ。
随分詳しいが、何処からの情報なのだろうか。先程の言動からしてキリー本人が酔った勢いで語ったとも考えられるが、だとしたら亭主がこうしてキリーのような人間の話を真に受けたかのように語るとは考え難い。裏付けの為にフィロは話の出所を亭主に問う。亭主は少し悩むような間を置き、掌中の銀貨を確かめるみたいに握り込んだ。
「…ラークスの奴だ。あいつとは元、同門だったらしいな」
「ラークス…。…四人目の被害者デすネ」
思わぬところで繋がったものだ。続けて亭主は王都に現れたキリーが金に困っており、かつての弟弟子であったラークスに金の無心をしに来たという事、そしてそれをラークスが断ったという話を聞かせてくれた。
亭主が話し終えて程無く。紅茶を飲み終えたフィロは空の茶碗の表面を親指でなぞった。
当初は無駄足かとも思ったが、なかなかどうして、悪くはない収穫かも知れない。一先ず足掛かりは出来た、というところだろうか。
もうそろそろいい時間だ。宿に帰ってから夕食を摂るよりも此処で済ませてしまった方が早いだろう。フィロはこれからやるべき事についてを思案しながら、亭主に紅茶のお代わりと、追加で食事の注文をした。
春とはいえ、夜はまだ冷える。太陽の照っている間は心地好く暖かいが、陽が落ちてからは上着となる衣を一枚羽織っていても幾分肌寒いくらいだ。オーロールの気候は通年、然程高い方ではないので仕方が無いのだが。
夜更けの裏路地をフィロは宿へと向かっている最中だった。王都の民は皆深い眠りに就いているような遅い時分ではあるが、フィロの歩調は昼間と変わらぬ一定の速度だ。足早に宿へ戻ったところでやらなければならない事がある訳でもなし、何を急ぐ事があろうか。
頭上に細長く切り取られた藍色の夜空には爪の先程しかない細い細い月と、数多の星が瞬いている。見え方こそ異なれど、あの輝きは何処であっても変わらないのだろう。夜の匂いを胸一杯に呼吸してフィロは思った。
僅かな月光と無数の星明かりの下、石畳の上をフィロとその影だけが動いている。夜は深く、静かで、己の足音しか聞こえない。
と。然程遠くはない周辺で生き物の動く気配を感じてフィロはゆるりと足を止めた。裏路地を抜け、小さな広場に出るところだった。
その場に佇立して、耳を澄ます。駆ける数人の靴音が此方へ向かって来ているようだった。フィロは広場の方へ出、見通しの良い位置に立って靴音の主達を待つ。
ややあって、見渡せる幾つかの路地への入口からばらばらと三人の男達が現れた。人間の性根とは外面にも滲み出るものだが、こうも人相の悪い者達がよくぞ集まったものだ。類は友を呼ぶという奴か。フィロは男等の姿をざっと眺め渡して感心に近い想いを抱いた。
一様に着た切りのようなよれて薄汚れた衣服を纏った男達は誰からともなく寄り集まり、一塊の集団となってフィロの方へとやって来た。流石にただの通り掛けという事にはならないようだ。肩を揺するようにして距離を縮めてくる男達に、フィロは溜め息をつく代わりに瞬きを一つした。
三人の中で最も体格の良い蓬髪の男が無精髭だらけの顎を撫でる。フィロを見る男の目付きは値踏みするような、睨み据えるような、お世辞にも友好的とは言えないものだ。
「おう。こんな時間に子供が一人で出歩くなんて危ないぜ?」
「………」
「都じゃあ今、魔術師ばっかりを狙うおっかねえ奴がうろうろしてやがんだ。だっつうのに…夜にお前みたいなガキが出歩いてりゃあ、あっという間に餌食になっちまうぞ?」
居丈高な態度と取って付けたような諭す口調。夜歩きの危険を言い聞かせてくる当の本人こそが最も不穏な雰囲気を醸し出している。男の左右では他の二人が薄ら笑いを浮かべて剣呑に眼を光らせていた。
フィロが例の酒場を出た時には近くに他の人間の気配は無く、同時期に酒場を後にした者もいなかった。直接取り引きに来る依頼人を除けばあの酒場を訪れるのが魔術師のみであるのを知っており、そしてフィロが依頼人の側ではなく魔術師に分類されるのを知っている。加えて言えば、現在フィロが魔術師狩りについて調べているのを知り得なければ、こうした物言いにはならない筈だろう。
現れて早々に語るに落ちてどうするのだ。これでは誰の差し金でやって来たのか、自ら明らかにしているようなものではないか。おくびにも出さないながらフィロは至極呆れていた。けれどもこうした人間は都合のいいように取るもので、彼等はフィロが恐ろしさの余りに声も出せずに立ち尽くしているのだと勘違いしている様子だった。
弱者――と彼方が勝手にそう思い込んでいるだけだが――を嬲るのが愉快で仕方無いといった風に男等は態とらしく顔を見合わせ、耳障りな笑い声を上げた。面積でいえば然して広くはないとはいえ、このような開けた広場で絡んでくるとは夜警の衛士の存在などは頭に無いのだろうか。それとも、衛士など大した問題にもならないという事なのだろうか。
「やっぱりなあ、ガキがちょっかい出していい事と悪い事があんだよ。恨むんなら、てめえの好奇心って奴にしとけよ」
どうやら前口上はそれで終わりらしい。指の間接をぽきぽきと鳴らしつつ、男達が大股に一歩を踏み出す。
降り掛かる火の粉を払うに吝かではないが、此処で傀儡を喚び出すのは得策ではないか。フィロは帯に手挟んである物入れに手を伸ばし、
「―――止めなさい」
僅かに遠く、通りの方角から届いた声に、物入れの覆い蓋に掛けていた指先を気取られぬようそっと体側に戻した。
「あ゛あ゛!?」
「何だ、てめえはっ!?」
不意を衝かれて色めき立つ男達を余所に、声の主は悠然とした歩みでフィロと男達の側まで来ると、フィロを背に庇うかのように彼等と向かい合う。その場に立ちはだかるようにしてすっと横へ伸ばした左腕の動きに、青年の纏う桔梗色のローブがふわりと舞った。翻るローブの下に垣間見えた、彼が腰に帯びている柄頭に翠玉の嵌め込まれた一振りの剣の存在が破落戸達を一瞬どよめかせる。
「いい大人が子供一人を相手に、寄って集って何をしているのですか?仮令相手が子供でなかったとしても、決して褒められた行為ではありませんよ」
声は穏やかな響きながら、有無を言わせぬ強さがあった。深まる夜に冷たさを増した風が、肩口までは越えないまでも長めの青年の髪をさらりと靡かせる。静かに降る星光を受け止めた髪は緩やかに波打ち、闇の中で目立つとはいえない茶色であるのにも拘わらず夜目にもはっきりと判る鮮やかさを有していた。
言葉の内に多少の引っ掛かりを覚えはしたが、取り敢えずフィロは場の成り行きを静観する事に決めた。突如現れたこの青年が誰であるのか、フィロは知らない。まるで此方の味方をするように破落戸連中と対峙してはいるが、彼が何者か判らない以上は警戒して然るべきである。
「うるせえ!すっこんでろ!!」
「そうだそうだ!てめえもやっちまうぞ、コラ!」
「痛い目見たくなかったらさっさと消えな!!」
どすの利いた声で破落戸達が口々に吠え立てる。しかし青年は困った風に溜め息をつくだけで、怯んだ様子は少しも見られない。
幾ら脅そうとも落ち着き払っている青年に焦れたらしく、蓬髪の男が舌打ちと共に腰の短剣を抜き放った。これ見よがしに右へ左へと持ち替えてみせる刃物が夜闇に鈍く輝く。
「どうしても怪我してえみたいだな。…きっと後悔するぜ、兄ちゃん」
男の眼が手にした短剣に宿るものと同じ種類の不穏な光を湛える。フィロからはその背しか見えず表情は窺えないが、応じる青年の声が少しだけ低くなった。
「…仕方がありません。どうしてもというのでしたら、お相手致しましょう」
慇懃に返答する青年が右手を前へ、居並ぶ破落戸の方へ向かって差し伸べる。喚起された魔力が瞬間、この小さな広場全体を呑み込むかのように大きく空気を震動させた。
「…なっ!?」
フィロのように確たる知覚こそ出来なかったようだが、ざわめく男達の様子からすると、彼等も今の一瞬の魔力の波動を不可思議な風圧めいたものとして感じ取ったようだった。彼等の間に明らかな動揺が広がる。最も威勢の良かった蓬髪の男でさえもが後込みし、靴底を擦りながら踏み出し掛けていた足を引いた。
「……お、おい!?この野郎、魔術師だ!」
周章の叫びを受けて、青年は飽くまでも物柔らかに言う。
「いいえ。魔導師ですよ」
笑みを浮かべているのだろう。声音で明らかだった。青年が舞うような動きで右腕を斜め上へと滑らせる。僅かに遅れて宙に走った炎が辺りを赤々と照らし出した。
さながら蜷局を巻く大蛇の如くに炎が虚空を泳ぎ回る。先程の大仰な魔力喚起同様、恐らくは威嚇であり、ただの牽制だろう。だが破落戸の男達はすっかり意気を挫かれている。
「――来ないのでしたら、此方からで構いませんか?」
火の粉を撒いて炎が踊る。最後の一押しだ。フィロは思った。少なくとも青年には男達に向けて魔術を放つつもりは無い。けれども青年の脅し文句の効果は覿面だった。
「…う……うわああぁ――っ!!」
対抗する術を持たない者にとって、魔術とは恐るべき脅威となり得る。焼き殺されるかも知れないという恐怖が到頭限界に達したに違い無い。破落戸の一人が悲鳴を上げて駆け出した。仲間の一人が逃亡する事により更なる恐怖が伝播し、男等は次から次へ、我先にと転けつ転びつの体で逃げ出して行く。
破落戸の姿が通りの物陰へと完全に消え失せるのを待って、青年が腕に絡み付いた糸を振り払うかのような仕草をした。途端、炎は幻のように跡形も無く消失する。炎の所為で生じていた熱気が冴えた夜風に浚われ、辺りには夜の静寂が戻った。
「ふう…。行ってくれて良かった。余り手荒な真似はしたくありませんからね」
独り言ちて青年がフィロを振り返る。夏の樹々の深緑を思わせる瞳がフィロへ向けて笑い掛けた。
「私はガルシア・ルクレールと申します」
青年――ガルシアは柔らかく微笑んでそう名乗った。
フィロは少しばかり事情を訊きたいとガルシアに請われ、広場の隅にある石の長椅子に彼と並んで腰掛けた。
先刻の男の悲鳴で誰ぞ外に様子でも見に来るかと思ったが、近隣の店や民家の人間は一人も外へは出て来ない。皆眠っていて気付かなかったのか。それとも、聞こえはしたものの関わり合いになどなりたくないとして無視しているのか。建物の扉や窓は固く閉ざされており、開くような様子は無い。
ガルシアは幾分困惑の眼差しでフィロを見つめている。名乗ったものの、フィロの表情に変化が無い所為で話を聞いているのかいないのか、判断が付かないらしい。続けて、こほん、と気を取り直すみたいに小さく咳払いをする。
「正統魔導師連盟アルマローラに属する魔導師です。貴方のお名前を伺っても?」
「……フィロ」
別に本名を名乗ってもよかったのだが、面倒なので止めておいた。フィロにとって此方の発音が難しいように、此方の人間にもフィロの故国の発音は耳慣れないもののようだからだ。現在はフィロの母国語を完全に使い熟しているシェディールでさえ、頼まれて教え始めた初期の頃は片言以下の発音しか出来なかったのだ。だというのに、今此処でガルシアを相手にフィロの本名の発音教室を開いても仕方が無い。
「フィロ。素敵な名前ですね」
お世辞を言ってガルシアが笑う。夢見がちな乙女ならばそれだけで恋に落ちてしまいそうな、実に典雅で優しげな笑顔だった。生憎フィロは乙女でも夢見がちな性分でもないので全く心に響かなかったが。
「フィロは何故、このような時刻に外を出歩いているのですか?失礼ながら、夜歩きを楽しむ年頃には些か早いような気がしますが…」
だから故国では成人なのだ。言っても詮無い事だとは知りつつもそろそろ口に出さないでは堪えられなくなり、フィロはそうした胸の内を素直に吐露した。ガルシアは二、三度瞬きを繰り返してから「それは申し訳ありません」と会釈した。
「王都では余り見慣れない衣装からそうではないかとは思っていたのですが、ではやはり貴方は外国から来た方なのですね。オーロールへは最近?」
「イいエ。彼此三年程ニなリマす」
答える序でにフィロはガルシアが訊きたがっている様子の、フィロがこんな夜更けに出歩いている理由を語った。辿々しいフィロの発音を聞き取るのに苦労しているらしかったが、ガルシアは優雅に整った眉を顰めながら頷きを繰り返す。
「成る程…。貴方は魔術師だったのですか。では私は出過ぎた真似をしてしまったようですね。重ね重ね失礼を」
少しだけ決まり悪げな謝辞を述べてガルシアが夜空を仰ぐ。正確には傀儡師――あるいは呪術師なのだが此方風に言えば魔術師という事になるので、細かな指摘はフィロの胸の内だけにしまっておいた。
夜に仄白く浮かぶガルシアの秀麗な横顔。近頃王都で発生している魔術師ばかりを狙った襲撃事件について調べている。そう此方が話した瞬間のガルシアの微かな表情の変化をフィロは見逃さなかった。
熟視に気付いたガルシアがフィロを見る。目が合い、けれども微塵も動かず、少しも視線を外そうとしないフィロにガルシアは苦笑めいた笑みを浮かべた。その動作の一つ一つが如何にも高貴な雰囲気を漂わせており、ガルシアの育ちを窺わせる。
少しして、ガルシアが観念したように小さく両手を挙げた。見るからに上等そうな衣服に包まれた長い足の片方を伸ばし、もう一方を軽く折り曲げ、両の指を胸の辺りで祈るように緩く組み合わせて彼は言う。
「――…実を申しますと、私も例の魔術師狩りについて調べているのですよ。尤も、連盟の命令ではなく、個人的にではありますが。この王都でそのような事件が起こっているのを知った以上、魔導師として放ってはおけませんからね」
魔導師とは、魔術の力で人々を守り、教え導く者。今となっては真意すらも忘れ去られ、ただ掲げられているだけとなった古めかしい扁額のような連盟の真の思想を噛み締めるかのようにガルシアが瞼を閉じる。瞑目するガルシアは連盟がかつて旨としていた廉潔を面に湛えているかのような風情だった。
僅かの間、会話が途切れる。音も無く過ぎ行く夜風を何とは無しに目で追ったフィロは、とある路地の入口を思わず凝視してしまった。建物の陰。闇に紛れるようにして、長身痩躯の人影が其処に在る。
月の光を宿したかの如く冷たく輝く金の髪。意匠こそ簡素ながらも貴族の若者めいた恰好。彼女はフィロがその存在に気付いたのを察したように素早く身を翻した。一本の長い紐のように編まれた髪の先が、臙脂の外套の端が、さっと踵を返した主に一拍遅れて路地に消える。
「――……シェディール」
「え?」
知らず零れたフィロの声にガルシアが反応する。
「シェディール…。それはもしや、シェディール・ディアンの事でしょうか?」
問われるままにフィロは頷いた。立ち上がったガルシアがフィロの視線の先を探るように数歩進み出て辺りを見回したが、シェディールの姿はもう何処にも見当たらない。
「私は彼女の知己なのですが、フィロ。貴方も?」
シェディールの生家ディアン家は古くから続く魔導師の名門だ。連盟の魔導師たるガルシアが彼女と知り合いであっても何ら不思議は無い。驚いた顔で尋ねるガルシアに、フィロは多少悩んだが恋人であると返答した。ガルシアの表情に浮かぶ驚きの色が強くなる。
ガルシアは驚きを隠せなかったらしく、暫し呆然と目を丸くしていた。だが、はっとした風に片手で覆うように口許を押さえると、改めてまじまじとフィロを見つめた。驚愕からは返ったものの、どうやら未だ信じられないような気持ちでいるらしい。
それまでの彼の態度からすれば。ガルシアのその視線はかなり無遠慮なものだった。人の顔色を窺う類の人間であれば、何かおかしな事を言ってしまっただろうかと不安になるかも知れない。だがシェディール曰く見た目に反して可愛げが無いフィロは自己の言動を省みるどころか、ガルシアの反応にいつかのルチカの言葉を思い出していた。
「――そんな、お人形ちゃん!君はこの先の人生を真っ暗闇に投げ捨てるつもりなのっ!?」
いつに無く真面目に、心からフィロを案じるような表情でそう叫んだルチカが即座にシェディールに頭を張られた事は言うまでもない。
まあ恋人である自分が言うのも何だが、彼女の性格を良く知る人物であれば冗談と本気の割合こそともかく、そうした反応をするのも解らないではない。フィロとて、出逢った当初はまさか自分が彼女と恋仲になるとは夢にも思わなかった。
フィロが若干想い出の方へと思考を傾けていると、つとガルシアが取り繕うように微笑した。
「――ああ、失礼を。済みません、余りにも意外であったので」
誤魔化しめいて微かに吐息を洩らし、ガルシアが言葉を続ける。
「…実は、私と彼女にはかつて縁談の話があったのですよ。ああ、勿論それは家同士が進めていただけもので、私や彼女にそうした感情は無かったのでご安心下さい」
このような事を話して機嫌を損ねただろうか。だとしたら申し訳無い。そんな心情を顔全体で表現してガルシアがやんわりと断りを入れる。彼の発言に対して然程興味を引かれなかったフィロはガルシアの顔の造作を無駄に観察した。正に眉目秀麗といった中にも何処か男らしさのようなものがあるこの顔は、さぞや若い娘達の憧憬を集める事だろう。これはこれで傀儡の造形を考える際の参考になりそうだ。
フィロの沈黙をどう取ったのかは判らないが、ガルシアはふと口許を柔らかく緩める。次に彼はその美形に真摯な表情を形作ってみせた。
「――ところで、差し支え無ければ訊かせて頂きたいのですが……先程の男達。ああいった破落戸に襲われるような覚えは身にありますか?」
無くはない。彼等の口振りから考えて、恐らくは先刻酒場で会ったキリーという男の差し金だろう。けれどもガルシアに全てを正直話してしまうのは得策ではないと思えた。フィロはキリーとの遣り取りについては伏せた上で、例の魔術師狩りに関して調べているからではないか、というような事を幾らかぼかして答える。
「そうですか…。いえ、ならば尚更、今夜この辺りを見回ってみて正解でしたね」
ガルシアが得心がいった様子で一頻り考え込む。彼は思案顔で口許に手を当てていたが、一度大きく頷くと気品たっぷりに立ち上がり、フィロに向き直った。
「どうでしょう?貴方さえ宜しければ、この魔術師狩りと呼ばれる事件について共に調べてはみませんか?」
「……一緒ニ?」
「ええ。私は魔導師であり、貴方は魔術師です。それぞれ別の立場、別の視点から、何か見えてくる事もあるでしょう。二人で力を合わせる事で見出せる真実というものもあると、私は思うのです。――如何でしょう、フィロ?」
上手いのは声の抑揚の付け方か、間の取り方なのか。ガルシアの言葉は聞く者に彼の話に傾注する快さを与えるかのようだった。並大抵の話術では演説や説法の類にこれだけの説得力を持たせる事は難しいだろう。
フィロは真摯に此方を見つめるガルシアの深緑の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。微笑むガルシアは少々に冗談めかして言葉を付け足す。
「大きな声では言えませんが王都はこの頃、余り治安が良くありませんからね。先程の破落戸達が魔術師狩りとは無関係の者達でないとは限りません。魔術師への襲撃は夜にばかり起こっていますから、調査をしていれば、ああいった手合いの人物に出会す恐れも必然的に多くなる事でしょう。可能であれば不要な争いは避けたいものですし、それには一人で出歩くよりも二人で行動する方が良いと思うのです」
「治安…。そウいえバ、先達てモ連盟の魔導師ニよル事件があっタばかりだソうデすネ」
ルチカがちらりと話していた〝魔物遣い〟が片付けたという、魔導師が使い魔にしようと喚び出した魔物が逃げ出してしまった事件。それを含めると王都は確かにこの頃治安が悪く、物騒続きだ。
フィロに他意は無かったのだが連盟の人間であるからか、体側に下ろしているガルシアの指先が強張ったように動いた。
言葉に詰まったかのような少しの沈黙を挟んでガルシアは気を取り直した様子で微笑み、
「――ええ。同じ連盟に名を連ねる者としてお恥ずかしい限りです」
と言った。笑みを湛えながら強くなってきた夜風に乱された前髪を掻き上げ、彼はフィロからの返事を待っている。
ガルシアに倣ってフィロも長椅子から立ち上がり、彼の前に立つ。
「はイ。宜シくお願いシマす」
フィロはガルシアを見上げて答えを返した。「では、決まりですね」とガルシアが笑みを深くし、その手がそっと差し出される。協力に当たっての握手だ。フィロが黙ってガルシアの手を取ると、彼はフィロの手をしっかりと握り返してきた。
夜気の中に在っても、握手を交わしたガルシアの手は温かかった。ガルシアの手の温もりを掌に感じて、フィロはシェディールの冷たい手の感触を思った。
一言も発さずに路地の暗闇に消えて行ったシェディール。この件に関して彼女が動いているらしいのを知ったからといって、易々と引き下がる事などは出来なかった。シェディールの行動に仮令どのような思惑であるとしてもだ。己が引き受けた仕事であるという以前に、〝人形遣い〟を騙る犯人を捨て置くなどという選択肢はフィロの中には存在し得ない。
表面上は至って静かに見えるだろうが、先刻からずっと、フィロの心奥では嵐が吹き荒れていた。嵐の中央にはフィロがフィロである所以たる傀儡師としての矜持が在る。
握手を終えて穏やかに笑うガルシアを素通りし、フィロの瞳は夜天を見上げた。鏤められた星々が宿す幾多の光を隠すかのように、雲を押し流す風が吹く。ガルシアが思わず片腕を上げて顔を覆った突風一陣。それすらも、フィロの胸裏に吹くこの嵐の強さには足りなかった。
*
昼夜を問わず普段から人通りなどほとんど無いような、路地の裏の裏。その一角で男達は闇に身を隠すようにして密談を交わしていた。否。多少なりとも諍いを起こしていたという方が正しいかも知れない。
「三人もいて何やってやがんだ、お前らは!?」
見回りの衛士でさえ、態々このような入り組んだ裏路地の片隅になど足を向けはしないだろう。誰にも見付かりはしないという安心感が、大声を出せば不味いだろう時間帯であるのをキリーに忘れさせていた。舗装されていない冷たい地面に蹲る仲間達が各々弁解をしようとする。だがキリーは彼等の言には一切取り合わず、苛立ち紛れに親指の爪を噛んだ。
畜生。畜生。本当に使えない奴らだ。
頭の中では男達への罵倒ばかりが延々と回り続けている。この連中とは王都に出て来てから知り合い、手を組んで詐欺など働くようになった〝仕事仲間〟ではあるが、如何せん重大な局面になるとキリーに頼り切りで、碌に役に立たないのだった。
稼げそうな標的を見繕うのもキリー。肝心要の、標的を上手く話に乗せて騙し、金品を巻き上げるのにも魔術師崩れであるキリーの幻術が物を言った。仲間は見張りや弱い者相手の乱闘、脅しなどの莫迦でも出来るような荒事程度でしか使えず、彼等と組んでからキリーに掛かる負担は相当なものとなっていた。
無論、男達とてキリーに頼るばかりではなく、時には往来で態と人にぶつかり因縁を付けるなどして日銭を稼いで来た事もある。それで糊口を凌いだ日さえあるのだが、現在のキリーは激しい焦燥に駆られていた。持つべき者は仲間だぜ、などと嘯き笑い合ったあの日の事など記憶の彼方に追い遣られてしまっている。
キリーは落ち着き無くその場を行ったり来たりする。見るからに苛立っているキリーを刺激しないようにと仲間達は皆、肩を窄めて言い訳の為の言葉を呑み込んだ。
キリーの胸中に広がり、抑え切れずに溢れ出してはまた足下から這い上がって彼を逸らせる焦り。じりじりと火の手が上がり始めた家の中にいるかのような焦慮と、不安から来る一抹の恐怖がキリーの心を押し潰そうとしていた。
ひ弱そうなチビだった。世間知らずのガキにしか見えなかった。ちょっと脅せば直ぐに逃げ出すだろうと踏んでいたのに、失敗してしまった。脅しを掛けている途中で邪魔が入ったなどという下らない言い訳など聞きたくもなく、またそんなものが彼奴に通じる訳も無いだろう。
全く何奴も此奴も。あの〝人形遣い〟が動いているのだから、妙な好奇心など抱かずに恐れをなして傍観に徹していればいいものを。入れ知恵であるとはいえ、これでは何の為にその名を名乗ったのか判らないではないか。
「いいか、お前ら!もう一度、今度は徹底的に潰してこい!!魔術師だろうが邪魔が入ろうが、相手はたかだかガキ一人だ。そのくらいはやってもらうからな!!」
仲間へ向かって音がしそうな程の勢いで指を突き付け、キリーは怒鳴った。男達はキリーの剣幕に一斉に身を竦ませる。けれども、狼狽した風な幾つもの眼が自分の横を通り過ぎてその奥を見ている事に気付き、キリーは慌てて背後を振り返る。
一体いつから見ていたのか、長身の影が佇んでいた。キリー等の潜む路地への曲がり角に寄り掛かるように腕を掲げ、それまでの遣り取りを嘲るみたくやや持ち上げられた唇の両端が微笑の形を作り出している。
「――…あ、あんた……いつの間に……」
「このような夜遅くに余り大声を出すのは感心しないな」
幾ら何でも誰かに聞かれる恐れがある。影は笑い混じりの口調で注意した。
キリーは自分でも知らない内に後退りをしていた。まさかもうキリー等の失敗を嗅ぎ付けて叱責に来たというのか。流石にあり得ないという思いと、此奴ならばそれもあり得るだろうという思いが同時に生まれ、思案の双方ともが急流に浮かんだ木の葉のように胸中の焦りに呑み込まれてゆく。
「…よ、よう。何だ、珍しいじゃねえか。皆で集まってる時にあんたが来るなんてよ…」
キリーは精一杯の軽口めいた言葉でこの場を――自身の中の恐怖を誤魔化そうとする。路地の角に佇む影はキリーの後方にいる仲間達を値踏みするみたく眺め渡した。
影が此方を莫迦にした一笑を洩らす。仲間達はキリーからの話に聞いていた後ろ盾――あるいは黒幕とも言える人物との初対面に戸惑ったのか、怯えたように縮こまっている。お前達のせいでオレまで莫迦にされたじゃねえか。キリーは羞恥に顔が赤くなるのを感じた。
「気にしなくていい。少々、君達に頼みたい事があるのだ」
如何にも貴族然として、悠々と影は言う。自分が相手から完全に見下されている事は判っているが、キリーには黙って悔しさを噛み殺す他は無かった。今現在は協力関係にあるとはいえ、もしも歯向かいでもすれば此奴は恐らく情け容赦無くキリー達を切り捨てるだろう。相手はキリーなどより余程魔術に習熟しており、仲間全員で掛かっても到底太刀打ち出来ないような人間だった。
「……。何だ、その…頼みってのはよ?」
影は笑うだけで答えない。機嫌を損ねぬよう下手に窺うキリーの背で、剥き出しの地面がひっそりと蠢く。小さな山のように盛り上がった地面が一つの土塊となって動き出すのを目にし、側にいた男達があたふたと壁際まで逃げ出した。
土塊の持つ刳り抜いた穴のような二つの瞳がキリーを、その奥に立つ影を、虚ろに見つめている。この魔物は、手を組む事を決めた際に目の前の相手から譲り受けた使い魔だった。けれども今や、元からキリーの使い魔であったかのように彼の命令を忠実に聞く、素晴らしい手駒となっている。
元の主人の気配に反応したのか。土塊の使い魔がもぞもぞと動く。蠢く使い魔が路地に放置されていた壊れた木桶にでもぶつかったのだろうか。からからという小さな響きがふと、幽かに耳に届いたような気がした。