72.死神 〜後座〜
ヒロインのアンナ視点のお話パート2です。
「アンナ、起きて。ねえ」
「んあ……?」
ジュリオに起こされたアンナは、クソ改悪をされた落語に文句を言いながら寝た事を知った。
喉が乾いたので、傍にあるお茶をガブ飲みする。
冷たい飲み物が喉を通り、寝惚けた体がシャキッと目覚めた。
「アンナ、ただいま。……苺系のパンケーキ、テイクアウトして来たよ」
可愛らしい紙袋をジュリオから渡されたアンナは、「?」と言う顔をしてしまう。
「忘れたの? この前言ってたでしょ。……苺の何かあったらよろしく頼むって」
「……ああ!」
確か、厚生労働局の職員が来る前、パンケーキデートに向かおうとしたジュリオから何かテイクアウトするか聞かれ、苺の何かあったらくれやと言った気がする。
その後はハチャメチャな出来事が続き、すっかり忘れていたが、ジュリオは覚えていてくれたのだ。
この男は、意外と気が回るヤツである。
アンナにラジオを贈ったり、こちらが言った適当な事を覚えていたりと、細かい所に気が利く奴なのだ。
芸術品みたいな美男子顔をしているジュリオが、そんな風に気が回るのなら、そりゃ女にも男にもアホほどモテるだろう。
「ありがと……」
アンナは紙袋から苺と生クリームが乗ったパンケーキを取り出し、フォークで生クリームを避けながらパンケーキを口にした。
穏やかな甘さと苺の甘酸っぱさが良い感じである。
ただ、生クリームは重過ぎて苦手であった。
買ってきてくれたジュリオには、申し訳ないのだが。
「席に着いた瞬間さ、店員さんに『テイクアウトしていいですか?』って聞いちゃって……。『じゃあ何で席に着いたんですか?』ってツッコまれちゃった」
ジュリオはそんな事を笑いながら話すと、パンケーキ屋の可愛らしい紙袋から、小さなキャンドルを取り出し火を付けた。
「おまけでキャンドルを貰ったんだ。……何か、香りのリラックス効果? とかあるんだって」
「……リラックス……効果? まさか」
ジュリオは「せっかくキャンドルを付けるんだから、部屋の明かり消すね」と言い、部屋を暗くしてしまった。
暗くなった部屋を、キャンドルのぼやっとしたオレンジの光が淡く照らしている。
すると、いつもの小汚いリビングが、何だか妖しくおかしな雰囲気になってしまう。
ふと、ラジオから聞いたクソコマーシャルの言葉を思い出した。
『甘い魔法のパンケーキを食べた後、彼とキャンドルの光を見ながら良い雰囲気になっちゃえ! 今度は貴女が甘ぁ〜いパンケーキみたいに、彼に食べられちゃうかも!?』
と言うパッパラパーな宣伝文句だ。
「アンナ……生クリーム嫌い?」
ジュリオはパンケーキを食うアンナの隣に、擦り寄る様に座って来た。
これはいつもの事だ。アンナだって、ジュリオに寄りかかって本を読む事もある。
だが、今はどうなんだ。
暗い部屋に灯されたキャンドルの明かりのせいなのか、いつも以上にジュリオが色っぽく見える。
「美味しいのに」
キャンドルの暖かい光を受けて、ジュリオの金髪が優しく輝いた。
蠱惑的な笑みをするジュリオは、サラサラし過ぎて邪魔なのか、長い金髪を片耳にかけてしまう。
ただの何気ない動作の筈なのに、目が離せないのは何故。
ジュリオの若草色の瞳には、キャンドルのオレンジの火が反射しており、その光がゆらゆらと揺れて綺麗だと見惚れてしまう。
睫毛の一本一本にも光が当たって、涙袋に繊細な影が落ちている。
どんだけ睫毛長いんだよ、とアンナは思う。
「……悪ぃな、この生クリームは後であんたにやるから、コーヒーにでも入れといてくれや」
アンナはジュリオをなるべく見ないようにし、パンケーキを無心で食った。
口の端に苺のソースがくっ付くが、そんなのには気づけない。
「……付いてるよ」
「え」
ジュリオの細く華奢な指が、アンナの口元に触れた。
細く華奢な指だが、骨と節が目立つ男の指である。
こんな事は良くあるのだ。何も珍しい事じゃない。
アンナだって、ジュリオには軽く触る事がよくあるのだ。
何も珍しい事じゃない。ただの友人的な関係だ。
ただ、この困ったバカ王子は、女にも男にもモテ過ぎたせいで、異性に対する距離感がバグっているのだ。
ただ、それだけだ。
「……あんたも悪い男だな。……そうやって何人落として来たんだ」
そして、ジュリオに落とされた老若男女に憐れみを抱く。
だって、こんな妖艶で美しい男が、細やかな心遣いと優しさを持って接してくるのだ。しかも、バグった距離感で。
こりゃ落ちてもしゃーないわ、とアンナは思った。
しかし、ジュリオからしてみれば、落とす気もないのに勝手に相手がその気になってしまい、面倒で嫌な思いも沢山したことだろう。
「火、消えそうだね」
ジュリオが長い睫毛に縁取られた若草色の瞳で、キャンドルを横目に見た。
「あ、ああ……そうだな」
確かにキャンドルは、残りわずかとなっている。
火が消えたら、部屋は真っ暗だ。
そうしたら、どうなるのだろうか。
笑って部屋の明かりを付けるだろうか。……それとも、このまま。
……このまま?
「アンナ、寝癖そのままだよ?」
ジュリオに優しい目でじっと見られて、寝癖がそのままだと笑われながら髪を触られた。
狩りとはまた違うおかしな緊張感が湧いてくる。
この男に、特別な気など無いというのに。
この男にとって、自分は命の恩人であり、同居人であるだけなのに。
この男から見た自分は、ただの貧乏下町のチンピラ猟師であり、それ以外に何も無いと言うのに。
それなのに、ラジオの事と言い、葬式事件といい、パンケーキのテイクアウトといい、この距離感と言い、まるでジュリオは自分に情を抱いているみたいに思ってしまう。
……このように、今まで何人ものアホが、この美しい男に勘違いをしてきたのだろうか。
咄嗟に、ハヤブサ先生の教えを思い出した。
アンナ、お前はハーフエルフだ。それに女だ。
ハーフエルフの女は、弱みも付け入る隙も与えず、一人で強く生きていかねばならない。
そうじゃないと、他人に食い物にされて死んでゆくのみだ。
強くなれ、他人を必要とするな。……強い女になれ。
思い出すと、まるでハヤブサがアンナの背後で囁いているようだ。
「アンナ……やっぱり可愛い」
「……うるせえ。だからそう言うのやめろっての。可愛いって言葉覚えたてか?」
今のあたしを見ないで、先生。
ジュリオに髪を撫でられてるのに、その手を跳ね除けられないあたしを、見ないで。
と、ジュリオに髪を撫でられるアンナは、泣き出しそうで不安げな顔をしてしまう。
「アンナの髪、ずっと前から思ってたけど……ふわふわしてて、柔らかいね。……髪の質ってさ、本人の気質に似るのかな」
「そ、それならあんたはサラ艶のどストレートな性格か?」
「……アンナにだけ、教えてあげる。……僕ね、髪を伸ばしていないと、本当は凄い跳っ毛なんだよ。……お父様そっくりのね……。嫌になるよ、ほんと」
ジュリオはゆっくりと笑い「秘密だよ」と囁いた。忌々しげに自分と父親の接点を語るジュリオの目は、暗く濁っている。
そんな闇を持つ瞳から、視線を逸らせない。
それはきっと、ジュリオに自分と同じ闇を見たからだろう。
ハヤブサ先生と言う親代わりの男に執着し続けるアンナは、ジュリオが親を語る時に見せる闇の差す目に惹かれてしまうのだ。
暗闇の中、キャンドルのオレンジの明かりに照らされるジュリオは、まるでこの世の者では無いような怪しさがある。
この男は魔性だと、アンナは思った。
ジュリオに他人を弄ぼうと言う悪意は無い。
ただコイツは、己の美しさに無邪気なだけなのだ。
だって、ローエンがこんな風に接してきても、何も思わないだろうから。
「……ねえアンナ、気づいてる?」
「な、なにを」
「アンナ、すごく照れてる」
キャンドルの火が揺らぐ。
蝋がぽたりとたれ、キャンドルの寿命は残りわずかだと気付いた時には、アンナはジュリオにかなり近づかれていた。
間近で見るジュリオは美しい。そんなジュリオに髪を触られながら顔を覗き込まれると、どうしても焦ってしまう。
早く火を何とかしないと、このまま暗くなったら、自分はきっと………。
きっと?
ハヤブサ先生の教えが蘇る。
アンナ、お前は一人で孤高に強い女であれ。
誰も必要とするな。一人で生き抜ける強い女であれ。
そうでないと、ハーフエルフの女は長い年月をどう生きると言うのか。
色濃くハーフエルフ差別が残る、この世界で。
「やっと照れた姿を見れた。……ずっとフードで隠しちゃうんだからさ」
ジュリオに言われ、アンナは咄嗟にフードで隠そうとしたが、今はただの寝間着である。
身を隠すものは、何も無い。
ハヤブサ先生は言った。
誰にも弱みを見せない、一人で生きられる強い女であれ……と。
「やっぱり可愛い。想像してた通りだ」
「……」
「可愛い」
自分は強い女だと思っていた。
だから、ジュリオを助けたのだ。
自分の庇護無しでは野垂れ死に確定の弱い男を、見捨てられるほどアンナは薄情では無かった。
ただの人助け。死にかけの野良犬を拾って看病した程度だ。
元気になったら元いた世界に返すだけ。
ただ、それだけだったのに。
「可愛いね」
どうして、この男に可愛いと言われるたび、背筋が蕩ける思いをするのだろう。
アンナは思った。
自分は強い女なのでは無い。
自分はただの、美しい男に惹かれる女でしかないと。
「……あんたさ、そう言うのあんまり無邪気に言うもんじゃねえよ……。あたしがあんたに惚れ込んで、イカれて刺殺したらどうすんだ」
「……それなら、地獄で待つよ。君が来るまで」
「死神みたいな事言うなよ」
アンナはそう軽口を叩くが、ジュリオは優しい笑顔でアンナをじっと見ている。
この男の優しい笑顔をもっと見ていたいと思う自分がいた。
そして、この男に触れられたいと思う自分がいた。
ああ、自分はどうしようもなく、女だ。
どうしよう、ハヤブサ先生に怒られてしまう。
こんな事を思うなんて、先生に知られたら怒られるに決まってる。
「ほら、生クリームが溶けた。手に垂れてるよ」
「あ、ああ……」
アンナは慌てて寝間着のシャツで手を拭こうとした。
しかし、ジュリオはその手を取って、ハンカチで拭いてくれた。
「ほんとは、舐めても良かったけど」
「……何言ってんだ」
声が震えてしまった。
ああ、ごめんなさいハヤブサ先生。
貴方の望む強い女になれずに、ごめんなさい。
アンナは、目の前の魔性の男に負けそうになりながら、内心で恩師に謝り続けた。
そして、ただ美しいだけのジュリオへ勝手に惹かれているだけなのに、魔性だとか言ってジュリオのせいにしてしまって、ごめんなさい。
アンナは何度も心の中で侘びながらも、目の前で優しく笑う美しい男から目が離せなかった。
ああ、キャンドルの火は、もうすぐ消えてしまうのだろう。
消えてしまえば、後はどうなる。
暗闇に飲まれたその後は。
アンナは、戸惑いを隠せない顔でジュリオを見た。
ジュリオはただ、無邪気に笑っているだけだ。
その無邪気な魔性さに触れてみたら、一体どうなるのだろう。
火が消えたなら、暗闇のせいにしてしまえるのだ。
本能が揺れ、理性が離れ、呼吸だけが荒くなる。
惚けたような顔でジュリオの頬に手を伸ばそうとした瞬間、ジュリオの背後にコイツによって崩壊して来た老若男女の亡霊が見えた気がした。
そんな亡霊共は皆、今の自分のようにこの美しい男へ身勝手な欲を抱いたのだろうか。
ジュリオの美しさに魅せられ、ジュリオの心など何も考えず、自分に都合の良い勘違いと欲をぶつけ、勝手に崩壊してきたのだろうか。
…………このままでは、自分もコイツらの仲間入りだろう。
そう思った瞬間、急に恐ろしくなった。
「アンナ、どうしたの?」
「いや……別に」
「……変なの」
あれだけジュリオをこのクソ界隈に染まらせないと決めていたのに、それが出来なくなった自分を想像したら、恐ろしくて仕方が無い。
もし、ジュリオがマリーリカと共にこのクソ界隈から抜け出すという、アンナ自身の望みである筈の未来を、嫌だと思う日が来てしまったら。
そうしたら、ジュリオにマリーリカではなく自分を選んでこの町にいてくれと言えるのか。
クソ界隈しか知らない下町の下品な女を。
八歳で親を殺そうとして、医療少年院に入った女を。
ジュリオの何百倍も長く生きるだろう、ハーフエルフの自分を。
どう転んでも、それは無理だろと自嘲した。
「………………危ねえなおい! ロウソクの火がテーブルに付いたら家事になるだろうが!! あんたはまたこの家を燃やす気か! アホ!」
「え? …………ああ!!! ご、ごめん!!!!」
アンナはわざと荒々しい怒鳴り声をあげ、食いかけのパンケーキをテーブルに置く。
その様子にジュリオもはっとした様子で、アンナが先程ガブ飲みしたお茶をキャンドルにかけて火を消した。
当然、テーブルはお茶まみれになり、無残な姿となる。
「あ〜っ! 雑巾持って来る! 今のうちにリモコンとか書類とか避難させといてくれ!」
「わかった! ほんっとごめんっ!」
アンナは飛び去る様にジュリオから離れ、急いで部屋の電気を付けた。
明かりがついた部屋は、相変わらずの小汚いリビングに戻っている。
そして、ジュリオも先程の魔性の男から一変、お茶まみれのテーブルに慌てふためくバカ王子に戻っていた。
危なかったと、アンナは思う。ジュリオの魔性に目が眩み、身勝手な欲をぶつけるところだった。
何が、一人で生きられる強さが無ければ駄目、だ。
何が、ジュリオはこの界隈から抜け出して欲しい、だ。
…………自分は強くなんか無い。そう思い知らされた。
強くなれと、ハヤブサ先生に言われてきたのに。
「うわ〜! どうしよ、クッションにもお茶染みてるよ……」
「とりあえず、表と裏ひっくり返して使うか」
「……そう言うわけには行かないでしょ。…………後で洗濯しとく」
ジュリオは慌ててクッションのカバーを外し、二階にある洗濯機へ向かった。
ジュリオがいなくなったリビングで、アンナはずるずるとその場にしゃがみ込み、真っ赤な顔でひたすらハヤブサ先生ごめんなさいと内心で謝り続けた。




