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208.燕の気など露も知らずに

ルテミス視点のお話です

呪いの病の第二波が突如として発生した。


ジュリオはアンナと共に聖ペルセフォネ王国中のヒーラー休憩所へ飛び回り、冥杖ペルセフォネを振るって病人を治癒して命を削っては、血の気の引いた顔でフラフラとしながらルテミスの元へと帰って来ていたのだ。



そして、そんなジュリオの次の派遣先を斡旋するのは、ルテミスの役目であった。


各地のヒーラー休憩所から次々と救援要請が来ており、ルテミスはその要請をまとめ、最短距離で各地を回れる道順を作り、ジュリオを送り出すのが仕事である。



キジカクが監督官になってから、ヒーラー達を一箇所にまとめて情報共有する場所が出来たため、ルテミスは書類製作に追われずに済むようになったのだが、今度は救援要請の対応に追われて忙しい日々を過ごしていたのだ。





「兄上。本当に大丈夫なのですか? 解呪が可能なヒーラーも各地へ飛び回っている事ですし、少し休まれては」


「大丈夫だよ。……解呪ってのは生命力がすごく削られるから、どんなに優秀なヒーラーでも必ず限界がある。……でも」





ジュリオはニッコリと笑った。


その目の下には隈があり、顔色は悪い。





「僕は最強のチート性能ヒーラーだよ? ……だから、大丈夫だよ」





ジュリオは笑って次のヒーラー休憩所へと向かってしまう。

その隣にはアンナが付き添っているため、問題は無いと思いたいが……。





◇◇◇





その日最後のヒーラー休憩所を回って来たジュリオは、王立ヒーラー休憩所へ帰って来た瞬間に崩れ落ちるように倒れて気絶してしまった。


幸い、ジュリオがフラついた瞬間にアンナが抱き支えたので怪我は無いが、それでもジュリオの身が危ない事はルテミスにもわかる。



すぐにジュリオを休ませる為に部屋へと運び、ベッドに眠らせた。



その数時間語である。



ジュリオは目覚めたのだが……。





「おいジュリオ!? 大丈夫か!?」





目を覚ましたジュリオへ、アンナが泣きそうか顔で呼びかける。



しかし。





「お母様……? どうしたの?」





焦点がボヤけた目をしたジュリオは『アンナをお母様と呼んだ』のだ。





「はあ? おい、何を」





アンナは不思議そうにジュリオを見ながら「あたしの股はまだ未貫通だぞ」と真面目に答えている。

そんな事真面目に言わんでもとルテミスは思うが、そんな場合では無い。



隣にいたネネカはすぐに



「ジュリオさん、ご自分が誰かわかりますか?」



と真剣な声で聞く。



するとジュリオは申し訳無さそうな顔で



「ごめんなさい先生。ルテミスみたいに問題が解けなくてごめんなさい、ごめんなさい……」



と謝り始めてしまったではないか。



どう言う事だ? 一体何が起きている?



ルテミスはネネカに「こりゃ一体……?」と聞くと、ネネカは「すぐにカトレアさんを呼びましょう」と冷静な声で答えて部屋から出てしまう。



明らかな異常事態に、ローエンも不安げな顔で



「おいジュリオ……大丈夫かお前……」



とジュリオの肩を触ろうとした、その時である。





「ッ! お父様ごめんなさい!! ごめんなさい……。バカで役立たずで……ごめんなさい…………」





ジュリオはローエンに酷く怯え、身を縮めて震えてしまう。





「ど、どうしたんだよ……俺の股間はまだ未使用だぞ」





ジュリオに『お父様』と呼ばれて拒絶されたローエンは今にも泣きそうな顔で「ジュリオにお父様って呼ばれるのも何かクるものがあるな」とわけのわからん事を言っている。


多分、ヤツもヤツで混乱しているのだろう。





「兄上……どうし」


「ルテミス!?」





ルテミスが異様な状態のジュリオに優しく声をかけた瞬間である。



ジュリオはあまりにも幼気な顔でルテミスへ縋るような表情をすると、そのまま強く抱き着いてきた。



いきなり密着されて心臓が止まるかと思った。





「あの、一体」


「ルテミス……っ!!」





ジュリオは『お父様と呼んだローエン』に怯えながら、ルテミスに抱き着いて泣き出してしまう。



そんな風に怯えられたローエンも、今にも泣きそうな顔になってしまった。





「何か……ママが良いって子供に泣かれた父ちゃんの気分だ……」


「大丈夫だローエン。お前は絶対にいい父親になる。子供も絶対にお前の事大好きになるよ。俺が保証する」





ルテミスは自分に抱き着いてきた幼子のように泣きじゃくるジュリオを震えた手で抱き返しながら、ローエンを励ます言葉をかける。


意外と傷付きやすいローエンを励ましつつ、ルテミスはアンナと『何だこりゃ』と目で会話しながら、ネネカがカトレアを連れてくるのを待ったのだった……。





◇◇◇





「う〜ん。……………銃のダメージが残る体で一週間冥杖ペルセフォネを使って、しかもカース・ブレイクって言う大技を連発して、しかも連日ほぼ徹夜状態だった…………か。アタシの見立てじゃ、生魔力の使い過ぎで意識障害が起きた感じだね」





カトレアが幼気な顔をするジュリオを見ながら、苦い顔でそう診断した。



そんなカトレアに、ネネカは



「幼児退行とせん妄ですよね、これ」



と質問する。



カトレアは「そうだね」と頷くが、ルテミスを始めとする三名は『?』である。





「ネネカ、その幼児退行とせん妄ってのは?」


「……幼児退行は、その名の通り精神が子供に戻ってしまう事です。……まあ、原因は様々ですが、今回の件で考えられるのは、ジュリオさんがダメージのある身体に鞭打って、連日徹夜で生魔力を連発し過ぎた事に対する、体の防衛反応と見て問題無いでしょう。……そして、せん妄ってのは、まあ自分がどこにいて相手が誰なのか認識出来なくなる症状です。……寝起きのボケた感じに近い……と言えば伝わりますかね?」


「つまり、今の兄上は子供に戻った上に、俺以外の相手が誰なのかわからなくなっている……って事か」


「そうです。……恐らく、ジュリオさんの様子を察するに、お母様のデメテルさんがご存命の頃に戻っていると考えられます。……そして、その時期にこの中で面識があるのはルテミスさん、貴方だけです」





ネネカの言葉通り、ジュリオはルテミスにしがみついて一切離れようとしない。


今にも泣きそうな顔をして、怯えた様子でルテミスに縋り付いてくるジュリオへ「大丈夫ですから」と語りかけた。



異様に鼓動する心臓には、気づかないフリをしながら。





「俺のせいです。……俺が……とんでもないスケジュールを組んだばかりに。いくら兄上から望まれたとは言え、やはり……」





ルテミスはこんな筈じゃなかったと苦い顔をする。


だがもしルテミスが止めても、ジュリオは勝手に病人を治しに行っただろう。


だからこそ、出来るだけ負担が無く、睡眠時間を確保できるスケジュールを組んだのだ。



しかし、現実はこうだ。



ジュリオは心身ともにぶっ壊れ、ルテミスはまた自分のせいで誰かが傷付いたと悩んでしまう。


可奈子もネネカも、自分の作戦の甘さのせいで酷い目に遭ったのだ。



自分のせいで。



ルテミスの顔が暗くなった、その時である。





「大丈夫?」





ジュリオは不安げな顔でルテミスの頬を撫でて来た。

その仕草はまるで涙を拭うようだ。



ああこれは、とルテミスは思い出す。

これは、ルテミスがまだ子供の頃、周りのクソガキから苛められて泣いている時に、ジュリオがこうして涙を拭ってくれた行為だと。



それを今、ジュリオはとろんとした目で行っているのだ。



見た目は十八歳のジュリオなのに、心は本当に幼子に戻ってしまったのだろう。



そう実感すると、自分が失敗した事の重大さに愕然としつつも、それ以上に恐ろしい感情が芽生えつつあった。



今のジュリオに自分は興





「早く兄上を元に戻さなければ! こんなのはいけません! 何か、治癒魔法は無いのですか!?」





ルテミスは浮かんだ恐ろしい感情を無理矢理打ち捨てると、すぐにカトレアへ声を荒げた。



その瞬間、ジュリオはビクリと震えて怯えたようにルテミスを見上げてきた。

その目には涙が滲んでおり、ルテミスは慌てて「大丈夫ですよ。怒ってませんから」と優しい声で言い聞かせた。





「ルテミスくん。……今のジュリオくんの前で、声を荒げるのは控えてもらっていいかな……? まだ幼児退行とせん妄で済んでるけど、もしジュリオくんが精神崩壊したら……最悪、戻れなくなるかもしれない」


「戻れなくなるって、そんな……。それじゃ、尚更早く兄上を治癒しないと」


「……残念だけと、生魔力の使い過ぎでこんな状態になった人を治せる治癒魔法は無いんだ……。……ああでも、一つ……解決法があるかも」





カトレアは顎に手を当てて考え込んだ表情を見せつつ、言葉を続けた。





「聖鳥フェニックス。……この国の国鳥であり、残り一羽で絶滅するリーチのかかった動物がいてね。……北ペルセフォネにある精霊の山って言う慟哭の森に次ぐヤバイ場所があるんだけど、そこにいる聖鳥フェニックスを使った料理なら、生魔力満点だしジュリオくんも元に戻るんじゃないかな」





その言葉に、アンナは



「わかった。じゃあその鳥ぶっ殺して鍋にしてジュリオに食わせりゃ良いんだな」



と猟師根性剥き出しの事を言う。





「そうだけど……でも、絶滅危惧種の国鳥だよ? それを守る為に動物保護団体がうようよいるし……。素直にジュリオくんの回復を待った方が」


「でも、ジュリオが回復するまで何日……いや何週間かかるんだ? そんな長い間、ジュリオに怯えて過ごさせるなんて出来ないよ。しかも、ジュリオが精神崩壊したらマジで終わりだぞ。……それに、そんな鳥ぶっ殺して持ち帰ってくりゃ、ネネカさんの新薬開発の手がかりになるんじゃねえのか」





アンナは黒い大弓と鯖裂きナイフを装備し、出撃準備万端となる。





「私の新薬はあくまで過剰防衛反応を抑制する成分と、気道の炎症を抑える成分とかですからねえ……。生魔力が満ちちゃうと、逆に体の防衛反応が酷くなっちゃうし……」





ネネカはアンナへ申し訳無さそうに言う。



しかし、アンナは止まらなかった。





「まあ、薬には使えなくてもさ。それでも……ジュリオが復活するのはいつになるか分からねえだろ。……数日か、数週間か、数ヶ月か……。その間、ジュリオはずっとルテミスさん以外の人に怯えて泣きながら過ごす事になるんだ。…………そんなの、あたしは嫌だよ。…………ジュリオが精神崩壊起こす前に、何としても……どんな事をしても……助けてやりたい。……治癒魔法も医学も分からねえ猟師のあたしには、もうこれしか無いんだ」





アンナこそ泣きそうな顔をして、ジュリオの頭を優しく撫でた。



ジュリオはアンナにすらビクリと怯えてルテミスへ抱き着いてしまう。



しかし、アンナは傷付く素振りを見せず、ジュリオへ優しく話しかけた。





「あたしはアンナ。あたしはあんたの母ちゃんじゃなくて、猟師だ。……今から超美味い鳥ぶっ殺して鍋にして食わせてやるから、良い子で待ってなよ」





アンナの言葉に、ジュリオは怯えた顔で



「鳥さんを……いじめるの?」



と返した。

ペルセフォネ人の子供に戻ったのなら、そらそう言うだろう。





「苛めねえよ。苦しませずに一発でぶっ殺すだけだ」


「うわぁあっ!! ルテミスっ!!!」





アンナの凶暴な発言に、ジュリオは怯えてルテミスにしがみついてしまう。



そんなジュリオを見て、ルテミスを初めとする一同は『こりゃヤバイ』と暗い顔をしたのだった。





◇◇◇





幼児退行とせん妄を起こしたジュリオは、ルテミス以外の相手に酷く怯えてしまう。

なので、ジュリオの精神崩壊を防ぐために、寝起きしているいつもの部屋にはルテミスとジュリオしかいなかった。



アンナは精霊の山へ国鳥をシバきに行き、ネネカは研究室にこもりきりで、ローエンは東フォーネにいる友人ライトにドローンの話等を聞きに行ったのだ。

それに、ローエンは以前トラックに興味を持っていたので、きっとその話も聞きに行くのだろう。


いつもの連中がバラバラになり若干不安になるが、カトレアも執刀医として王立ヒーラー休憩所の近くにある高級宿で寝泊まりしているので、いざとなったらカトレアを頼ればいい。





「カトレア殿は頼りになるな……。死刑にしなかった理由もわかる。彼女を殺すのは、この国の損害だ」





ルテミスはそんな事をぼそりと言って、自分が考案したヒーラー達が一箇所に集う部屋――ヒーラーステーションにいた。


そこで席に座って、各地のヒーラー休憩所からの要請を受けているのだが。





「ですから、兄上……いや、エンジュリオスは心身共に危険な状態なんです!これ以上働かせてしまうと、本当に壊れてしまいます!」


『そんなもん知らねぇよ!! ったく! 俺達の税金で餌食ってたバカ王子がやっと役に立つかと思ったのに』





ヒーラー休憩所の監督官は、焦りと怒りにまみれた声でそう怒鳴って通話を切ってしまった。


解呪が出来るヒーラーはそもそも数が少ない。

だからこそ、ルテミスは異世界人のチートヒーラーや聖女と呼ばれる人々の斡旋も行うとしたのだが。



異世界人などお断りだと拒絶してしまうヒーラー休憩所もチラホラといた。


勿論、病人の回復第一のヒーラー休憩所が殆どであるし、ジュリオが心身共にぶっ壊れた事には、不平不満を一切言わずジュリオの身を案じてくれる相手が殆である。


しかし、いるにはいるのだ。こういう人も。





「…………はあ」





ルテミスの眉間にシワが寄った。





◇◇◇





キジカクから「俺が後を引き継ぐから、君はジュリオくんの傍にいてあげて欲しい」と言われ、ルテミスは迷いながらも頷いた。



多分、自分の顔は相当参っていたのだろう。

ここでジュリオ以外の誰かがぶっ壊れたら終いである。


キジカクの判断は正しいと思った。



ルテミスはキジカクに礼を言い、少し離れた場所にあるコンビニへ出向き、そこでお茶やパン等を買って、王立ヒーラー休憩所に戻ったのだった。



そして。





「ルテミス! おかえり!!」





部屋に戻ると、アンナもローエンもネネカもいない客室にて、ポツンとソファーの上で膝を抱えていたジュリオが、ルテミスを見て嬉しそうに飛び付いてきた。


その仕草はまるで、本物の子供である。





◇◇◇





ジュリオはメロンパンを食いながら、テレビをボケーッと見ている。

テレビを見ながらではあるが、食事の所作はとても上品だ。

そりゃそうだろう。元々ジュリオは王子であり、そして子供時代はとても勤勉で穏やかだったのだから。





「ルテミス、目……悪いの?」


「え? いえ、その……これは、伊達眼鏡ですから。……裸眼でもちゃんと見えていますよ」


「そうなの?」





ジュリオは食いかけのメロンパンをテーブルに置くと、ルテミスの伊達眼鏡にすっと手を伸ばして来た。





「!?」


「ぁあ……ルテミスの顔だぁ……」





ジュリオはルテミスから伊達眼鏡を引き抜いた後、ニコニコと笑って裸眼のルテミスの涼し気な顔を覗き込んでいる。


首元に手を回してきて、幼気な表情でニコニコと笑いながら身を擦り寄せてくるこの姿は、完全に幼い日のジュリオそのものだ。





「……兄上。……あの」


「ん?」





ルテミスは戸惑う。

ここで冷たく離せと言えば、今の不安定なジュリオは自分にすら怯えるかもしれないと。


アンナにすら怯えるジュリオなのに、安心できる相手がいないとなると、本気で精神崩壊を起こす可能性があった。



そして、何より。




 

「何でも……ありません」





ルテミスは『ジュリオが精神崩壊を起こさないため』と自分に言い聞かせ、震える手で抱き返した。


その体はあまりにも華奢で、『想像以上』に柔らかい。

滑らかな金髪が頬に当たると、流石にこれ以上はマズイと思ってジュリオを優しく引き剥がした。





「苦しいですよ。兄上」




長い間続けて来た完璧な作り笑いを浮かべ、ルテミスはジュリオを怯えさせないよう頭を撫でた。





◇◇◇





ジュリオが心身共にぶっ壊れてから一日が経った。



ネネカやカトレアにジュリオの症状を伝えた後、自分は仕事に行こうとしたが。





「ルテミス……行っちゃうの?」





ベッドの上で膝を抱えたジュリオが、ルテミスの服の裾を遠慮がちに掴んで悲しそうな顔をする。


そりゃそうだろう。ジュリオはまたこの部屋で一人寂しく過ごさねばならないのだから。



正直、キジカクからは『君はジュリオくんの傍にいてくれ。仕事は他が引き継ぐ』と休暇命令が出ている。


しかし、この部屋で今のジュリオと長く一緒にはいられない。



それは、ジュリオの精神崩壊のきっかけが、自分になるかもしれないからだ。


 



「すみません兄上。……大丈夫。必ず帰って来ますから」


「ほんと? ほんとに?」





自分に縋って不安そうにするジュリオへ、ルテミスは完璧な作り笑いで対応した。


その完璧な作り笑いの裏は、滅茶苦茶になっていたけれど。





◇◇◇





ジュリオはチート性能ヒーラーとして、代償無しに自分の生命力を生魔力に変換し、他者へと分け与える事で治癒魔法を発動している。


しかし、今のジュリオはルテミスを庇って銃で撃たれたダメージが残るため、そのチート性能すら発揮出来ずにいたのだ。



こうなったのは、結局自分のせいじゃないかとルテミスは項垂れる。



資料室にて書類整理をしながら、どうして俺はやる事なす事裏目に出るんだと自罰した。


こんな時、ネネカが傍にいたら楽になれるのに、今のネネカに自分の世話をしている余裕は無い。


甘やかしてくれるアンナも、話を聞いてくれるローエンもいない。

だからこそ、自分一人で解決せねばならないのだ。



ルテミスは深呼吸をして、精神を落ち着けた。





◇◇◇





『何故資料室にいるんだ! 君の仕事はジュリオくんの保護だろう?』とキジカクに怒られてしまい、ルテミスはジュリオの待つ部屋へと戻った。


そんな時である。





「ひっ! ぁ、あ」





ルテミスが急に戻ると、ジュリオはローエンのベッドの下に慌てて何かを隠したのだ。





「どうされました? 兄上?」


「ちが、あのごめんなさい、違う、違うから」





ジュリオは怯えた顔で震えている。





「お母様が駄目って言った物は読んでないから! だから」


「ああ。ローエンのエロ漫画ですか」





ルテミスからしたら、あんなもんは童貞の玩具位にしか思えない。

それにジュリオだって、漫画以上のとんでもない破廉恥な事ばかりをして来たヤバイ奴である。


何を今更そんな漫画でと思うが、今のジュリオは予想して七歳か八歳程度だ。


そんな状態からしたら、ローエンのエロ漫画など刺激が強すぎるだろう。





「ごめんなさい、違う、お母様……ごめんなさい」


「兄上?」





ジュリオの様子がおかしい。



ルテミスは怯えて縮こまるジュリオの傍に寄り添い、「どうしました?」と優しく声をかけた。





「ごめんなさいお母様。ごめんなさい、お母様の王子様は女の人をそんな目で見ないのに、僕は、ごめんなさい、違う、僕は王子様だから」


「兄上、大丈夫ですか?」


「ごめんなさい、お母様。汚くてごめんなさい」





汚いって何だよと思う。

男ならそりゃエロ漫画くらい読むだろと。

勿論女だって。



だが、この怯え方は異様だと思った。


まるで、母の意にそぐわない事をして、見捨てられるのが怖いと怯える子供である。





「兄上、大丈夫です。……大丈夫」


「! ルテミスっ!」 





ジュリオはすぐにルテミスに抱き付き、泣き出してしまう。


この異様な行動に、ルテミスは若干の恐怖と、そして。





「ルテミス、どうしたの?」





その恐怖に上回る欲情を抱いていたのだった。





◇◇◇





ごめんなさいと泣きじゃくるジュリオをなだめ、ルテミスは取り敢えず適当にテレビを付けた。


そして、ジュリオを落ち着かせる為にペットボトルの水を与えたのだが。





「うわっ」





ジュリオはペットボトルを落として水をぶちまけてしまい、また怯えて「ごめんなさい」と悲しい顔をしてしまう。


今のジュリオの格好は、寝間着の白いシャツのままだ。


だから。





「寒い……」





濡れた白いシャツが、肌に張り付いてしまっていた。





「……タオル、お持ちしますね」





ルテミスは完璧な作り笑いを浮かべてジュリオにタオルを渡し、なるべくその姿を見ないようにして、溢れた水を雑巾で拭き始めた。


どうして自分をこんな目に遭わせるんだと、自身の運命を呪いながら。





「ルテミス、ごめんなさい……」


「いえ、大丈夫ですよ」




ルテミスは涼しい顔でそう答えた。

作り笑いに慣れていて助かったと思う。


溢れた水を拭き終わり、早くジュリオの着替えを持って来ないと本気で俺がヤバイと焦るその時だ。





「!? 兄上!?」





ジュリオが突然抱き着いて来た。


濡れたシャツの感触が伝わり、いよいよ持って息が付けなくなる。





「ごめんなさいルテミス……。お母様にも、僕とルテミスの何が違うのかしらって、いつも言われてるのに……」


「……そんな」





お母様に、僕とルテミスの何が違うのかしらって言われてるのに。



この一言で、ルテミスはジュリオが背負わされた呪縛と、ジュリオの母デメテルがどれだけ息子を追い詰めていたのかが分かった。


デメテルが死んで全てを諦めたジュリオが、転がり落ちるようにして放蕩の道を突き進んだ理由を実感する。





「兄上は兄上です! 俺には出来ない事が貴方には沢山出来るじゃないですか!!」





ルテミスはジュリオを引き剥がし、怯えた若草色の瞳をじっと見て声を荒げた。





「嘘をついて排除して騙す事しか出来ない俺と違って! 貴方は! ……貴方は、どんな状況でも、人との縁を作れるじゃないですか……」





狩猟祭の日、ジュリオが結んで来た縁を見ながら、ルテミスは思ったのだ。


ああ、これは俺には出来ない、と。





「貴方は……すごいヤツだから……だからっ」




ルテミスは幼子の様な顔で静かに泣くジュリオの頬を撫でて、涙を拭った。





「……ルテミスこそ、王子様みたい」





ジュリオは濡れた髪や濡れた白いシャツの姿で、ニコニコと笑っている。






「俺は、そんなんじゃありませんよ。……多分、世界で一番王子様から遠い存在です」





病人の為に命を削って心身共にぶっ壊し、幼児退行とせん妄を引き起こし精神崩壊寸前の兄に、本気で欲情して一歩間違えばそのまま襲い掛かりそうなのを必死に堪えている自分は、兄の母が言う『王子様』などでは決して無いだろう。



今の自分は、言うなれば、ただの男である。





◇◇◇





その翌日も、ジュリオが心身共にぶっ壊れたと言うのに、それでもジュリオを出せと怒るヒーラー休憩所は後を絶たなかった。


異世界人のヒーラーや聖女を受け入れず、ペルセフォネ人を出せと喚く監督官の対応をしていると、いよいよもってルテミスも限界になって来る。



ジュリオの相手をする時間になり、キジカクへ仕事の引き継ぎをすると、ルテミスは疲れた顔で部屋へと戻った。


もう、夕方である。





「ルテミスっ!? 遅かったね……おかえり……っ!」





部屋へ戻ると、テレビを見ていたジュリオが顔をぱあっと明るくして、ルテミスに飛び付いてくる。





「疲れた? お仕事頑張ったねぇ。偉い偉い」





ジュリオはニコニコとしながらルテミスの頭を撫でてくる。


その様子は、子供時代のジュリオそのものだ。





「ありがとうございます。……テレビは何を、見られていたのですか?」


「えっとね。異世界のアニメでね。……幸福な王子って言うやつだよ」


「ああ、それですか」





ルテミスもその話は確か聞いた事がある。



異世界の童話で、城の外の世界を知らず贅沢な生活をしていた王子が死んだあと、金や宝石だらけの豪華な銅像になり町の象徴として飾られるが、そこで王子が見たものは貧しさと理不尽に苦しむ人々が住む世界であった。

王子は苦しむ人々を見て嘆き悲しみ、通りかかった越冬中のツバメに自身の体についた金や宝石を貧しい人に分け与えてくれと頼む話だ。



ジュリオはテレビの前に戻ると、ソファーの上で膝を抱えて『幸福な王子』をニコニコと見ている。



 


「ルテミスは、このお話知ってるの?」


「え、ええ……」





ルテミスは幸福な王子の結末を思い出し、ジュリオから目を逸らした。





◇◇◇





「僕ね、お母様と約束したんだ」





ジュリオは幸福な王子のアニメを見ながら、ニコニコとルテミスに話しかけた。





「どんな約束ですか?」


「えっとねえ」





テレビでは、いよいよ幸福な王子像は貧しい人へ与える宝石が無くなってしまい、自らの体を削って金を差し出し始めた。


金が剥がれてゆく幸福な王子像は、どんどんみすぼらしくなってゆく。





「お母様の王子様になるって」





ルテミスの隣でニコニコと笑うジュリオは、無邪気にルテミスの肩へ身を預けてきた。

その肩には、ルテミスを庇って銃で撃たれたジュリオから、弾を取り出す際に舌を噛まないよう噛ませた歯型が残っている。


兄の歯型が、肩に残っているのだ。





「お父様からね、お母様を守る王子様なんだよ」


「え」


「王子様は女の人をいやらしい目で見なくて、汚い言葉も使わなくて、いつもいつも怖い者からお姫様を守ってくれて、強くて優しくて格好いい、完璧な王子様なんだ」





ルテミスの顔が凍りつく。



父親から母親を守ると子供が言った現実に、言葉を無くしてしまった。



それに兄の母が言う『王子様』と言うのが、現実の男には絶対に実現不可能である事も、ルテミスは良く分かっている。

……そして、ジュリオの母が息子を『王子様』にしてしまった事で、ジュリオの男性としての本能が母親によって全否定されてしまった事も。





「お母様に、もう泣いて欲しくないんだ」


「それじゃあ、貴方の涙は誰が拭うのですか」


「さあ? わかんない」





ジュリオはニコニコと笑う。



アニメの幸福な王子は、とうとう金が無くなりみすぼらしい像となってしまった。





「ジュリオ」


「ん?」





ルテミスはジュリオへ手を伸ばす。

華奢な背へ回した腕に、抱き殺してしまいそうな程の力をぎゅっと込めた。




「もう、王子様なんてやめちまえ。……そんなもん、最初から存在しねェんだから」


「何で? ルテミス……?」


「あんたはただ、デメテルさんに依存されて甘えられてるだけだ。……子供の無償の愛に、未熟な親がつけ込んでるだけだよ」


「お母様を悪く言わないで……っ! 離せ! 離してっ! 苦しいよっ」





抱き着いてくるルテミスから離れようともがくジュリオは、残念ながら非力過ぎてどうにもならない。



離して、やめて、と泣きじゃくるジュリオへ、可哀想と思うと同時に…………。





今にも壊してしまいそうな程、たまらなく欲情してしまった。

 




「ルテミスっ! 離してっ! やめて……っ! 苦しいって」





アニメでは、いよいよツバメは冬の寒さで死んでしまい、幸福な王子の像は金も宝石も無いからみすぼらしいと壊されてしまうそうだ。


現実なんて、こんなもんである。





「いっそ全部捨てて逃げようか。あんたば精神崩壊させて、ヒーラーとして使い物にならんくして……。全部見捨てて逃げたかなあ……」





母の訛り混じりの言葉を言いながら、ルテミスは思った。


心身共にぶっ壊れたジュリオを出せと喚くヒーラー休憩所の監督官共は、異世界人のヒーラーを受け付けない差別クソ野郎である。


そもそも、自分とネネカのせいとは言え、この国の住民自体ジュリオをバカ王子として蔑み笑い者にして来たではないか。


そりゃ、全員が全員じゃないだろうが、それでも、ジュリオが国民の玩具にされて来たのには変わりない。



そして何より、ルテミスだってこの国に無茶苦茶にされてきたのだ。


本能を全否定され、石や泥をぶつけられ、国中の晒者にされたのだ。



ペルセフォネ人も異世界人も知らねェよ、と思ってしまう。





「国が滅びるなんて知らんわ。滅びろやこやんか国。なあジュリオ……あんたば壊して、攫って、全部捨てて俺と逃げようか」


「ルテミス、何を……」





アニメでは幸福な王子像が強欲な議員達にぶち壊された後、誰が次の銅像になるか揉めている。



このアニメと俺の国は一緒じゃねえかと、ルテミスは鼻で笑った。



そして、そんな破滅的な事を考える自分こそ、最大のクズ野郎だとも理解していた。





なあ、デメテルさんよ。見てるか?

これが、王子様の正体だよ。 


あんたの息子に欲情して勃起して、責任全部放り投げて逃げようとしてんだ。





ルテミスは死んだ筈のデメテルに向かって、そんな事を言った。





「ペルセフォネ人も異世界人も知らん。もうどうでも良よか」


「じゃあ、アンナは?」


「え」





ルテミスにソファーへ押し倒されたジュリオは、確かにそう言った。





「アンナはどうなるの?」


「それは」





ジュリオは幼児退行とせん妄状態になり、ルテミス以外の人全てを忘れている状態だ。



それなのに。 


ああ、それなのに。





アンナの事だけは、記憶の片隅でしっかりと覚えていたのだろう。





「…………ルテミス? どうしたの? 泣かないで」


「え? いや、何でもないです……何でも」





ジュリオが不安そうな顔でルテミスの涙を拭ってくる。


それでも、ルテミスの涙は止まらない。



ジュリオはどんなになっても、アンナの存在を忘れないのだ。



その事実に、心臓が二つに裂けてしまいそう。



そんな時である。





「待たせたな!! 国鳥のなんちゃらとか言う鳥ぶっ殺して来たぞ!!! 今日は婆さんも呼んで鶏鍋にするからな!!! …………ってうお!!! ルテミスさん!? いきなり抱き着いてきてどうした!!??」





相変わらず返り血まみれで、誇らしげな顔で国鳥の死体を手に持つアンナへ、ルテミスは勢い良く抱き着いた。





「良かった……アンナさん……良かった……」





アンナが帰って来てくれたお蔭で、自分はクズはクズでも幼児退行とせん妄状態の非力な相手に襲い掛からずに済んだのだ。



ルテミスはアンナがまるで天使のように見えてしまい、返り血の匂いがする小柄な巨乳の天使に抱き着いて泣き続けた。





◇◇◇





「え!? 僕そんな事になってたの!? しかもローエンの事をお父様って!? 嘘ぉ! ゴメン! キモかったでしょ〜」





あの後、アンナがぶっ殺して来た聖鳥フェニックスの鶏肉の少量を使い、鶏雑炊にしてジュリオに食わせてみた。


すると、ジュリオは食べた瞬間眠ってしまい、しばらくして目を覚ますと、いつも通りのジュリオに戻っていたわけである。





「いや、いいよ。寧ろお前にお父様って呼ばれるの興奮したし」


「それならずっと呼んであげようか?」


「俺が三十になるまで童貞だったら、俺の事そう呼びながら筆下ろししてくれや」





ジュリオとローエンは、いつもの様にしょーもない会話をしてヘラヘラ笑い合っている。



皆で食べる鶏鍋は美味しく、ルテミスのささくれた感情も解れていった。





「あの、大丈夫でした? ルテミスさん」


「……死ぬほどシコった数日間だった……」





ルテミスとネネカも、小声でそんなひっでぇ会話をする。



日常が戻ってきた。そんな気がした。





「え!? うちの国鳥絶滅しちゃったの!? 何で!?」





ジュリオがテレビのニュースを見て驚愕している。 


テレビでは、新しい国鳥にまた別の鳥が指定されたと流れており、国のシンボルなんて意外とそんなもんだよなとルテミスは思った。





「……まあ、生き物の絶滅はある種避けられない運命ってやつさ」





アンナは涼しい顔で鶏肉を食いながら、「ルテミスさんも食え食え。ジュリオ係してたんだから疲れたろ」と言ってくれた。



その一方で、ジュリオはフォークで突き刺した鶏肉のかけらを見ながら、一言呟く。





「ところでさあ、この鳥肉……なんの鳥なの?」





◇◇◇





鶏鍋を食い終わった夜である。



ルテミスを除く一同は眠りこけてしまい、カトレアも宿泊している高級宿へと帰ってしまった。



月明かりが明るく、明かりを消した筈の部屋は青白い。





「……はあ」





ルテミスはとぼとぼと部屋を歩き、ジュリオとアンナが眠るベッドの傍へに寄った。



そのまま床に座り、呑気に眠るジュリオの綺麗な寝顔をボケーッと眺めている。





「あんたが兄貴で苦労するよ、ほんと」





ルテミスは小声で呟くと、眠るジュリオの長い金髪を一房手ですくう。



艷やかな金髪は、ルテミスの手を滑ってするするとベッドへ落ちてしまった。


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