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 藤村先輩と出会ったのは、小学三年生の時だった。

 僕に何か運動をさせねば、という母の希望で、部員不足にあえいでいた隣の小学校の野球チームに行くことになった。僕としては友達が多いチームのほうがよかったのだが、元プロ野球選手の息子がいる、という理由だけで、僕の希望はあっけなく無碍にされてしまったのだ。

 だから、僕の野球人生の始まりは不満だらけだった。唯一救いだったのは、大親友の深川が僕を心配して、同じチームに来てくれたことだろう。そういう意味で、最初の不満はすぐに薄れ、そして人生で初めての衝撃を前に、あっという間に霧消してしまったのであった。

 元プロ野球選手の息子。

 父や母から何度聞かされても、それは僕と何が違うのだろうと思っていた。僕と同じ人間で、僕と同じように野球を始めたばかりではないか。野球が上手いのはお父さんで、彼のことは分からないだろう、と思っていた。

 真新しいユニフォームに身を包み、隣の小学校までの徒歩十五分の道すがらでも、ずっとそんなことを考えていた。

 しかし、人生は不条理で、蛙の子が蛙であるように、元プロ野球選手の息子も、やっぱり怪物だった。

「よく来たな!」

 グラウンドに着くなり、息を弾ませながら駆け寄ってきた藤村先輩は、僕よりも頭一つ背の高い少年だった。

 日焼けをした顔には汗が浮かび、グラウンドで行なわれている馬飛びの列が遠くに行っては戻ってくる様子を、余裕そうに見ている。

 すぐ近くで母が監督に頭を下げていた。

 それを僕は他人事のように見ていた。藤村先輩は、すぐにでもグラウンドに戻りたそうにしていたものの、柔らかい笑みを浮かべて、僕の肩を叩いた。

「ユニフォーム、新品か?」

「うん」

「そっか。実は、もう一人来る予定なんだよ」

 深川は、昔から時間にルーズな奴だった。それに輪をかけて酷いのは僕の方だが、母がいると何故だか予定通りに準備が進む。

 結局、約束の時間から一時間遅れて深川が来た。

 それまでの間、僕は自慢げに友達のことを語った。あの頃はまだ、自分自身が一番の自慢だったし、それに匹敵する友達のことも、同じくらい素晴らしい奴だと、上から目線で思っていたから。

 でも、その時でさえ、藤村先輩は別のところを見ていた。はっきりと聞いたわけではないが、野球を始めた頃から、道半ばで散った父親の遺志を継ぎたいと思っていたらしい。

 深川の到着と共に、僕達も練習に加わった。子供の遊びだと高をくくっていたら、地獄を見たのはまた別の話だ。

「俺な……」

 キャッチボールの準備が始まる頃になると、藤村先輩の目はキラキラと輝いた。疲労困憊で、頭に酸素が回っていなくてもそれははっきりしていた。たまらなく好きなのだろう。夢に近づく感覚が。

あの頃の僕も努力が好きだった。昨日の自分に負けることは考えてもいなかった。誰かに負けることはあっても、高い壁を乗り越えようともがいていた。

 練習の合間の休みの時、タオルで汗をぬぐいながら、僕はふと視線を下に落とし、先輩の履いていたスパイクを指さした。

「きれいですね」

「だろ? 兄ちゃんからもらったんだ。それからずっと、毎日手入れを欠かしていないんだよ」

 たぶん、この時、初めて自分の人生に疑問を持ったのだと思う。

 果たして僕に、そのようなものがあったか?

 毎日磨いても飽き足らないものが。

 僕はそれまで、人生は満ち足りていると思い込んでいた。しかし、世界を知ると、実は僕も喉の渇きを訴えている側なのだ。僕はありとあらゆる物を持っている代わりに、何も持っていない。一種の矛盾の中で生きている。僕自身が手にしている物は、グラブであれ、真新しい帽子であれ、スパイクであれ、僕の物であり、僕の物ではない。

 頭の中が、ぐちゃぐちゃになっていくようだった。

 それと同時に体から熱のようなものが抜けていく。

 それまで感じていた緊張感も、熱意も、僕の冷えた心は反応さえしなくなった。

 僕はここにいてもよいのだろうか。

 傍から見れば取るに足らない違いが、僕にとっては果てしない。間には起伏の激しい山があった。その峻厳さに、天を貫く高さに、そしてえもいわれぬ神々しさに、僕は激しく動揺し、前へ行く気力をなくした。

 そうして立ち止まった僕の後ろから、大勢の後輩達が追い抜かしていった。

 戦って、戦って、戦い続けて、敗れたのなら言い訳もたつけど、不完全燃焼という言葉さえおこがましい惨めさを、僕は味わう羽目になった。

 僕の体はくすぶっていた。本当ならば炎を上げて燃え続け、やがて灰になって風と共に去っていくのだろうけど、あの時から熱が足らずに、ぶすぶすと嫌な臭いをさせたまま、しかし火が消えることもなく、苦しみのうめき声をあげていた。

 簡単に一言で言い表せば、実力不足、だ。

 そして僕は中学三年の夏を境に野球をやめた。でも、本当はいつからそんな状態だったのか、自分でも定かではない。

 深川いわく、ちょうどよいタイミングだったそうだ。

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