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「あのね、恋人のふりをしてほしいの」
約束の日、おしゃれなカフェの一角で、二つのオムライスを挟んで彼女は言った。
外はあいにくの雨模様で、オムライスは刻一刻と冷めていた。まだ半分くらいしか食べてはいなかったが、彼女の一言で急に食欲がなくなった。というより、血の気が引いていった。
「まさか、罰ゲームじゃないだろうね?」
「どういうこと?」
「僕の中学じゃ、いけてない奴を餌食にするために、そういう卑劣な手を取る奴がいたんだ。カメラとかないよね?」
油断も隙もあったもんじゃない。最近の娘はそうやって人を陥れるんだからな。
でも、僕の予想とは裏腹に、名島はスマホの電源を消し、机の上に置いた。
「……これでいい?」
「まあ。君の話を真剣に聞けそうだよ」
すると名島はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「あなたって本当に単純ね」
僕は首をかしげた。
「だって、私がもう一台持っていたらどうするの?」
その時は仕方がないさ。僕は悪意の前に屈するよ。そんなことを言ったと思う。実際は、しどろもどろで、あやふやで、視線さえも定まらないほど動揺していたのだけれど。
でも、名島はますます熱心に身を乗り出そうとして、咳払いをした。
「ま、まあ、オムライス、食べましょ?」
「うん……ここって、焼きバナナが有名らしいよ」
「食べる?」
「君は? 僕は胸とおなかがいっぱい」
「私もいいわ。オムライスだけで充分」
きっと周りからは恋人だとは思われなかっただろう。オムライスを粛々と食べている間に会話らしい会話は一切なく、僕は周囲の喧騒にちらちらと視線をやり、名島は店のメニューを見たり、時々オムライスの量に悪態をついたりしたくらいだった。
そうして食後の飲み物が運ばれてくると、名島は湯気の立つコーヒーを一口すすって、再び話を切り出した。
「恋人のふりをしてほしいっていうのはね、何も冗談じゃないの。今、とある人に詰め寄られてて……」
「嫌いなの?」
名島はまたコーヒーをすすり、その表面を見つめていた。ほのかな湯気で、彼女の表情が隠されていた。
「そうね、嫌い。自分勝手だし、声がうるさいから」
「で、それを諦めさせようっていうんだね?」
「話が早くて助かるわ。どう?」
「僕にメリットはある?」
「何でも言うことは聞く。別に、部屋に連れ込んでも文句は言わないわ」
君が言わなくても、誰かに殴られてしまいそうだ。
どうにも苦い味が口の中に残る。
少し温くなったカフェオレに砂糖を入れようとした。でも、スティックがうまく破れず、半分くらいこぼれてしまった。慌てて砂糖を集めようとした僕の手に、名島の手が触れた。彼女の手も同じくらい冷たい。顔をあげると、少女の怜悧な表情が、少しだけ影を帯びていた。
「難しい話じゃないわよ」
静かな口調だが、決然としている。僕には無縁だった自信や誇り、品位を感じる。僕とは生まれながらにして地位が違う。人間ランキングで言えば、最初から上位に食い込む、いわゆる持てる者だ。
僕は背もたれに体を預けた。
「難しいよ。だって、僕、女の人と上手く喋れないよ」
「私で練習したらいいわ」
「でも……」
「大丈夫。私は目立つほうじゃないし――」
「それは嘘だ。僕だって君の噂は知っているぞ」
と言っても、全て深川の受け売りだけど。
中でも深川が最も複雑そうな顔をしたのは、先日の中間テストで、名島に負けたという事実だった。……僕の二倍以上の得点を叩き出しているのだから、そこまで悲しむ必要はないのに、と僕などは思うのだけれど。
そして僕の気を重くしたのは、そうした事実ではなく、深川が最後の最後にぼそっと言ったことだった。
我が校の誉れと名高い藤村先輩に、中学時代から言い寄られているというのだ。
知らぬうちに手が震えていた。あの人は裏切れそうもないと、僕は思っている。
「――ねえ、聞いてる? 高橋君?」
「え?」
いつの間にか、カフェオレに移っている自分の顔に集中し過ぎていたらしい。顔をあげると、名島が鋭い猛禽のような目をさらにすがめていた。
「答えを、聞かせてほしいのだけれど」
「……今じゃないと、だめかい?」
「うん。今、決めないなら、次の人に行くわ」
「次?」
「あなた、本当に私が、これを公園に落としたと思うの?」
名島の視線が一瞬、携帯電話に向いた。僕もつられて下を見、再び名島を見た。
「次に会う人は、どんな人なの?」
「大人の人よ。三十歳って言っていた。今日は仕事のあとに来てくれるって」
名島は唇をちろりと舐めた。安っぽい挑発だ。そんなことをして、何になるというのか。きっぱりと先輩に断ってしまえばいいじゃないか、というのは僕の独りよがりだろうか。
「……どうしても、一人じゃどうしようもないのかい?」
「だから、あなたや、他の男の人を利用しようとしている」
「で、僕がこの誘いを断れば、次に行くんだ。その人にも同じことを言うのかい? つまりその、付き合ってくれれば何でもするって」
名島はにっこりと笑った。
まったくもって世の中は理不尽だ。律動的な音がすると思ったら、僕はいつの間にか、指で机を叩いていたらしい。それを止め、拳を作るが、それでも僕の意思に反して、いらだたしげに動き続けた。
「私が、コーヒーを飲み終わるまでに決めてね」
「あと、どれくらい?」
「一口」
名島はカップを大きく煽った。中身はすっかりなくなっていた。
それでも僕は黙っていた。ただじっと、すっかり冷めきったカフェオレを見つめていた。
この場をやり過ごせればいい。名島がどうなろうと、僕の人生には関わりないじゃないか。
そう思っているはずなのに、どうしてか顔があげられない。たぶん名島は、じっと僕を見ているのだろう。肌を通して彼女の視線が、ひしひしと伝わっていた。
だが、やがて小さな溜息を漏らして、名島が立ち上がった。
かすかに柑橘系の香りがした。
僕は自然と手を伸ばしていた。
名島の腕を掴んだのは、たぶん偶然だろう。これにロマンスが混ざると運命というらしい。
恐る恐る彼女の顔を見た。少しだけ、驚いた顔をしていた。
「あ、えと、な、名前、なんて言ったっけ?」
こうして僕は、雪と契約を結んだのだった。