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僕と雪が出会ったのは、雨の日のことだった。
毎朝飽きもせずに見ているニュース番組の気象予報士が、梅雨入り宣言をした翌日である。
その日は休日で、晴れていたら遠出をして映画を見に行こうと深川と約束していたのだが、大粒の雨が間断なく窓を叩いていた。深川からも、今日はおとなしく本でも読んで過ごすよ、と連絡があり、僕は小学生の頃から使っている学習机の椅子に腰を下ろし、曇り空で灰色に照らされた部屋の天井を見上げていた。
中学三年の夏で何となく野球をやめてから、ぼんやりしている間に時は駆け過ぎ、古ぼけた中学校の校舎から追い出された。
僕はいつも何かを失ってきた。小学生の頃は信頼、中学生の頃は希望、人生を通して時間だ。
ただ、それ自体は問題ではない。皆、多かれ少なかれ道を歩いているうちに何かを落とすものだから。最大の問題は、失った分だけ何かを得たわけではない、ということだった。
僕は、いつの間にか人と争うことをやめていた。世の中には様々な人がいて、大抵の場合、特定の物事に対して適性があるかないかで振り分けられる。不思議なことに、長く生きている人はそういうことが分かっているにもかかわらず、若い人には伝えようとしないのだ。いつだって綺麗事ばかりを言って、抱えている希望が黒ずみ、腐臭を放つ頃になって、いつまでそんなものを抱えているんだと笑う。
僕が抱えていた僅かな希望は、梅雨の湿気に当てられて、甘ったるい臭いを放ち始めていたと思う。全部捨てたと思っていても、案外どこかに残っていて、ふとした時に鼻腔をくすぐり、不快な気持ちにさせるのだ。
僕は適正という奴を持ち合わせていないだろう。とりわけ、人と争い、何かを勝ち取ることに対する適正は全くない。
人生で負け続きだったからかもしれないし、案外近くに勝ちっぱなしの奴がいたからかもしれない。色んな事情があったのだろうけど、少なくとも誰かから何かを奪えなかった。
そんなくだらないことを考えているうちに、外の雨音が弱くなった。風で引きちぎられそうになっていた街路樹の枝葉が落ち着き、遠くが少しだけ明るくなり始めていた。もしかしたら、午後からなら映画に行けるかもな、と僕は思った。
そんな時だった。部屋の扉がノックされて、母が顔を出した。昼は餃子にしようと思っているけど、ラー油を切らしてしまった、と言うのだ。その一大事に、我が家で一番暇そうにしていた僕が駆り出されることになったのだ。
外に出ると風は弱まっていたが、地面を打つように雨が降り注いでいる。ビニール傘が奏でる雨音も心なしか大きく、いまにも破れてしまいそうだ。
雨の日は好きだった。人もまばらで、道の真ん中を歩いていても、視線を集めることがない。僕はたぶん、人の注目を引くことにも適性がないのだろう。晴れの日は道の隅っこを歩くことが決まりだった。そして、誰かが歩いてくると緊張したし、それが自分の真正面からとなれば、必ず道を譲った。あまり人に迷惑をかけないようにすることも、僕の人生の決め事だった。
少し離れたドラッグストアでラー油を買った。どこのスーパーよりも安いし、浮いた分のお金でちょっとしたお菓子を買うこともできる。高校生なんだからバイトでもすればいいじゃないかという人もいるけれど、もし、ほかに候補者がいて一騎討ちになってしまったらと考えると気が気でない。ちなみに、それを深川に言ったら、まだ自分が勝てると思っているんだね、と言われた。皮肉でも嫌味でもなく、僕がまだ自尊心を持ち合わせていることに驚きを禁じ得なかったらしい。
お気に入りのマヨコーンパンをかじりながら、近道になる近所の小さな公園に入った。昔は殺人ジャングル(という名の球形のジャングルジム)や、サーフィン遊びに使える箱型のブランコがあったけれど、危険な遊具は撤去されてしまい、しょぼいブランコと、しけたオブジェくらいしか残っていない。僕が若い頃はどれも不人気の遊具だった。ブランコは小学生未満の子が遊ぶもので、オブジェは遊び場争いに敗れた者が、公園で遊ぶために仕方なく使う物だった。
雨が上がっていた。少なくとも傘を差さなくても気にはならない。濡れた牛形のオブジェに触れると、今の僕にはこれがお似合いだと思った。手で表面をぬぐい、腰を下ろす。足元がばねになっていて、ぎしぎしと音を立てながら後ろに倒れていく。
この遊具には何の希望もない。今となっては近所の小学生も、この公園に遊びに来ることはないし、赤ん坊や老人もこの遊具は使わない。安全だからという理由で置き去りにされたこいつにとって、今の立場は満足なのだろうか。危険だといわれたとしても、こんな寂れた公園から抜け出したかったのではないか。
牛の顔に触れても、本物と違っていななくことはない。かつて夢の宝石箱のようだった場所は、もう死んでしまったのだ。
と、近くのベンチに見覚えのない携帯電話があった。
手に取ると、それは先月出たばかりの最新機種だった。随分と雨に濡れているが、防塵、防水が売りの機体は、持ち上げるとすぐに画面が光った。
ロックがかかっていない。画面に触れると、この携帯電話の持ち主の情報が映し出される。
持ち主の名前は、名島雪、というようだ。僕と同じ高校に通っているらしい。そういえば、同じ学年に名島という名の美人がいる、という噂を聞いたことがある。と、すると、この携帯は彼女の物なのだろうか。
何故かは知らないが、ロックすらかかっていない携帯に、その名島の情報が豊富に揃っていた。住所や生年月日を始めとして、淡々とした文章で書かれた生い立ちや日記まで。極めつけは、隠し撮りでもしたみたいな角度からの写真だった。それは木陰から狙いすましたものや、下の方から扇情的なカットで撮影されたものまであった。日記の文章を見た時の印象と、そうした写真の数々を見た時の印象とが、かなり乖離していた。
ただ、ご丁寧にも家の写真まであったものだから、雨が上がったこともあって、僕は親切にも落とし物を届けることにした。
いったん家に帰り、ラー油を母に渡してから、もう一度外に出る。
名島家は公園から三十分ほど歩いたところにあった。僕の住んでいる家を長屋だとすると、その一帯は大名屋敷だ。僕の家の十倍近くも敷地が広い。昔から、いくつか並んでいる瀟洒なお屋敷の一つに、名島という表札がかけられていた。
正門は見上げるほど高い。綺麗に磨き上げられた鉄格子に、僕の顔が歪んで映り込んでいる。
呼び鈴を鳴らすと、すぐにいらえがあった。近くの公園で携帯を拾った、と言うと、美しい顔立ちの少女が息を弾ませて、庭園を抜けて駆け込んできた。それが名島だった。
「あなたは?」
いきなり不躾な女だな、とは思ったが、僕は自己紹介をした。
名島は少しがっかりした様子だった。もしかしたら、もっと素敵な男が来るとでも思っていたのかもしれない。しかし現実は非情だ。やってきたのは僕だった。
「まあ、いいわ。ねえ、上がって。お茶でもしない?」
「それは、今日のお礼ってこと?」
僕が尋ねると、名島は怪訝そうな顔をした。
「それ以外にある?」
「いや、今日はちょっと用事があるんだ」
「じゃあ、いつならお礼をさせてもらえるの?」
なぜ、お礼がそこまで大事なのか。もしかしたら、家の事情でもあるのだろうか。しかし、あえて口には出さず、日時を指定した。
名島は素直に頷き、その日は予定を空けておく、と晴れやかな笑顔で言った。