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「ずっと、それだけが引っかかってたんだ。でも、分かったよ……あの時、僕の情報を先輩に流していたな?」
「言いがかりはよせよ」
「僕が勝つと思ったからだ」
深川はまた一口、シャンパンを飲んだ。でも、よほど口に合わなかったのだろう。飲みかけを僕のグラスに入れた。弾けた泡が水面を打ち立たせる。
「どうして?」
「あの時は僕にも理由は分からなかったよ。ちょっとした違和感だった。でも、今なら……察しが付く。あの頃の先輩、決定的に内角に弱かった」
深川は自分勝手にも次のワインを注いでもらい、それをちびちびと舐めていた。
「……お前、先輩が甲子園に出た時のこと、覚えているか?」
「見てないよ」
「先輩、一発ぶつけられたんだよ。顔には当たらなかったけど、顔をかばおうとして手首に当たった」
「……その後遺症が?」
「今もな。俺が投げていいなら、絶対に打たれないと思うぜ?」
先輩も、やはりただの人なのだろう。十代の少し野球が上手いだけの少年は、プロ野球選手の速球に対応しきれなかった。恐怖心を今も胸の内でくすぶらせたまま、何とかここまでやってきたのだ。
なみなみと注がれたシャンパンを、僕は一飲みにした。
「でも、君はやらなかった。僕にやらせた方がダメージが大きいから」
「俺はそんなに酷い人間か?」
僕は頷いた。
「あの時の君は、野球じゃ先輩に、勉強じゃ雪には敵わなかった。だろう? しかも、君は野球もやめてしまったから、一生、自分が先輩を超えることはできなくなってしまった。そこで僕を使ったんだ。君とは中学三年間、毎年、試合をしてきたからね。僕が最後の最後に新しい変化球を覚えてきたことも、知っていた」
「それだけで、俺を疑うのかい?」
「こう見えても長く社会人をやってるんだ。僕のしでかしたことで、誰が得をするかってことくらいは考えられるようになったよ」
あの日以来、僕はまた負けず嫌いになったと思う。諦めも悪くなったし、泥まみれでももがけるようになった。昔の僕を知っている人なら、誰に聞いても僕の転機は高校一年生の夏だった、と答えるだろうし、僕自身もそう思っている。
指に引っ掛かった、気持ち分しか曲がらなかったスライダーが先輩の横を通り過ぎた時、僕の中で何かが弾けた。それは埃のかぶった体を駆け巡り、そのまま今も僕の中でくすぶり続けている。
「あの一件で得をしたのは、僕と君だ。君はライバルを二人蹴落とした。僕はまた歩き出した。踏み台にされた二人は、たぶん、あの時思い描いていた、最良の人生は歩んでいないだろう」
会場のざわめきが一段と大きくなったような気がした。
深川はじっと僕を見ていたが、やがて肩をすくめると、通りかかったウエイターにシャンパンのお代わりを告げた。
「安酒でも、飲みたくなる日があるな」
「付き合ってもいいんだろうね?」
「……お前は、むきになると、右打者のインハイに投げる癖があるから」
「今も直ってないね」
深川は小さく頷き、新しくシャンパンが継がれたグラスを僕に向けてきた。また、僕達は乾杯した。
「それでいいんだ」
「本当に?」
「お前はそれでいいんだ。俺が保証する」
正直、シャンパンの味はよく分からない。飲んでも飲んでも口の中が渇いて、喉がひりひりとしていたから。
「あれ以来、正攻法で勝てなかった相手はいたのかい?」
深川は、小さく首を振った。
「……社会に出たら、個人戦から団体戦に代わって、俺の負けは目立たなくなっていって、今では誰も気に留めない。俺もチームが勝てばそれでいいと思ってる」
「僕達、友達になれそうだな」
「ああ――」
すでに彼は顔を赤く染めていて、苦々しいしわが寄っていた口元が、僅かに緩んだ。
「――本当に嫌いになりそうだ」




