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「先輩も、名島の家に行ったことがあるんでしょ?」
指の中でボールを転がす。先ほどまでの余裕ぶった顔は崩れ、先輩は顔を上気させながら、僕を睨みつけていた。
何を言われたのかは知らない。だが、芳しくない印象だったことは否定できないだろう。そしてその印象を、先輩が覆せていないことも分かっている。
次の一球は内角に抜けた。先輩はバットを引き付けて体をねじり、背中が僕の方に向いていた。
険しい顔で先輩が振り返る。怒ることはないだろう。地区大会の一回戦でもお目にかかれない、へなちょこな直球なんだから。
だが、次の一球ではスイングが崩れ、内野ゴロ。守備のいないグランドに、点々と転がるボールを見ながら、先輩は歯を食いしばっていた。
荒っぽくホームベースを叩く手に力が入っている。
前を向いた時、先輩ははっと顔を歪め、眩しそうな顔をした。
僕も振り返った。
広い空の下。我が校で最も高い場所にある屋上に、誰かがいる。金網に手をつきながら。豆粒ほどの大きさだ。でも、彼女が精一杯の声で言った言葉だけは、僕達にはっきりと届いていた。
「がんばれーっ! 負けるなーっ!」
その瞬間、先輩の肩から力が抜け、表情が和らいでいく。せこい挑発で上った血も、今や全身を駆け巡り、隆々とした筋肉の下を流れている。
心臓が跳ね、ずしんと重たい痺れが指先に走った。
ああ、この人は、僕が考えている以上に、ずっと愛していたのだ。
彼らは彼らなりの愛を持っていて、何の覚悟もなく、それを僕は奪ったのだ。
僕は奪う側にいたのだ。
奪われまいと守った行動が、期せずして奪ってしまった。これでは僕のモットーは、未来永劫、達成不可能ではないか。
人は争い、奪い、奪われて生きていく。僕が何かを得れば誰かが失う。今日、僕が勝ったら、先輩は何を失うだろう。失うものが僅かであってほしい。僕が得るものは少ないのだから。
「先輩。僕の中学時代の決め球、知ってます?」
「スライダー」
その答えを聞いて、思わず笑みがこぼれてしまった。
「これから投げますよ。ぜひ打って、僕の口から真実を語らせてくださいよ」
安い挑発だが、しないよりはましだ。僕達の実力差はそんな程度でしか縮まらないのだ。
僕は振りかぶった。乾いた砂の感触も、息を止めた時に広がる無音も、右の肩が大きく伸びる感触も、全ては僕のものだ。誰のものでもない。
僕は、僕のまま生きるしかない。奪うとか、奪われるとか、争いたくないとか、そういう全てを受け入れないといけない。僕は劣った人間だけれど、完全に負けたわけじゃない。
勝つこともあるのだ。
渾身のスライダーを空振りした先輩は、その体勢のまま、僕を見ていた。
僕も先輩を見、そういえば僕が負けた時の条件しか考えていなかったな、ということを思い出した。
唖然としている先輩に、僕はにっこりと笑いかけた。
「先輩の罰ゲーム、罰走にしましょう」
「何周走ったらいい?」
「いえ、あの屋上まで」
先輩は歯を食いしばり、しかし猛然と駆けだした。
僕はグラブをナイロンの袋に戻して、キャッチャーを務めてくれた先輩に礼を言ってからグラウンドを去った。
昇降口のところに深川がいた。彼は、やったな、と一言言って、僕の肩を叩いた。




