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学校へ向かう。
いつもと同じ時間。ポケットに手を突っ込んで歩いていると、後ろから深川がやってきた。
そういえばこいつにも負けているんだよな、とは思ったが、正直に言えば今、こいつと争っているような元気は全くなかった。
「酷い顔だな」
「元からだよ」
「それよりも酷いって言ってんのさ。で、何があったんだ?」
「どうしてそう思うんだよ」
「そんな顔を見たのは、野球をやめた時と、名島と付き合い始めた時くらいだからな」
僕はそっぽを向いた。
こいつはどうして、人より一歩先へ行っているのだろう。どうして振り返って僕の方を見ているんだろう。腹立たしい。
それでも、僕は深川に全部を話した。
雪との付き合いが嘘だったと知って、深川は少しだけ驚いた顔をした。
「一か月前なら、ああ、そうだろうね、って思っただろう。でも、今は信じがたいな」
「じゃ、僕達の演技は上手くいってたってことさ」
「そうだな。たいした役者だよ」
それは誉め言葉だろうか。ただ、深川にしては珍しく口をへの字に曲げているから、負けた気分にはなっているのかもしれない。
「それ、先輩に話すのか?」
「そうしようかなって、今は思ってるよ」
「名島には言ったのか?」
僕が肩をすくめると、深川は一瞬だけ眉をひそめ、けれどもすぐに笑った。
「でも、まずは先輩に話をつけないとな」
「……僕は、随分と酷いことをしてきたんだな」
「ああ、とても残酷だ。人によっては最低な行ないだと、罵るだろうな」
思わず溜息が漏れてしまった。
僕は確かに争わず、奪わずを貫こうとしてきたけれども、そんなことは無理な話で、今の僕の立場は誰からも許されることではないのだ。
「僕はね、恋人が出来たら世界が変わるんじゃないかって思っていた」
「人生、そう甘くはないよな」
僕は地面に映った影を見ながら、思わず唇をかんだ。
「この前さ、彼女に君を上手く使えって言われたんだよ。駄目すぎるところを見せたら、助けてくれるだろうって」
「彼女らしいね。で、今は?」
「馬鹿言えよ。まだ、僕は酷いところを見せていないはずだぜ」
「ははは、本気でそう思っているのは自分だけだ。今回の一件では酷い有様だ。信条はなんだった? 果たしてそれを、守り切れたのか?」
そして一息置いて、深川はなおも言葉を継いだ。
「馬鹿な奴だ。どんな理由があったにせよ、周りに流されるのなら、流されっぱなしでいればよかったじゃないか。いつもの冷静さがあれば、それくらい、すぐに分かったはずだろう?」
僕はむっとして、今まで心の中で渦巻いていたものを、一気に吐き出した。
「僕はいつだって冷静だった」
「でも、恋人ができれば世界が変わると思ったんだろう?」
「そうさ。もしかしたら、世界は僕に隠し事をしているんじゃないかって思ったんだ。でも違った。僕は無知だった。あいつは、僕に現実を突きつけたんだ。甘い顔をして、僕に近づいて」
昨日だって、今朝だって、僕は真面目な顔で、真面目なことを言った。誰もが背中を押してくれた。立ち止まっていた僕に、少しの推進力を与えるように。でも、僕の足は錆びついて、うまく動かないのだ。
淀んでしまった心は、僕が無意識のうちにため込んだ鬱憤を、音として世界に知らしめてしまった。
「あいつはいつもそうだ。こんな気持ちになるくらいなら、正直者のままでいたかった。僕はただ争わないことだけを考えていたかった。こんちくしょう。全部、あいつのせいだ。もう二度と、何も見たくない。聞きたくない。話したくない。感じたくない。腐りかけの花の蕾でいたいよ」
本来であればそれは、味がなくなるまで噛んだガムのようであり、地面に吐き出され、踏まれて、黒ずんで、アスファルトの模様に代わってしまうはずのものだった。
でも、僕の目の前にいた男は、そんなどぶみたいな腐った臭いを放つ言葉を、しっかりと受け止め、そして打ち返してきた。
「俺は、そうは思わないな」
「どうして?」
「お前はもう弱くなった。後戻りはできないぞ。今後ずっと、彼女といた日々のことを、心の片隅に置いておかなけりゃあならないんだからな」
「おかげで、僕の人生はめちゃくちゃだ。心に針が刺されたようになる。それはもう取れなくて、僕はおじさんになっても、おじいさんになっても、その恋にうなされるようになるんだ。あいつは何も考えずに、僕の心だけを乱して行きやがった」
「馬鹿を言うなよ。彼女はまだ行っちゃいないだろ?」
「彼女には行く場所がある。そこへ僕は行けないんだ!」
「幸太郎、一度でも足を止めたら、走り出すのは怖いだろうよ。そして、お前が俺達に追いつくには、肺が爆発するほど、頑張らなきゃいけない」
「じゃあ……」
「でも、走り切らなきゃな。酷いことをした分、けじめをつけろ」
僕は天を見上げた。太陽は天の恵みだというが、僕にはそうは見えない。ただジリジリと、僕の心を苛むようであった。
しかし、不思議と深川の声はストンと収まり、頭の中で除夜の鐘がなっているみたいに、繰り返し声が響いていた。
その日、僕は学校を休んだ。家に帰り、兄から貰ったグラブの手入れをした。




