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 家に戻るとすぐにスーツを脱ぎ捨てた。ベッドに投げ捨てたが、気になってハンガーにかけ、クローゼットの中に入れた。

 家の中は不自然なほど静かだ。僕の一挙手一投足に耳をそばだて、今の状態を探っているのだろう。

 荒っぽくクローゼットの戸を閉め、椅子に腰かける。ぎしぎしときしむ音は昔と変わらない。兄のおさがりなのだ。十年以上、僕達を支えてくれている。

 真っ暗な部屋の中で、窓は月光を孕んで淡く輝いていた。その額縁の向こうでは、うっすらとだが星々が煌めいていた。

 子供の頃は夢中で星座を覚えたものだが、今は銀砂の集まりのようだ。僕はいつから、何も見ない人間になってしまったのだろう。

 背後から薄い光が差し込んだ。この窺うような静かな足音は姉だろう。きしきしと音を立てながら近づいてきて、僕の後ろで止まると、温かな手を肩に置いた。

「私さ、優しくしろって言ったよね?」

 決して声を荒げているわけではない。けれども、迫力のある声だ。姉の手に力がこもった。僕はその手に頭を乗せたまま、静かに頷いた。

「でも、間違ってた。百倍っていうべきだったわ」

 それは、僕に優しさが足りなかったのだろうか。

 いや、僕の心には、最初から優しさなんてものはなかったのだ。

 僕は誰かの顔色を窺っていただけだった。機嫌を損ねないように細心の注意を払って接し、怒らせなくてよかったと胸をなでおろす。そこに優しさはあるのだろうか。

 ゼロに何をかけてもゼロにしかならない。十倍でも、百倍でも、千倍でも、結末は変わらなかったのだ。

 僕は姉の手を握った。いつも、この手にいじめられ、そして褒められてきた。

 心臓がバクバクと脈打っているのは、人生で初めて、本当の意味で叱られているからだろう。肌を通して、姉の純粋な怒りが流れ込んでくるようだった。

 僕はその手を撫でた。

 温かくて、柔らかい。雪と同じ、優しい手だった。

 その手が少しだけ、濡れてしまった。

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