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 翌朝、僕は久々に早くから学校に来ていた。

 普段は遅刻すれすれなのだけれど、今日はいつもより三十分も早く目が覚めたし、何だかご飯がすんなり喉を通った。それでそのまま予定を三十分前倒しにして、殊勝にも学校にやってきたのである。

 いつもより早い時間だと、部活をやっている生徒達は朝練だし、そうでない生徒達はまだ登校していない。

 窓から朝日が差し込み、廊下が白く輝いていた。僕は思わず目を細め、その瞬間、少し離れたところに、いつの間にか大きな影があることに気づいた。

 その正体が徐々にはっきりし始めて、喉を鳴らした。朝の心地よい気分は吹っ飛んでしまった。今や喉はキュッと縮こまり、唾を飲み込むことさえ難儀であった。

「藤村先輩」

 二学年上の先輩だった。僕にとっては憧れの人であり、今はどうしても会いたくない人でもあった。

「幸太郎。久しぶりだな」

 僕のことを下の名前で呼ぶ、数少ない人間だ。昔から僕よりも背が高かったけれど、高校生くらいになると、いつか背丈くらいは越せるかもしれない、といった淡い期待は完全に打ち砕かれた。僕の身長は百七十五センチ。対して藤村先輩の身長は百八十七センチ。体重に至っては、おそらく僕より三割ほど重いだろう。相手は、今秋のドラフト指名確実の、夢を持った高校球児なのだから。

「お久しぶりです」

 言いながら、僕は思わず俯いた。

 今も昔も、この人は眩しすぎる。太陽のような存在だ。恵みを与えることもあれば、試練を与えることもある。今の僕にとっては後者の意味合いが強い。

 挨拶を交わしたあと、しばしの沈黙があり、藤村先輩が溜息をついた。

「……お前、変わったな。なんていうか、昔はもっと、可愛げがあった」

「もう、可愛げって年齢じゃないでしょう?」

「今はそうだな……小憎らしい」

 全く、僕の周りには口が悪い人しかいないようだ。そのうち、僕まで口が悪くなるのではないかと、少し不安になってきた。

 見え透いた挑発だ。だから、僕は廊下の表面に移った窓枠の影を凝視しながら、遠くから聞こえてくる生徒達の歓声よりも小さな声で尋ねた。

「どういう意味です?」

「昔ほど、真っすぐじゃなくなった」

 藤村先輩の言葉は、ぐさりと、心臓に切っ先を突き立てるようだった。

 相変わらずこの人は真っすぐすぎる。

 それは、嬉しい半面、恐ろしくもあった。この人はまだ挫折を知らないのだ。何となく察せたのは、先輩の言葉の端々に、優しさとは無縁の刺々しさがあったからだろう。

「誰だって、生きていれば歪んでくるものでしょう?」

「それは気の持ちようだぞ、幸太郎」

「なるほど。じゃあ、僕は心が弱かったのか」

 藤村先輩が眉間にしわを寄せた。こめかみに青筋が立っている。僕は、窓の銀サッシに目を細めながら、あいまいな笑みを浮かべた。

「先輩、あんまり、僕に関わらないほうがいいですよ」

それが難しいことは分かっている。しかし、もしかしたら僕に呆れて、望み通りの結果になるかもしれない。その僅かな可能性に賭けたくなるほど、僕は今、この人の熱気にやられてしまっている。

「それができたら、どれほどいいか……!」

「え?」

「名島も、お前みたいな奴のどこがいいんだ?」

 僕は引きつった笑みを浮かべていただろう。

 ただ、救いだったのは、少し離れた階段の方から、聞きなれた下手糞な口笛が聞こえてきたことだった。振り返れば救世主がポケットに手を突っ込んだまま、のんびりと歩いてきた。

「や、先輩」

 その男は端正な顔立ちをふにゃりと崩して、人懐っこそうに笑いながら手を振った。

 挨拶を返す藤村先輩の声から、完全に怒りが消えたのが分かった。

「深川……お前は相変わらずだな」

「ええ? そうですか? 俺も結構変わりましたけどねえ。背丈とか」

「……そうやって幸太郎をかばいすぎる」

「おやまあ。友達ですから。いじめられていたら助けたくなるのが人情なんですよ」

 深川は昔よりも長くなった髪の毛を、さらりと横に流した。

「ところで先輩。野球の方、調子はどうなんです?」

「いつもと変わらん。俺は俺にできることを、精一杯やるだけだ」

「じゃ、その精一杯の範囲は広がりましたか?」

 朗らかに微笑む深川は、いつだって如才ない。彼も野球から、藤村先輩から、逃げだした側の人間であるはずなのに、僕達の立場は全く違う。

 この場にはたった三人しかいないというのに、談笑の輪の中に僕はいなかった。僕はただ、ちらほらと登校し始めた同級生達に、この惨めな姿を見られないかどうか、それだけが心配だった。

「――お前のせいで、どうにも気が変わった」

「幸太郎だって精一杯の範囲でやっているんですから。勘弁してやってくださいよ」

 僕だって人と話すのは苦ではない。でも、二人の前にいると、胸の内で外に出たがっている言葉が滞留し、心を痛めつけていく。それが刺々しい言葉であるほど、僕の呼吸は浅くなり、胸が苦しくなるのだ。

 言葉の代わりに息を吐き、振り返った藤村先輩に、最初と同じ笑顔とも呼べない、ぎこちない表情を向けた。この人と対峙した短い間に、僕の人間ランキングが、また一つ、二つ、下がっていく。

 藤村先輩は最上位だ。誰よりも優れている。彼より上にいる者は、少なくともこの近辺にはいない。圧倒的な存在だ。その事実が、僕のような人間に恐怖を抱かせるのである。

 例え本人に、そんな気がなかったとしても。

 藤村先輩がいなくなると、辺りには弛緩した空気が流れ始めた。これこそ本来、朝方にあるべき空気なのだろう。

 深川は窓を開け、流れてくる風を涼しげに受けた。

「なあ、幸太郎?」

 窓べりに体を預けながら、深川は高校の正門をじっと見ていた。先ほどよりもずっと多くの生徒が校門を抜け、真っすぐな道を眠たそうな顔で歩いている。

「何だい?」

「お前は、藤村先輩を裏切るなよ」

 口ごもっている間に生徒達が登校し始め、朝の静けさはあっという間に打ち破られる。開けた窓から風が抜ける中、深川はいつもの柔和な笑みに切り替えて、僕の肩を叩いた。

「何でもない。俺達は友達だよなって、言いたかっただけ」

 その後ろ姿を見送る。

 いつから、あいつのほうが大きくなったんだろう。人に注目されるようになったんだろう。勝てなくなったんだろう。

 登校してきた連中が、無遠慮に僕を見ながら、歩き去っていく。

 深川は友達だ。それだけは揺るぎない。でも、時々、彼の友情を重く感じてしまう自分がいるのだ。

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