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車が止まった。我が家をウサギ小屋と称した雪の感覚の根源がある。山の手の一等地、しかも隣近所の豪邸よりも数倍は大きな家へと車は吸い込まれていく。一体、人間はどれだけ大きな家に住むと満足するのだろうか。少なくとも僕は、この家の犬小屋くらいの大きさがあれば問題なさそうだ。
隣で頬杖を突く雪は、どこか冷めていた。
屋敷の大きさとは裏腹に、使用人さんの数は多くなく、運転手を務めてくれた若い男が、そのまま玄関を開け、応接室らしき部屋へと案内してくれる。
ふかふかの絨毯にガラス張りのローテーブル。食器棚には古めかしい食器が並び、壁には家族写真がいっぱいに飾られていた。
雪はそれに背を向け、窓の外を見ている。月明りで庭先の林の輪郭が黒々と浮かび上がっている。
僕は家族写真を見ていた。若い頃の雪の父親の写真がいくつか、それから雪にそっくりな女性の写真がいくつか。家族三人で映っているものもあるが、今の雪からは想像もできないほど爛漫な笑みを浮かべている。
だが、注意深く見ていると、それも雪が七、八歳くらいまでの写真しかないことに気が付いた。赤ん坊の頃から、それくらいの頃までは順序良く並んでいるのに、それ以後はぷっつりと途絶えている。
お茶とお茶菓子が用意されていたが、これから食事だと考えると食べる気にはならず、ただ冷めるのを待つばかりだった。ふと、写真立ての表面に映った己を顧みて、ネクタイを締めなおした。
「ねえ、雪? 変な格好になってないよね?」
もう何度か同じ質問をしているが、その度に雪は僕を見て、大丈夫よ、と優しく笑った。
もう手持無沙汰だ。
たいした教養もない若者をこんな場所に押し込んだところで、出来ることはたかが知れている。何回、時計を見ても、時間が早く進むことはない。むしろ遅く感じるくらいだ。
正直に言うともう限界だった。いつまで待たされるのだろう。窓の外を見ている雪も、しきりに腕時計を見ていた。
静まり返った部屋に、緩やかな足音が響いたのは、僕達が応接室に入ってから三十分もあとのことだった。
勢いよく扉が開いた。振り返ると、この豪邸にふさわしい、中年の男性が立っていた。
「君が高橋君だね?」
不躾な、それは質問だった。それでも嫌な気分でなかったのは、彼の笑顔が雪とよく似ていたからだ。親子なのだ。血を分けた人々なのだ。それが分かっただけで、僕の今日の役目は終わったも同然だった。
僕が笑うと、雪の父親も笑った。隣で雪だけが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていて、早くこの場から出たくてたまらない、という感じだった。
「――ははは、話で聞いているよりも、随分と大人びているな。ええ?」
「それはよかった。あの、ただ、大人びているのは雰囲気だけで、実は、さっきから腹ペコなんです」
「そうか? お菓子でも食べていればよかったんじゃないか?」
「これから食事なのよ? 食べられるわけないでしょ」
そっぽを向き、雪は冷たく突き放すように言った。雪の父親はそれもそうだな、と泣きそうな顔で頷き、僕達を食堂へと案内してくれた。
その日の食事は満足いくものだった。僕の人生でも一、二を争うほど旨い物を食ったと思える日だった。食後のチョコレートが、涼しげな青ガラスの器に盛られて出てきたとき、雪はナプキンで口を拭きながら、ゆっくりと立ち上がった。
僕に目配せをしてくる。用を足しに行くというよりは、もう父親に愛想笑いをするのが限界、という感じだ。まあ、出来てなかったけど、愛想笑い。あれが愛想笑いに分類されるなら、なまはげも般若も愛想笑いに分類する必要がある。
その背中を見送り、雪の父親は白ワインを飲み干し、食後のコーヒーを持ってくるよう命じた。
「あの子、学校ではどうだい?」
僕はアイスティー。雪の父親はコーヒーをすすりつつ、向き合っていた。
「彼女のおかげで、随分と楽しくやらせていただいています」
「……君、あんまりやる気ないって話だったけど、思ったのと違うな」
「そうですか?」
「以前、連れて歩いていた奴よりよっぽどいい。君の方が人をよく見ているよ」
また一口コーヒーをすすり、雪の父親は温めたミルクを注いだ。
「苦い。君はコーヒー、飲める?」
「砂糖とミルクを無制限に入れていいのなら」
「はっはっは、気が合いそうだな」
「はあ」
雪の父親は白くなった水面を凝視し、一思いに飲み込んだ。次の一杯がアイスティーであったことを思えば、一杯目は無理をしていたのかもしれない。
「私の妻がな、コーヒー好きだった」
「じゃあ、その影響で?」
「一杯はな。ブラックで飲むこともできるんだが、後味がなあ」
まあ、そういう考えもあるだろう。僕は口に含んだ瞬間の焦げ付いた感じが駄目だ。泥水なんて言うけどあれは比喩で、なんというか、よく効きそうもない薬を飲まされている気分になってしまう。
「雪が小さい頃に亡くなってな、後妻は取れなかった。誰も雪に合わなかったんだな」
僕は、応接室の写真を思い出していた。途中で途切れた写真のあとに、いったい、何枚の写真が存在したのだろうか。
「でも、一生懸命になって、探したんですよね?」
「娘には母親が必要だと思ったんだ。でも、そう思うのが早すぎてしまった。意固地になって、お互いの関係がこじれたあとに、ようやく考え方の違いを知った。中学生の時だったな。制服姿、私は五、六回しか見せてもらえなかった」
「何だか、すみません」
「いいんだ、いいんだ。私の責任だからな。でも、友達とかいるのかな、とか不安になっていたところに、前の男が現れて、君が出てきた。……恋人、らしいね?」
来た、と一瞬だけ身構えた。それまでの何でもない話は吹っ飛び、この本題の大一番をどう返答すべきか、僕の頭は音を立てて回転し始めた。
「ええ」
「扱いづらいだろう。身軽で、自分勝手で、思い込みが激しい。おまけに人にもあまり興味を示さない」
父親の、雪に対する評価は少々辛辣だ。
「いえ、彼女はいつだって、僕のことを見てくれていますよ」
それは偽りなき本心だった。
それでも、僕の中には迷いもあった。こんがらがった赤い糸が誰から誰に向かっていたはずで、それが目の前でどうなってしまっているのか、この人に話すべきなのだろうか。
しかし、逡巡する間もなく、雪の父親が言った。
「何でもいいんだよ、実は。あの男でも。ただな、雪が――」
雪の父親は一息ついた。
「――俺より先に死ななければな」
からん、と氷が揺れる音がした。コップが随分と汗をかいている。僕はガムシロップを少し足し、ストローで混ぜて飲んだ。先ほどよりも、少しだけ苦く感じられた。
「親父も、おふくろも、妻も、何なら妻の両親まで看取ってきたんだ。これで娘まで看取る羽目になったら――」
雪の父親も一口アイスティーを含み、喉を鳴らした。
「――天涯孤独になる」
その一言は、彼の朗らかな表情とは裏腹に、僕の心に深く沈み込んだ。
雪の父親は笑っていた。つまらない話をしたね、と彼は言ったが、僕は首を横に振った。
雪が戻ってくると、彼は嘘みたいな笑い話をして、娘の横顔をうかがい、気まずそうにグラスを何度も傾けた。チョコレートが二回も運ばれてきて、雪の眉間に深いしわが寄り始めた頃、僕は雪の父親に目配せをして、この夜を終わらせることにした。




