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そして夜が来た。
居間から見る月は満ち、祭りの音はますます大きくなっていた。僕は一人きりだった。
雪と一緒にお昼を食べ、戻ってくると、家族は全員祭りに行ったあとだった。それをいいことに居間で胡坐をかき、空を見上げているうちに辺りが暗くなってきた。電気をつけるのも億劫だと思っていると、あっという間に月が天上へと昇ってしまった、というわけである。
そろそろ雪が来る時間なのだが、尻に根が張ったようだ。どうにも立ち上がる気力がない。兄のおさがりのTシャツも、くるぶしまでしかない靴下も脱ぐ気にはならない。顔を下げることも、雪の横顔を思い出すことも。全てが億劫だ。
もう、限界なのかもしれない。
僕はようやく力を振り絞って、自分の右手を見た。指先が随分と柔らかくなってしまっていた。一番良い頃に戻すまで、何年かかるだろうか。そして、傲慢な僕は、それまで耐えていられるだろうか。
チャイムが鳴った。玄関の扉を開け、雪の顔を見ると、それまでの面倒くささは消え去ってしまった。彼女は怪訝な顔をしていた。
「なんだって、電気がついてないの?」
「ちょっと止められててね」
「あなたは本当に……スイッチ一つじゃない」
今日は送迎付きらしく、質素な我が家の前には純白の外国車が停まっていて、その傍らで若い男性が佇立している。雪はそんな彼には見向きもせず、勇ましい冒険家のような足取りで我が家に踏み込み、僕は彼に一礼して扉を閉めた。
溜息をつき、後ろ手で閉めた玄関の扉から離れて顔を上げると、大荷物を抱えた雪が、目の前でじっと僕を見下ろしていた。
「何?」
「……酷い顔をしているわ」
「元からだよ」
「それより酷いから言っているんじゃない。気分悪い?」
「間違いなくね。君もいつもより口が悪いんじゃない?」
「今日は凶暴なのよ、間違いなくね。ほら、Tシャツを替えてきなさい。靴下もよ」
雪は本当にてきぱきとしている。彼女の手でスーツを着せられ、ネクタイまで締められ、可愛らしい赤色の櫛で髪の毛を梳かされた暁には、僕の見た目は随分と変わってしまった。
姿見に映してみると、まるで僕ではないようだ。そのさらに後ろでは雪も満足げに頷き、何故か写真を撮っている。
「あなたのお姉さんに、一生の宝にするからって言われたのよ」
「嘘だ。奴は親戚中にばらまいて笑いものにする気だぞ」
「そんな人じゃないでしょ? この前だって、相談に乗ってくれたもの」
だが、どうしても疑いの目を向けざるを得なかった。
まだ小学生にもなっていなかった頃のことだが、晴れ着という奴がどうしても嫌だった姉は、僕を騙して、衣装をそっくりそのまま取り合えたのだ。おかげで僕は、親戚で一番お世話になったお兄さんの結婚式に女物の服装で出る羽目になり、姉は弟から奪った丈のあわない衣装で大笑いをしていた。その写真は十年以上たっても親戚中を巡り、僕の神経をチクチクといたぶっている。
「……それは、確かに不本意ね」
「だろう?」
振り返った僕の前で、雪はにっこりと笑った。僕の手を取り、ほっそりと長い右腕を目いっぱい伸ばしている。携帯電話の画面には、あぜんとした僕と雪の必死な顔が写っていた。
「ほら、もっと寄って!」
「これ、僕がやったらいいんじゃ……」
「舐めないほうがいいわ。私、クラスの子に頼んで、一週間も練習したのよ」
勝ち目なんかありっこねえ。僕はおとなしく満面の笑みを浮かべる作業に移り、雪もまた奇跡の一枚に感涙し、何の断りもなく僕の姉にメッセージとして送り付けたらしい。
「じゃ、そろそろ行きましょうか。つまらない話を聞くのに、お料理まで冷めたとあっては、地獄というより、それをさらに煮詰めた苦行を与える場所になってしまう」
それは困った話だ。
家から出ると、若い男は僕達をじっと見ていた。
「お目付け役よ。父から給料をもらっているからね。どちらの味方かよく分かるわね?」
とは言いつつも、その若い男は僕達のために扉を開け、慇懃に頭を下げた。先に雪が乗る。その背中に向けられた目は、どことなく野生児のような弟の蛮行を見つめる、兄のようであった。一方で僕が乗り込む時も、人懐こい笑みを浮かべて天井に頭をぶつけないよう手を伸ばしておいてくれる。
「ありがとう」
車に乗り込むと、反対側のドアの寄りかかっていた雪は、裏切り者を見るような目で僕を見ていた。
「ええと……」
「……何かしら?」
「珍しい顔をしているなって」
「普段通りよ」
車は何の抵抗もなく動き出し、車窓は素早く祭りに浮かれる町の情景を流していく。昔はもっと大きかったと記憶しているが、今となっては駅前と、やる気のある町内会が屋台を出すくらいで、参加者も段々と減ってきている感さえある。それだけ、この町は衰退してきているのだろう。
まあ、そんなことはいい。
僕の心臓は祭りの喧騒が遠ざかるごとに大きくなり、貧乏ゆすりをしそうになる。辺りはすでに高級住宅街とやらに入ってきていて、噂によると成城石井を激安スーパー扱いするような連中が住んでいるということであった。業務スーパーなんか行った日には、人の食べ物かどうかを疑うのではないだろうか。
不意に、雪が僕の手を握った。彼女の手は温かい。その手を握り返すと、雪はくつくつと喉を鳴らして笑い、また外の大きな月に視線をやった。




