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 約束の日がやってきた。

 朝も早くから祭囃子の音が流れていて、気の早い近隣住民が、日の出とともに法被姿で外に出ていた。

 そんな光景を、僕は自分の部屋から見下ろしていた。最後に法被を着たのは小学生の頃だが、よもやこんな日に、人生でほぼ初めてスーツを着て、しかも恋人と思われている相手の家に招かれることになるとは思わなかった。

 ダイニングに向かうと、すでに気の早い奴が二匹、法被姿で朝飯をかっ食らっている。兄と弟だった。母は、ソファでうつぶせのまま、ぐったりと動かなかった。

「穏便に起こそうとしたんだが、激しく抵抗されて、ぶん殴られたから寝かせておいた」

 何も言っていないのに、兄はそっけない素振りで飯を食いながら、そう言った。

「だから、今日の朝飯はお兄ちゃんスペシャルだぞ」

 簡単に言えばチャーハンの上に、昨日の晩飯の残り物を乗せただけのお手軽メニューだ。ちなみに残り物といえば、ハムカツと白身魚のフライとコロッケで、そういう意味で茶色一色の、父が食べたら一発で病院送りになりそうな代物であった。

「朝からよくもまあ食べられるもんだよ」

「幸ちゃん、それ以上はダメだ」

 黙然とチャーハンをかっ食らっていた弟が首を振った。

(出来なかったのか?)

(もちろん)

 視線だけで言葉を交わした僕達は、涙目の兄を見ないようにするしかなかった。つまりは兄のやけくそに、弟は巻き込まれてしまったのだろう。

「ふん、恋人がいる奴には分からないんだよ。なあ?」

 兄は口を尖らせた。弟も恋人持ちであることは、兄だけが知らない。長男であるがゆえに生真面目で、女性と縁がない彼にその事実を突きつけるのは、あまりにも非情だ。僕と雪は終わりが見える関係だからこそ、家族にも公言できたのだ。

 やはり遠くの方から祭囃子の音が聞こえていた。気の早すぎる近隣住民が、街灯に設置したスピーカーに電源を入れたようだ。ますます音が大きくなり、それまで死んだセイウチのようだった母が僅かに身動きして、うるさい、と呟きながらダイニングを出ていった。

 僕はコーヒーを入れ、牛乳と砂糖を少し混ぜて飲んだ。

 今日はどうにも食欲がない。それに、朝からお兄ちゃんスペシャルを食べた日には、夜まで胃もたれして、粗相をしでかしそうだ。

 朝食を食べると、兄は弟を引き連れて外へ出ていった。入れ替わりで姉がやってきて、昨日の残りが根こそぎ食い尽くされていることに悪態をついた。

 この家はあまりにも騒がしすぎる。

 たぶん、外も今の僕の気分にはそぐわないだろう。僕に必要なのは、静かに考える時間だ。僕の脳裏に浮かんだ場所は一つしかなかった。

 コーヒーを飲み干し、カップを流しで洗う。後ろでは姉が冷凍うどんをレンジで温めていた。

「――コロッケうどんにしようと思ってたんだよ……ねえ、聞いてる?」

「え? うん。まあ、兄にも事情があるからさ。許してあげてよ」

「知ってるよ。それはいいの。あたしは今、コロッケうどんのおいしさを語っていたの。分かる?」

「僕は別々で食べたいね」

「かーっ、それじゃ、コロッケとうどんだよ。別々に食べても美味しい物を、あえて一緒にしようって感覚だよ。カツカレーみたいな」

「おいしさが落ちてるね」

 姉は目をぐるりと回して、こんな男が弟だったとは、とぼやきながら肩を落とした。

 だが、すぐに顔をあげ、首をかしげた。

「髪、切った?」

「……昨日ね」

「だと思ったのよね。飲んでたからさ、幻覚かと思ったんだけど、ねえ? で、せっかくおしゃれにしたのに、そのだっせえ服着て、雪ちゃんとデート?」

「夜にね、スーツを着るんだよ」

「じゃ、いいけどさあ。雪ちゃんに迷惑かけるんじゃないよ。いい子なんだから、大事にしなさいね」

「うん」

「自分が思っている十倍だからね」

「うん。僕、ちょっと学校に行ってくる」

「忘れ物?」

「考え事をしたいんだ。今日はちょっと……」

「うるさいからね。時間には帰ってきなさいよ。一秒たりとも待たせたら駄目よ」

「分かってるよ」

 行ってらっしゃい、と姉はいつも言ってくれる。行ってきます、と返すことはあまりない。帰ってくることが当然だからだろうか。

 スニーカーをつっかけて外に出る。その瞬間、わっと町の熱気のようなものが僕の体を押し包んだ。うるさくて、好きじゃないと思っているけど、この音がなければ夏の始まりを感じられない体に、僕はなっているのだろう。

 私服で学校に行くのはなんだか気が引ける。

 でも、誰からも文句を言われることなく上履きに履き替え、階段を昇り、屋上前の踊り場へとやってくる。屋上への扉には鍵がかかっている。だからこそ、踊り場はひと気がなく、僅かな音も反響するほど静まり返っているのだ。

 埃のかぶった椅子を引っ張り出し、踊り場の真ん中で座る。ここでは祭りの音もあまり聞こえない。

 とくん、とくんと心臓が静かに脈を打っていた。階段を駆け上がった余韻は、薄暗い日陰の、ひんやりとした空気の中に溶けて消えていた。

 久しぶりに白球を握った日、僕の心臓は今よりもずっと大きく、張り裂けそうなほど弾んでいた。それは試合前にいつも感じて、そして試合が終わる頃には消えていた感情だった。

 二年前の従妹の結婚式の日だったか、しこたま酒を飲んで酔っていた兄に、そのことを一度だけ話したことがあった。兄は赤ら顔で半睡半覚の状態ではあったけれど、最後まで僕の話を聞いて、ポツリと一言だけ呟いた。

〝失望だな〟

 僕は怒ったと思う。兄のその言葉に、何も返事をしなかったはずだ。

 でも、今ならば理解はできる。あの時、僕は諦めていた。こんなもんだよとか、充分頑張ったじゃないか、と周りに同調しながら、心には傲慢な怪物を飼っていた。僕はこんなところで終わるはずじゃない、と。

 先輩を前にした時、恐ろしいとか、こんなことになるなんて、という感情よりも、奮い立つような昂ぶりが先立っていた。体の震えは高校受験をした時の震えとは別種のものだったのだ。

 僕はひどい人間だろう。不誠実といってもいい。僕は確かに彼らに失望していたかもしれない。でも、彼らも僕に失望していただろう。口先で都合のいいことを言っていた僕の行動は、きっと、矛盾で大洪水を起こしていただろうから。

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