35
小さい頃、母の膝の上が僕の特等席だった。
何故、そうなったのかは定かではない。
母には色々と世話を焼いてもらったが、とりわけ小さい頃の僕が好きだったのは、膝枕だった。温かいし、柔らかいし、いい匂いがする。どれだけ気が立っていたとしても、どれだけ悲しい気持ちでも、すぐに心は凪いでしまった。悪いことを吸い取ってくれる、そんな心地よさがあった。
……そんなことを思い出してしまった。ふかふかしていて、いい匂いがする。
ああ、そうだった。母の膝の上が好きだったのは、いつでも絶妙な力加減で頭を撫でてくれるからだった。
ほっそりとした冷たい指先が、頭の形に添うように動いていた。僕の髪の毛は決してキューティクルに富んではいないけれど、するすると抜けていく。
……僕、どうしていたんだっけ?
ああ、そうだった。先輩にしっちゃかめっちゃかに打ち込まれて、疲れた体で午前中の授業を受けたはずだ。
それから……屋上で雪とお昼を食べて、午後の授業に向か……向かったか?
頭がぼんやりとしている。どうも思い出せない。瞼の大攻勢に屈したところまでは何とか辿ったが、そのあと、僕はどうなったんだ?
授業に向かったよな?
向かったと言ってくれ。誰でもいいから。
けれど、僕の耳に届いたのは、先日の音楽の授業で歌った課題曲だった。
母はお世辞にも歌が上手い方ではなかったから、この澄んだ、虹のような歌声が誰のものか、僕が寝入った状況を考えれば、答えを出すのは難しくない。
「……雪、今、何時だい?」
「そうね、一日はまだ半分を過ぎたところじゃないかしら」
うっすらと目を開けたが、暮れゆく赤い空が視界に飛び込んできた。
「起こしてって言わなかった?」
「昼休み終了直前に起こした時、あなたは座っていた体勢から横になったわ。五限目が終わるころにベンチから落ちていたから、こうして引き上げて、私も付き合う羽目になった」
言葉の端々に苦いものがある。たぶん雪も、相当心配していたのだろう。
いや、それよりもよっぽど重要なことがある。今、僕は雪の膝の上にいるんじゃないか。
そんなことを考え始めると、急に目が冴えてきた。というか、心臓が強く脈打っている。大丈夫か? 汗とかかいてないか? 僕みたいな汚らわしいもののせいで、雪の持ち物が汚れるのはごめんだ。
たぶん、雪も僕の緊張感を察したのだろうけど、まるで大型犬でもあやしているみたいな、優しい手つきは変わらなかった。
「ぐっすりだった」
「……つまり、君は何度も起こしたんだけど、僕は眠り込んでいて、しょうがないから膝枕をして時間をつぶしていたんだね?」
「訂正があるとすれば、膝枕をして楽しんでいた、の方が事実に近いわ」
雪は含むような笑い声を漏らし、今度は僕の髪をねじってはほどき始めた。
「髪、伸びたわね」
「ずっと坊主に近かったからね。切り時って奴が分からないんだよ」
「ふーん、少なくとも、直近で言えば今日でしょうね」
「帰りに寄っていくよ、床屋さん」
「いや、坊主になったら困るから、私が切る」
僕は頭を動かして、雪を見上げた。
「なんで?」
「だって、あなたの行きつけって、バリカン持って何十年ってところじゃないの?」
「失礼な。祖父母の代から付き合いのあるところだぞ。角刈りなら誰にも負けないはずだ」
ぺちん、と雪が僕の額を叩いた。
「いいから、今回は私に任せなさい」
「切らせてください、だろ?」
また、ぺちん、と小気味の良い音がした。
雪に促されて起き上がると、すでに散髪の準備が済んでいた。といっても、椅子とビニール袋が置かれているだけだったが。
隣で雪が目を細めていた。先ほどまで僕の頭を撫でていた指が、今度は右の頬に触れた。
「酷い顔ねえ」
「元々の話はしてないよね?」
「さあ? ご想像にお任せします。さ、どうぞ」
夕焼けの、少し薄暗くなった屋上に、僕達の影が長く伸びていた。
「あなた、本当に不精ね。もう少し早めに切ったらよかったのに」
そんなことを言いながら、雪はようやく完成図をイメージしたのか、はさみをしゃきしゃきと鳴らしながら、僕の頭を撫でた。
切られた髪の毛が風に乗って外の世界へと滑り落ちていく。でも、実際は、そんなもの見えやしなかった。僕は膝に手を置き、真正面を見ていたから。顔が火照っていた。雪が僕に触れるたび、体がこわばり、ますますじっとはしていられなくなった。
「お願いだから動かないでよ。仕上がりに影響するわ」
両手で頭を真っすぐに戻される。調子が出てきたのか、雪は課題曲を口ずさみながら、小気味よいリズムではさみを動かしていった。
しばらく、遥か彼方の車の音が、僕達の間に絶えずたゆたっていた。しゃきしゃき、という音がその合間に流れ、雪の心地よい歌声がそれらを優しく包んだ。
ぎゅうっと、胸が押しつぶされそうだった。
もう、限界だ。
「あ、ちょっと!」
僕は前屈みになった。細く、長く息を吐き、また椅子の背もたれに体を戻す。雪はぶつくさと文句を言いつつ、また僕の頭を撫でた。優しい手つきだ。心臓が痛いほど脈打っていた。今、頬に触れられたら、僕の体温がばれてしまうだろう。
この仕打ちは、あまりに残酷だ。




