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 小さい頃、母の膝の上が僕の特等席だった。

 何故、そうなったのかは定かではない。

 母には色々と世話を焼いてもらったが、とりわけ小さい頃の僕が好きだったのは、膝枕だった。温かいし、柔らかいし、いい匂いがする。どれだけ気が立っていたとしても、どれだけ悲しい気持ちでも、すぐに心は凪いでしまった。悪いことを吸い取ってくれる、そんな心地よさがあった。

 ……そんなことを思い出してしまった。ふかふかしていて、いい匂いがする。

 ああ、そうだった。母の膝の上が好きだったのは、いつでも絶妙な力加減で頭を撫でてくれるからだった。

 ほっそりとした冷たい指先が、頭の形に添うように動いていた。僕の髪の毛は決してキューティクルに富んではいないけれど、するすると抜けていく。

 ……僕、どうしていたんだっけ?

 ああ、そうだった。先輩にしっちゃかめっちゃかに打ち込まれて、疲れた体で午前中の授業を受けたはずだ。

 それから……屋上で雪とお昼を食べて、午後の授業に向か……向かったか?

 頭がぼんやりとしている。どうも思い出せない。瞼の大攻勢に屈したところまでは何とか辿ったが、そのあと、僕はどうなったんだ?

 授業に向かったよな? 

 向かったと言ってくれ。誰でもいいから。

 けれど、僕の耳に届いたのは、先日の音楽の授業で歌った課題曲だった。

 母はお世辞にも歌が上手い方ではなかったから、この澄んだ、虹のような歌声が誰のものか、僕が寝入った状況を考えれば、答えを出すのは難しくない。

「……雪、今、何時だい?」

「そうね、一日はまだ半分を過ぎたところじゃないかしら」

 うっすらと目を開けたが、暮れゆく赤い空が視界に飛び込んできた。

「起こしてって言わなかった?」

「昼休み終了直前に起こした時、あなたは座っていた体勢から横になったわ。五限目が終わるころにベンチから落ちていたから、こうして引き上げて、私も付き合う羽目になった」

 言葉の端々に苦いものがある。たぶん雪も、相当心配していたのだろう。

 いや、それよりもよっぽど重要なことがある。今、僕は雪の膝の上にいるんじゃないか。

 そんなことを考え始めると、急に目が冴えてきた。というか、心臓が強く脈打っている。大丈夫か? 汗とかかいてないか? 僕みたいな汚らわしいもののせいで、雪の持ち物が汚れるのはごめんだ。

 たぶん、雪も僕の緊張感を察したのだろうけど、まるで大型犬でもあやしているみたいな、優しい手つきは変わらなかった。

「ぐっすりだった」

「……つまり、君は何度も起こしたんだけど、僕は眠り込んでいて、しょうがないから膝枕をして時間をつぶしていたんだね?」

「訂正があるとすれば、膝枕をして楽しんでいた、の方が事実に近いわ」

 雪は含むような笑い声を漏らし、今度は僕の髪をねじってはほどき始めた。

「髪、伸びたわね」

「ずっと坊主に近かったからね。切り時って奴が分からないんだよ」

「ふーん、少なくとも、直近で言えば今日でしょうね」

「帰りに寄っていくよ、床屋さん」

「いや、坊主になったら困るから、私が切る」

 僕は頭を動かして、雪を見上げた。

「なんで?」

「だって、あなたの行きつけって、バリカン持って何十年ってところじゃないの?」

「失礼な。祖父母の代から付き合いのあるところだぞ。角刈りなら誰にも負けないはずだ」

 ぺちん、と雪が僕の額を叩いた。

「いいから、今回は私に任せなさい」

「切らせてください、だろ?」

 また、ぺちん、と小気味の良い音がした。

 雪に促されて起き上がると、すでに散髪の準備が済んでいた。といっても、椅子とビニール袋が置かれているだけだったが。

 隣で雪が目を細めていた。先ほどまで僕の頭を撫でていた指が、今度は右の頬に触れた。

「酷い顔ねえ」

「元々の話はしてないよね?」

「さあ? ご想像にお任せします。さ、どうぞ」

 夕焼けの、少し薄暗くなった屋上に、僕達の影が長く伸びていた。

「あなた、本当に不精ね。もう少し早めに切ったらよかったのに」

 そんなことを言いながら、雪はようやく完成図をイメージしたのか、はさみをしゃきしゃきと鳴らしながら、僕の頭を撫でた。

 切られた髪の毛が風に乗って外の世界へと滑り落ちていく。でも、実際は、そんなもの見えやしなかった。僕は膝に手を置き、真正面を見ていたから。顔が火照っていた。雪が僕に触れるたび、体がこわばり、ますますじっとはしていられなくなった。

「お願いだから動かないでよ。仕上がりに影響するわ」

 両手で頭を真っすぐに戻される。調子が出てきたのか、雪は課題曲を口ずさみながら、小気味よいリズムではさみを動かしていった。

 しばらく、遥か彼方の車の音が、僕達の間に絶えずたゆたっていた。しゃきしゃき、という音がその合間に流れ、雪の心地よい歌声がそれらを優しく包んだ。

 ぎゅうっと、胸が押しつぶされそうだった。

 もう、限界だ。

「あ、ちょっと!」

 僕は前屈みになった。細く、長く息を吐き、また椅子の背もたれに体を戻す。雪はぶつくさと文句を言いつつ、また僕の頭を撫でた。優しい手つきだ。心臓が痛いほど脈打っていた。今、頬に触れられたら、僕の体温がばれてしまうだろう。

 この仕打ちは、あまりに残酷だ。

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