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ようやっと一時間目が始まった頃だろうか。その時間の学校近くは死んだように静まり返っていて、飛び立った鳥が揺らした枝葉の音が、鮮明に僕の耳に届いていた。
斜めからの日差しで、先輩の影が大きく地面に写り込んでいる。ポケットで携帯電話が震えた。雪からメッセージがきていた。大丈夫、とだけ送って、また前を向いた。
三十分ほど歩き、先輩が足を止めたのは、住宅街の真ん中にある小さなグラウンドだった。
僕も立ち止まり、緑色のフェンス越しに眺める。見覚えがあった。でも、過去の記憶との相違が激しく、とっさにそれが同じ景色なのだということが認識できなかった。
「昔、泥んこになってボールを追いかけたよな」
「……ここ、あの時のグラウンドですか?」
「そうだよ。お前、毎週泣きながらここに引きずられてきてたろうが」
もしかしたら、そのせいで記憶から抹消されているのかもしれないな、などと無体なことを考えながら、僕もフェンスに顔を近づけた。
記憶と違うと思ったのは、想像よりもずっと小さいせいだろう。僕達を覆って余りあると思っていたベンチの屋根は、ベンチを半分も隠せていないし、グラウンド整備の用具がたくさん入った倉庫は、教室の掃除ロッカーくらいの大きさしかない。ベースも、外野のフェンスまでの位置も、全てが小さく手に取るようだ。
「ここ、こんなに小さかったですっけ?」
「馬鹿な奴だな。俺達が大きくなっただけだよ。あれから何年たったと思っているんだ」
「……僕達、随分と遠いところまで来ちゃったんですねえ」
先輩は呆れたような顔で僕の背中を力いっぱい叩いた。
「まだ早えだろうが! ほら、中に入るぞ」
土のグラウンドは見るからに乾ききっていて、風が吹くたびに砂埃が舞っている。先輩は僕の胸にグラブを押し付け、自分はバッターボックスに向かった。
「続き、やるぞ」
僕もマウンドへ向かった。ボールを地面に並べながら、素振りをする先輩を見る。やけに近いな、と思ったが、ここは少年野球用のグラウンドだ。マウンドとホームベースの距離が短いのだ。
大体、十八メートルの位置まで下がり、肩をまわす。先ほどの熱の余韻がまだ残っている。
「いいですよ」
僕の声で先輩は一礼して打席に入った。
直後、爆発するような打球音が空をつんざき、強烈な打球がフェンスに直撃する。全く、何を投げても無意味に思える。
新しいボールを取り、再び前を見る。先輩はもうバットを構えている。ふと、目が合った。先輩は目をしばたたかせて、ぽつりと呟くように言った。
「俺はまだ凄い奴か?」
「……身をもって思い知らされていますよ」
「まだ、お前の自慢になれそうか?」
渾身の直球が弾き返され、フェンスの最上段に当たってグラウンドに落ちてきた。その打球の行方を追いながら、僕は汗をぬぐった。
「あんなにかっ飛ばす人が、凄くないわけがないじゃありませんか」
すると先輩は笑って、ホームベースをバットで叩いた。
「添島商業の川島ってやつを知っているか?」
「さあ?」
「お前と同い年だ。甲子園も狙えるチームで四番を打っているらしい」
そう言いながら、先輩がバットを傾けた。つまり、話しながら投げろということのようだ。
また、猛烈な打球がフェンスを震わせ、地面に落ちた。
もしかしたら打撃投手でもやらされているんじゃなかろうか。次も、また次も打ち込まれて、僕は外野まで打たれたボールを取りに行く羽目になってしまった。そうして拾ったボールを地面に置き、先輩を見る。先輩も随分と汗をかいている。そういえば、今日は雲一つない快晴なのだ。
「その人がどうかしたんですか?」
「今年の大注目選手らしいぞ」
「先輩は?」
「ただの注目選手だよ」
投げながら、打たれながら、話しながら、僕は平地のマウンドと外野を何度も往復し、先輩はその度に息を吐き、素振りを繰り返した。
「この世界は嫌になるよ。ようやく化け物共が抜けたと思ったら、また新しい奴が入ってくる。俺はまた追い抜かれて、ただの人間だったことを思い知らされるんだ」
「そんなことは……」
「親父が、俺を大学に行かせたい意味も、少しは分かるつもりだ。実は、まだ悩んでいるんだよ。プロに行けないかもしれないから」




