31
「俺の勝ちだな」
振り返ると、先輩は汗をびっしょりとかいていた。
「先輩……」
「思いのほかいい球がきて、驚いた」
「人生で一番の誉め言葉ですね」
思わず顔が綻んだ。先輩はますます表情を崩して、冗談ばかり言う奴だな、と僕の肩を叩いた。
「でも、お前、昔はいいスライダーを持っていなかったか? なぜ、投げなかった?」
「……先輩、僕と試合したことあるの、覚えているんですか?」
「もちろん。一方的な試合だったが、お前は一生懸命だったと記憶している」
僕は汗みずくの額を撫で、かぶりを振った。
「あの時、僕達ね、一回表、先頭打者ホームランを打たれて、しかもノーアウトランナー一、二塁になった時に、この試合は負けだなって諦めたんですよ」
先輩には理解できないはずだ。試合は九回ツーアウトまで分からないぞ、なんて臆面もなく言える人には。
「あの時、マウンドに集まってね、負けたあと、どこでお昼ご飯を食べるかって、そんな話をしたんです」
「それは……」
「僕、その時なんて言ったと思いますか?」
「絶対に抑える?」
僕は首を横に振った。本当にこの人は、僕とは違う世界に生きているのだ。
「なるべく早く、試合を終わらせるからって、言ったんですよ」
「……」
「先輩、分かんないでしょ? どう足掻いても勝てない奴を相手にする時の気持ちが」
「それを乗り越えるために練習するんだろう?」
「本当に能天気な人ですね。一回の、しかも四番バッターを迎えたところで、諦めるような奴らが、どんな練習をしたら先輩に追いつくんですか? それとも野球をやるために人生を捨ててしまえと、そう言いたいんですか?」
先輩は、次に何を言おうかと、考えているようだった。
遠くでチャイムの音が鳴った。他の面々はグラウンドから引き揚げていくのに、先輩だけは僕を見ている。
「先輩、僕を買いかぶるのはやめてください。僕は、ここにいていい人間じゃないんです。お願いします」
頭を下げた。先輩は黙っていて、影の感じから察する限りでも、まだ、動く様子はなかった。
「幸太郎」
昔から、その呼び方だけは変わらない。
「はい」
「今日、学校、さぼらないか?」
「練習は?」
「一日そこらで駄目になるほど、やわな鍛え方はしてねえ。だから、お前も、今日一日だけ、名島の恋人を休め」
な? と先輩は僕の肩を叩かれると、僕は頷くしかなかった。
閉じ切られた鉄製の裏門を飛び越え、ひと気のない、しんと静まり返った裏道を歩いていると、背徳感と高揚感で、体が少し浮かんでしまいそうだった。
先輩はバットを担ぎ、グラブを小脇に抱えて、ぼんやりと空を眺めていた。
僕も釣られて雲一つない空を見上げ、溜息をついた。
「今日もいい天気だな」
「ですねえ。今年はあんまり雨も降らないですしね」
そんな他愛もない話をしながら、先輩は迷わず進んでいる。どこか目的地があるのだろうか。聞いてもいいのかもしれないが、先輩はあえてなのか、全く関係のない話を続けていた。
話しているうちに、先輩には学力でも負けているらしいということも判明した。両親からは大学進学も考えるよう言われているらしく、少しだけ迷っているのだ、と言った。
「親父はな、高卒でプロ入りして苦労したから、あまり勧めたくないらしい」
「でも、先輩ならいけるんじゃないですか?」
その瞬間、先輩の眉間に、しわが寄った気がした。
「幸太郎に言われると、何だか腹が立つな」
「ええ? そうですか? それは……すみません」
「謝るなよ。お前が言うと、本気になって考えちゃうんだよ」
先輩は、ふーっと一つ息を吐き、大きく伸びをした。昔から体は大きかったが、今や常人離れした身長だ。
「お前、昔から人を本気にさせる天才だったからなあ」
「……初耳ですよ」
「でも、俺が野球を本気でやろうと思ったのは、お前のおかげなんだぜ?」
「え?」
「あの時はさ、まだ、野球選手になりたいっていうのは、ただの夢だったんだ。お前にもあったろ? でかい夢を見てた時期がさ」
「ええ、まあ。お恥ずかしながら」
「あの頃の俺にとっても、プロ野球なんて想像もつかない場所だった。誰よりも野球が上手かった親父が、何も出来ずに弾かれてクビになった場所だ。どんな魔窟だよって思ってた」
「でも、先輩、あの頃から凄く上手かったじゃないですか」
「……はは。お前が何でもすげえ、すげえって目を輝かせるもんだからさ。こっちも一生懸命になっちまった」
先輩が振り返った。
満面の笑みを浮かべていた。
「お前のせいだぞ。お前が俺を本気にさせたんだ。お前が凄いなんて言わなけりゃ、俺はここまで野球を頑張ってねえし、名島にも会わなかった」
どうしてこう、世の中は僕の思っていない方向へ動き出すのだろうか。
僕が先輩に影響を与えた?
僕は先輩に追いつけなくて諦めたのに?
何だか理不尽だ。悩んで、苦しんで、殻に閉じこもった僕の心はどうなってしまうのだろう。
そんな考えは身勝手かもしれない。でも、そう思わずにはいられなかった。
ふと、雪の顔が浮かんだ。雪も本気だった。僕みたいな人間のことを本気で想ってくれていた。
僕は先輩の、そして雪の心に応えられてはいないのかもしれない。
随分伸びた髪の毛を、僕はかきむしった。急に鼻の奥が痛くなって、思わずすすった。
僕は駄目な人間だ。諦めて、俯いて、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていた。
そして、待っていたはずなのに、雪や先輩が差し伸べてくれた手を、見ないふりしていたのだ。
この人達は本当に眩しい。僕みたいな人間を真っすぐ見ている。
「僕のこと、買いかぶりすぎですよ」
ポケットに手を突っ込み、背中を丸めて先輩のあとを追いかけた。
あの日からずっと、僕はこうしていたかったのかもしれない。




