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「勝負は三打席だ」
バットの先端で描いた即席のバッターボックスで、先輩は足場を固めていた。
「全部抑えるのは無理ですよ」
相手はプロ注目のバッターだ。天地がひっくり返ったって、物理法則が乱れたって、僕が負けることに変わりない。
「そんな無茶苦茶言うか。一打席でいい。抑えてみろよ」
「あとで泣きを見るかもしれませんよ?」
「馬鹿にするなよ? 俺が負けると思うか?」
大きな体に反して力感のない、自然なフォームだ。
こういう時、先輩は何を考えているのだろう。きっと武術の達人なんかが、修行の末に辿り着く境地のようなものかもしれない。何も考えていないようでいて、あらゆる選択肢を考慮している。
もし、その仮説が正しければ、どこに何を投げてもある程度は反応してくる。あとは才能の差で、ボールが彼方へと飛んでいく。
自明の未来を想像して、僕はかぶりを振った。負けるのはいい。でも、頭の中でも負けたら、僕はどうしようもない負け犬だ。
ゆっくりと足を後ろにやった。昔から、腕を振り上げるフォームは好きじゃなかった。体が大きく伸びすぎて、制御できない気がするから。
足をあげる。膝が胸元あたりまで上がり、それをゆっくりと捻りながら下ろしていく。体が深く沈み込む。太腿や、お尻、そして背中が悲鳴を上げている。いくらトレーニングを続けていたからと言って、それが実践で使えるとは限らないのだ。
それを今、僕は身をもって知った。
ミシミシと体がきしむ音を、耳の奥で聞いた。
指先から放たれたボールは、程よく回転して、宇宙開発にでも向かうのか、ストライクゾーンとは真逆、五メートルほど上のネットに当たって、力なく地面に落ちた。
見ていた野球部員達の冷笑が、後ろから聞こえた。
だが、先輩は何度かバットを振りバッターボックスへ戻っていく。僕は新しいボールを取った。
また、ゆっくりと投球動作に入る。大丈夫。今度は上手くいく。指にかかった直球が、ストライクゾーンへ向かった。
「……シッ!」
先輩がバットを振った。
かあん、と甲高い音がグラウンドに響き、後ろで歓声が上がった。ボールはグラウンドには落ちてこないだろう。
また、新しいボールを取った。
先輩も何も言わずに構えている。
次の一球を投げなければ。手の中でボールを転がし、縫い目を見つけて指をかけた。
あの日から、僕は止まったままだ。この勝負に勝ちたいのか、それとも負けたいのか、僕の頭の中はぐちゃぐちゃだ。
でも、僕は雪と約束をした。この人を騙すために恋人のふりをする、と。果たしてそれは上手くいっているのだろうか。悠然とバッターボックスに立つ男を、きちんと騙せているのだろうか。
もう一度、ゆっくりと足を上げる。今度も指に縫い目がかかった。先ほどよりもさらに速い直球が、内角高め、顔に一番近いストライクゾーンへと放たれた。
一瞬、藤村先輩の動きが鈍った気がした。だが、そのぎこちなさを強引にかき消し、バットが振り抜かれた。
かあん。また、ボールが高々と舞い上がる。投げ終えた姿勢のまま、僕は立ち尽くした。汗が頬を伝い、顎から地面に落ちた。気づけば息が上がっている。顔が火照り、体中の筋肉がびりびりと小刻みに震えていた。
怖い。
恐ろしい。
先輩と目が合うと、彼は幾分驚いた顔で、いつものルーティーンからまたバットを構えた。
楽しい。
僕は思わず笑った。
頭は使わない。ただひたすらに、力の限りボールを投げる。
あの日、出来なかったことが、全てを諦めてしまったあとに出来るなんて。もしあの時、野球を諦めていなかったら、この人とまた野球が出来たのだろうか。
何の卑屈さも感じず、ただ純粋に自分の力を高めることが。
全てはもう遅い。
そう言い切ってしまえるほど僕は遅れてしまったのか?
分からない。でも、次の一球が最後だ。そう直感した。
また、ゆっくりと体を動かす。大きく手を伸ばし、遠心力を使って渾身の力でボールを投げつける。
唸りを上げた直球は、さらに速度を増し、先輩が困惑した表情を見せた気がした。それくらい、僕は非現実的な瞬間を味わっていた。
かあん。先ほどよりも大きな音が響き渡り、僕は今度こそ振り返った。我が校にはバックスクリーンまで完備された立派な野球場がある。その一番上に、真っ白いボールが当たり、微かに震えた。




