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 僕は溜息をついた。最近、これが癖になっている気がする。

 残念なことに、僕は自尊心というものを大幅に欠如しているらしい。人が僕より優れているからと言って嫉妬することはないし、焦りを覚えることもない。誰かより成績が劣っていても、学校の先生達が僕の名前をど忘れすることが多くても、あまり気にならない。そんなことを気にしていたって、何の役にも立たないし、僕自身、不思議と現状を改善しようと行動を起こす気にもならないのだ。

 僕は、人と争うことを諦めた人間なのだ。

 偉そうに聞こえるかもしれないが、人生の中で誰かに勝った経験がほとんどない。幼稚園の頃の駆けっこから始まって、高校一年生の五月に実施された中間試験まで。まあ、学年で最下位ということはないが、ほとんど下だ。勉強そのものを放棄した人くらいしか下にはいない。

 人類の構成員を総合的にランク付けした時、僕は恐らく下位だろう。馬鹿みたいだと思われるだろうか。でも、それだけは確信を持って言えるのだ。

 僕ほど闘争や向上心からかけ離れた人間はいない。争うだけ無駄だと僕は思う。戦って勝てる人間ならばいいが、僕のように劣った人間は、争った分だけ厳しく収奪されてしまう。それなら最初から、これくらいどうぞ、と自分の取り分を相手に明け渡してしまえばいいのだ。そういう人生の根幹が決まると、僕の人生は極めて穏やかになった。

 僕達の前にカレーが運ばれてきた。

 細かく刻まれた肉や野菜が程よく煮込まれた、何の変哲もない茶色い液体と、紫がかった十六穀米のコンビネーション。今度はスプーンを取って雪に手渡すと、彼女は僕の顔を覗き込んで、スプーンを受け取った。

「何か、考え事?」

「人生の重要なことをね」

「ああ、ルーは右か、左かって?」

「僕の人生はそこまで安くないだろ。ちなみに僕はルーを下にするんだ」

「うわ。そんな食べ方の人、初めて見た」

 雪は苦笑いを浮かべて、僕の手元を見ている。ルーとご飯をスプーンですくい、口に入れる。その途端、冷蔵庫の残飯処理の名のもとに作られた、具材が溶けるほど煮込む、祖母の絶品カレーのことを思い出してしまった。

 いや、悪口ではない。祖母のカレーは世界一だった。ピーマンが丸ごと入っていても、ちくわが入っていても、時に賞味期限切れのチキンラーメンが入っていても、カレーは全てカレーの味だった。哲学的な話でもない。まるでチェーン店のように、祖母の作るカレーは具材に味を左右されない、均一的な味だったのである。

 この喫茶店のカレーも、手の込んでいそうな見た目に反して、母なる海の懐かしさに包み込まれた時のような安心感を覚える味だった。

「旨いね」

「私、もしあと十秒で世界が崩壊するって言われたら、最後の晩餐にこのカレーを選ぶわ」

「まあ、十秒じゃ他の物を食べている余裕ないしね」

 そんなくだらない会話をしながら、雪の顔をぼんやりと見つめる。

 僕と彼女は仮初の恋人同士だ。その事実を知った人間は大抵、僕達にいぶかしげな視線を向けてはいたが、風変わりな新興カップルとして、僕達を受け入れてくれていた。たった一人を除いて。

「また、難しい顔をしたわね」

 さらりと落ちた、長くつややかな黒髪を耳にかけつつ、雪はつぶやいた。

「恋人って何だろうなって、考えていただけさ」

「答えは出そう?」

「カレーを食べ終わったあとにもう一回聞いて」

 雪は肩をすくめ、自分もカレーに集中した。たぶん傍から見ていたら、よほど腹ペコな若者だと思われたことだろう。それくらいカレーは祖母の残影を強くにじませ、スプーンを止める隙を与えてくれなかった。

 最後のひとかけらになった福神漬けを口に入れ、そのシャキシャキとしたレンコンの触感を味わっていると、ほぼ同じタイミングで食べ終わった雪が、紙ナプキンで口元をぬぐいながら、僕を鋭くねめつけていた。

「恋人って、何だろうね?」

「カレーの中に答えはなかったのね?」

「君が可愛いなってことくらいかな」

 すると、雪は頬を赤らめた。

「どういう意味?」

「いや、一口が小さくて可愛いなって」

 雪は口に手を当てて咳払いをし、テーブルの下で僕の足を蹴飛ばした。

「口で言えよ、口で。暴力は犯罪だ」

「……右の脛を蹴られたら、左の脛も差し出しなさいと言った偉い人がいたわ」

「絶対にいない」

 だが、雪は悠然と僕のほうを見て、コップを傾けた。僕は思わず舌打ちしそうになるのをこらえて、水差しを取った。

 氷が重なる心地よい音を聞きながら、雪はうっとりと目を細めた。

「さっきの、恋人の定義についてだけどね」

「うん」

「美味しそうなものを一緒に食べたがる人達のことを言うんじゃないかしら」

「……食べたがる?」

「ええ、そうよ。思い返してみて? パフェを食べに行こうと話していた私達と、ここにきて死んだ顔でカレーを食べていた私達。どちらが恋人という言葉にふさわしいと思う?」

「……死んだ顔はしていなかったと思うけどね」

 うん。僕はきっと幸せそうな顔をしていたと思うんだ。それが死んだ顔だったといわれたら、たぶん僕の表情筋が、思いもよらない形で死んでいたということに他ならないのだと思う。僕はそれくらい、おばあちゃんのカレーを美味しいと思っていたのだから。

 窓から吹き付ける風で、雪の黒髪が大きく膨らんだ。彼女はそれを手で押さえ、後ろにかき上げながら、自分の言葉に自信を持っているようだった。

「じゃあさ、実際に美味しい物を食べている人達はなんていうの?」

「食友達」

 おかしい。それでは先ほどまでいた人達が、全てが食友達になってしまうではないか。

 でもまあ、それをあえてぶつけるほど、僕達は仲が良いわけではないのだ。

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