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 夜の九時頃になると雨が止み、雪は帰ることになった。泊まっていけばいいのに、と父は名残惜しそうに言ったが、我が家に人を一人、余分に泊められるようなスペースはなく、誰かが廊下で寝ることになるのだぞ、と言うと、薄情にも雪を見送るとこととなったのだった。

「面白い家族だったわ」

 駅へと送り届ける途中、雪はくすくすと忍び笑いを漏らした。

「恥ずかしい限りだよ」

「そんなことない。本当に優しくて、いい人達だった」

 悪い気がしないのは、他人に褒められるのが嬉しいからだ。毎年のように熊の木彫りをもらってきて大喧嘩になる家族だったとしても。

「君の家族に会うのも、楽しみになってきたよ」

「あまり期待値は上げないでね。全く逆だし、不快になるかもしれないわ」

 でも、それでも、僕は彼女の期待に添いたい。

 彼女が僕達に温かく迎え入れられたように、僕も少しだけでいいから、彼女の父親に何かを話せる人間になりたい。

 夜は静かだった。雨が上がったあとの、澄んで、湿った空気が肌を舐める。薄くなった雲の間から月明りが差し、どこかの家の椿がキラキラと輝いている。僕が空を見上げると、隣で雪も顔をあげた。

「お母さんと、随分熱心に話していたわね」

「大した話じゃないよ。ただ、君が良い人だなって、そういう話をしていただけだよ」

「あなたもね」

 ふと、僕の手の甲が、雪の手に触れた。雪はまだ空を見上げたままで、でも、その手を僕の前に差し出していた。

 僕はその手を取った。ほっそりとした柔らかい手だ。雪はいつの間にかうつむいていて、肩を寄せていた。

「今日は、月が綺麗に見えるね」

「うん」

「君の人生に協力する分、僕の人生にも協力してもらえるんだよね?」

「うん」

「嫌な目に合っても?」

「私達の仲じゃない」

「一番、信じられないものを持ち出してきたね。でも、信じるよ。僕も、もう少しだけ頑張ってみる」

「戦うの?」

 僕はかぶりを振った。そこまでの度胸はない。もう全く。たぶん、手を繋いでいる雪が一番分かっているだろう。手のひらに汗をかいている。でも雪は、前を向いたまま、ただじっと僕の手を握りしめてくれた。

 駅までやってくると、雪は改札には向かわず、ロータリーへと足を向けた。タクシーの列とは別に、黒の普通車が停まっていた。雪の手が離れた。先ほどまで感じていた温もりが失せ、雨上がりの冷たい空気が入ってくる。僕はびっくりして足を止めた。雪が振り返った。

「ここまででいいわ。ありがとう」

「おうちの人、待ってたんだね。家まで来てもらえばよかったのに」

「あの辺、入り組んでいるからね。分かりやすいところで待ち合わせたほうがいいと思ったのよ……あと」

「あと?」

「手汗。手、握るたびにそんなだと困るからね。早く慣れてよね」

 僕はズボンの裾で手を拭き、笑った。雪を乗せた車はロータリーをぐるりと回り、夜のとばりへ消えていく。僕の手汗も、もう完全に引いていた。ただ、僕は、この決意が続くかどうか、それだけが心配だった。

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