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その時、玄関で荒っぽく鍵が開く音がした。強い雨音が聞こえ、それがまた遠ざかっていく。ビニール袋が重なる音がして、甲高い、母の声がした。
二人が初めて出会い、雪が礼儀正しく挨拶をすると、母は濡れたビニール袋を置いて、まるで拝み倒さんばかりに雪に頭を下げた。ついで父が帰ってきた。駐車場から玄関までの僅かな間でさえ、雨粒に打ちのめされて、水が滴るほどだった。父は雪を見て、ぽかんと口を開けていた。
結局、母が父の尻を叩き、帰ります、という雪をなだめて笑った。ご飯でも食べていきなさいよ。やめておけ、と僕は言った。彼女はものすごい金持ちで、僕達が食べているものの十倍は高くて美味しいものを食べているぞ、と。
父はまだ目を真ん丸にしていた。十倍ですかと雪に尋ね、答えを聞く間もなくポケットからハンカチを取り出し、濡れた額をぬぐった。
「大丈夫よ。今日はいつもの二倍おいしそうな奴を買ってきたから。五倍差くらいだったら、何とか食べられるんじゃないかしらね」
「え、ええと、お母様。お気遣いなく」
「まあまあ、聞いた? お母様、よ? あたし、あなたのお母さんに言ったことはあっても、言われたことはなかったわ」
「うーん、うちのかあさんも、お母様というよりはおかあちゃんって感じだからね」
「も? もって言った?」
父は失言に気づき、風呂に行く、と言い残してその場から逃げ出した。あとは母の独壇場だ。びっくりしている雪の肩をつかんで再び居間に戻すと、にこにこと笑いながらお花を浮かべた紅茶を出した。
「そのお花、食べられるんですって。お茶と合うって言っていたけど、何のお茶だったかしらね」
「紅茶じゃないことは、さっき、僕達が確かめたけどね」
「へえ? もう一度飲んだらおいしいかもしれないわ。でも、まずいなって思った時も、お砂糖を入れればいいのよ。甘くなったら大丈夫。あとはお薬と同じで、味を感じる前に飲み干すの。お腹に入ったら、あとはお腹の方で何とかしてくれるわ」
母の無茶苦茶な物言いに、雪はくつくつと喉を鳴らして笑い、先ほどは取り除いた花を一気に口に含んで、飲んだ。その間に母は慌ただしく野菜を切り始め、先ほどまでの静けさは一転して、いつもの光景になってしまった。
せっかく格好よく決めたのに。
静かで、優雅で、いつもとは違う雰囲気で、雪のために何とか言葉を絞り出したのに。うちの両親はそんなことなど知らずに、好き勝手にやってくれている。
結局、雪は自宅に電話をかけた。今日は恋人の家でご飯を食べて帰る、という一言でさえ、爆弾処理班のような慎重さだった。
そうこうしているうちに兄と姉も帰ってきて、さらに弟が、家の垣根を越え、縁側から直接居間に上がってきた。
「靴下だけは脱げ!」
僕の騒ぎ声が台所にまで聞こえたらしい。ピンクのエプロンをつけた雪がひょっこり顔を出し、びしょ濡れの野猿みたいな中学生を見ていた。弟も、愛すべき我が家に知らない人間がいることに気づいて、恐る恐る僕を見た。
「あれ、誰?」
「僕の恋人」
「そんなお菓子があったよね?」
「現実逃避はやめろよ。これは事実だ。僕の恋人なんだよ、あの人」
弟はびしょ濡れのまま床に倒れこみ、その隙に、ちょうど風呂から上がってきた姉のローキックを食らって悶絶している。あっという間に床が濡れてしまった。そこへ大皿を抱えた雪が戻ってきて、僕がダイニングまでの短い距離を引き受けることにした。




