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「――高橋君?」
濡れたティッシュを持ったまま立ち尽くした僕を、雪が怪訝そうに見ていた。
いけない、いけない。
僕はまた、愚かな過ちを犯すところだった。色々なものを犠牲にして、それにもかかわらず、また誰かと争おうとしている。僕はもう、争わないとに決めたはずなのに。ここ最近、その決意が揺らぎ始めている。
「大丈夫だよ」
僕が言うと、雪は眉間にしわを寄せ、僕の頬に手を触れた。
「そういう顔じゃないわね」
「そういう状況じゃないからね」
僕達はまた椅子に座り、真剣な顔を寄せ合った。
「あなたは嫌がるでしょうけど、もうそれ以外に、私達が出会う術はないわ」
「君は僕が野球をやっている姿に惚れて、中高一貫の女子校から抜け出して、わざわざ何でもない公立高校に入学してきた、と。そういう筋書きかい?」
雪はまた難しい顔をした。
「やめてるのよね、野球」
「残念ながらね」
「じゃ、今、あなたが野球をしていることにしましょう」
大抵の議論は、煮詰まるとおかしな方向に行く。
「いや、それは困るよ」
「どうして?」
「僕は駄目な人間だ。君も見ていただろ? 深川相手でもあのざまなんだ。人様に見せられるような実力じゃないんだよ」
「いいじゃない。あなたは甲子園には興味がなくて、東京ドームが大好きってことにしておきましょう」
いや、おきましょうって……。なんという暴論だ。
「僕の気持ちも考えてくれよ」
「私の気持ちも考えてちょうだい」
雪が鋭い視線を投げかけてきた。
カップの中でドライフラワーが沈み、夢の残骸みたいに花びらだけがしぶとく浮かんでいる。たぶん、僕の顔は泣きそうだっただろう。
何だって、こんな惨めな思いをしなけりゃならないんだ。
僕は確かに敗残者だが、敗残者であることを吹聴するほど、負け犬になり下がったつもりはない。
だが、雪の瞳は彼女の強い意志を示して、綺羅星のように輝いていた。
その一方で、雪の手に包まれていたカップが、カチカチと音を立てていた。
「いつだって、私のことを考えてくれているのは分かる。自分の信念を曲げてくれていることだって!」
もしかしたら、彼女の顔をはっきりと見たのは、これが初めてだったのかもしれない。
彼女は美しい。くっきりとした目鼻立ちで、陶器のようにすべらかな白い肌で、鋭い印象の輪郭だ。
でも、そんな表面的なことよりも、一瞬だけ垣間見えた彼女の動揺が、たまらなく愛おしかった。
……僕は何を言っているのだろう。
雪は、存外大きな声を出したことに驚いていた。次の言葉をひねり出そうとして、パクパクと口を開き、しかし、すぐにかぶりを振った。
「……高橋君。もう、嘘をつくのはやめましょう」
「何のことだい?」
雪の視線が、僕の胸板から腕、そして今はテーブルに隠れた下半身へと注がれた。
無言だが、視線の意味は明白だ。そして、僕はそんなことで争う気は微塵もなかった。
「認めるよ。まだ、トレーニングをしている」
「野球、続けたいからじゃないの?」
「昔の習慣が抜けないんだ。何の意味もないけど、体を動かさずにいたら、気が狂いそうになるんだよ」
でも、雪はきっぱりとかぶりを振った。
「ねえ、私、あなたにたくさん迷惑をかけているわよね?」
「……まあ」
「あなたには、色々な誓いを破らせたわ。嫌なこともやらせた。望まないことも――」
淡々と話す雪の顔には、先ほどのような迷いや、弱みは見られなかった。
ただ、いつも通りの、薄くて硬い仮面を張り付けた、そんな表情があるだけだった。人はこれを美しいという。でも、僕には、先ほどの揺れ動いていた彼女のほうが、よっぽど美しいと思えた。
「――今までと同じように、これからもあなたには迷惑をかけるわ」
「うん」
「だからね、高橋君」
触れた雪の手の冷たい感触が、肌を通して脳みそから足の先まで駆け巡った。
それは彼女が、僕と同じ人間である証拠だと、その時は思った。
「私にも、たくさん迷惑をかけて」
「逆じゃないの?」
「ううん。きっとあなたは、私に負担をかけることを申し訳ないと思っている――」
雪は、僕の目をしっかりと見ていた。手をしっかりと握っていた。僕が逃げる余地を与えなかったのだ。僕は今、逃げ場を失い、猛禽の影におびえるネズミのようなものだった。
「――でも、それは違う。あなたにも、たくさん迷惑をかけてほしいの。あなたが私の人生に協力してくれるのと同じくらい、私にもあなたの人生に協力させてほしい。それは、難しいお願いかしら?」
僕は繋いだ手を見て、それから腕を追いかけ、雪の真摯な顔に行きついた。
僕の人生。
それを考えるのは難しい。まず、僕自身がどんな人間か、考えなければいけない。そして僕自身の望みを明確にし、それを叶えるための適切な努力をする必要がある。
でも、一番の問題は、今、僕にはそういう肝心なものがすっぽりと抜け落ちてしまっているということだった。
僕は空っぽだ。他人と同じように、喉から手が出るほど欲しいものはない。どうしても叶えたい夢もない。僕はただそこにあり、水が高いところから低いところへ落ちるように、若さから遠ざかっていくだけなのだ。




