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「高橋君」

 不意に雪の声が、静かになった屋上で流れた。僕はまだ顔をあげられなかった。でも、僅かに体を傾けると、彼女は咳払いをした。

「お互い、脛に傷を持つと気分が悪いわね」

「そうだね……嫌な気持ちにさせてごめんね」

「私も。嫌な話をしたわね」

 思わず顔をあげた。まさか雪が素直に謝るなんて。けれども彼女は、これ以上ないほど意地悪そうな笑みを浮かべていた。

「……何か、嫌な話をするつもりだな?」

「心外よ。これからする話は、あなただけじゃなくって、私も嫌な気分になるんだから」

「先輩がらみの話だったら――」

「よかった。それ以外なら協力してくれるのね?」

 何故だろう。急に胃が痛くなってきた。雪はいまだかつてないほど、満面の笑みを浮かべている。彼女がここまで嫌がるものは、この世に二つしかない。一つは藤村先輩がらみの件。そしてもう一つは家族の件。

 また汗が噴き出してきた。身じろぎをするとベンチが軋みをあげた。僕の心も軋みをあげそうだ。彼女とお付き合いをし始めてから、まだ数日しかたっていないのだ。それにもかかわらず、僕はもう彼女の親と会わなければならないらしい。

「……君は僕に何をさせる気なんだい?」

「酷いことじゃない。ただ、昨日、ついに父の耳に入ったらしくてね、あなたに会ってみたいって言われたの」

「断らなかったんだね?」

「家族愛って麗しいことだと思うわ。それって、きっと私達の間にある――」

「断らなかったんだね?」

 雪は何故か知らないけど、泣くふりをしながら、だって怖かったんだもの、と呟いた。

 泣きたいのはこっちのほうだ。彼女だって僕の両親と会う羽目になったら、同じ気持ちに……ならないだろうなあ。きっと彼女なら上手くやるだろう。だって僕の両親は残念ながら一般市民だから、彼女の胆力があれば大した相手ではない。むしろ僕の両親が、一生引きずるような傷を負わないかが心配だ。

「なんでだよう。なんで、そんな残酷なことをしようと思ったんだよ」

「仕方がないでしょ。私だって嫌に決まっているじゃない。でも、言い出したら聞かないのよ。だから高橋君。お願いね」

「お願いね、と言われても。僕は何をしたらいいんだよ。その、君の家のお食事会は、制服で行っても浮かないだろうね?」

「……最低限、スーツ、かも」

「持ってない」

「一緒に買いに行こう。だ、大丈夫。私が選ぶから」

 これ以上ないほど不安だ。雪に紳士服を見る目があるとは思えないし、もちろん僕にはない。売り場に行って、呆然とする僕達の姿がありありと思い浮かぶ。それなら、背格好の似ている父親に借りたほうが、ましかもしれない。

「それに、食事の作法も」

「明日から教えるわよ。いつも通りでいいの」

「マヨコーンパンの食べ方に礼儀作法があるのかい?」

 もはや騒ぐしかないのだ。それ以外に出来ることは、本当に何もなかった。物事に抗うには幼すぎたし、力もなさ過ぎた。

 僕達は野球部が練習を再開したことも忘れて、明日以降の予定を、ああでもない、こうでもないと言いながら、何とかまとめた。大体の道筋が見えてきた時には、虫がさざめき、部活帰りの若者達の足音が聞こえる時間になっていた。

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