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また、野球部員達の威勢の良い声が聞こえてきた。僕に集まっていた視線は、もう日常へと戻っている。僕に向いていた視線はたったの二つ。
ようやく息をつくと、深川が目の前にいた。
「いい球だったよ」
「そりゃ、あそこまで飛ばされたらね」
笑顔を作る。大丈夫。ひきつってはいないはずだ。現に深川も笑い、僕の肩に手を置いた。
「ごめん」
「僕の実力不足だ」
野球部の監督に声をかけられた。そろそろ本格的な練習になるのだろう。僕も深川も借りていた道具を返し、グラウンドをあとにした。
僕達は肩を並べて、野球部のグラウンドからサッカー部が活動している校庭を横切り、校舎の間を縫って正門が見える場所まで戻ってきた。
「僕、屋上に寄っていくから」
「また名島か?」
「僕達、恋人なんだよ」
「だからって、毎日いる必要はないだろ? うちのクラスにだって同じような立場の奴はいるけど、毎日一緒にいるわけじゃないぞ?」
でも、これ以上、惨めな気持ちになるのは嫌だ。……いや、それすらも、僕の希望が過ぎるのだろうか。僕は争わないと決めたんだ。そういう意味では、もっと簡単に受け流せなければならないのかもしれない。
「明日、先輩に詰め寄られるぞ。気の利いた返事、考えておけよ」
深川はそう言い捨てて、さっさと正門のほうへ行ってしまった。その背中を見ていると、胸ポケットに入れていた携帯が震え、僕は友達の後ろ姿すら見送る暇なく、あるべき場所へ帰らなければならなくなった。
屋上への扉を開くと、心地よい穏やかな風と、光の中に包まれた雪の姿が目に飛び込んできた。彼女はいつものベンチに腰掛け、寂れた町を見ている。部活をやっている生徒の、威勢のいい声が聞こえている。
昨日までは何ともなかったのに、野球部の声がよく聞き取れるようになっていて、思わずへたりこむように定位置に腰を下ろした。
何故、あんなことをしてしまったのだろう、と思う。
いつものようにへらへら笑って、やり過ごしてしまえばよかったのに。右手がまだ震えていた。もう夏も近いというのに、背筋に冷たいものが走って、どうしてか体を抱きしめたくなった。
「はい」
雪が渡してくれたタオルは、逆立った僕の心を落ち着かせてくれる、優しい香りがした。でも、まだ汗が吹き出し続けていた。
また、ひときわ大きく野球部の掛け声が聞こえてきた。
野球部員の半分くらいは推薦でここに来ていて、授業は昼頃に終わってしまう。もちろん藤村先輩もそちら側の人間だ。
「高橋君――」
雪はまだ町の方を見ていた。かあん、かあん、という金属バットの小気味よい音を聞きながら、彼女は目を細めていた。
「――かっこよかったわ」
「あれだけ打たれたのに?」
「あなた達、とことん相性が悪いんだなって思った」
僕はだらしなく、ずるずると滑り落ちながら、今度こそすました雪の横顔を睨みつけた。
「随分と目がいいんだね」
「おまけに肥えてる。彼、内角のストレートに決め打ちしていた」
「見えっこない。ここからなんて」
すると雪もじろりと僕をねめつけた。風が流れていた。音がこちらからあちらへ抜けていく。雪は長い黒髪を抑え、引き結んでいた口元を僅かに歪めた。
「全部見えてた。あなただって気づいていたでしょう? あなたと彼の勝負は、どちらかが劣っているんじゃなくて、戦う前から彼の思考の檻に閉じ込められているだけなのよ」
「うるさいな」
もう二度と、戦うことなんてないんだ。僕は争わないと決めた。そのタガが、今日は少し緩んでいただけの話だ。
「でも――」
「君だって、僕の信条は分かっているはずだろ? 今日は特別なんだよ。今後のために、どうしてもやっておかなきゃならなかったんだ」
「……」
「雪。誰だって口を出されたくないことはあるはずだ。僕だって、口に出さないことはあるんだよ」
しまった、と言った瞬間に思った。
でも、言葉は取り返せないのだ。音になった瞬間、それは僕だけの物ではなく、僕達の物になってしまうのだから。
「どういう意味?」
言葉の端々に、僅かながら刺々しさがあった。感情が高ぶった瞬間の、あふれるような活力のある音だ。また、体が震えだした。僕はどうしたらいい。争わないためには、どうすればいい。
……分からない。
雪と目を合わせてもいいのか?
どんな言葉をかけたら衝突せずに済む?
笑っていいのか?
結局、僕はタオルに顔をうずめ、ごめん、と呟いた。
卑怯な人間だ、僕は。
雪は再び前を向いたようだった。少なくとも僕は、彼女を直視できなかった。また風が流れた。不思議と声は聞こえてこなかった。風は僕の体を抜け、町の方へと流れていった。




