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「先輩、俺に愚痴りに来たよ」

 放課後、深川が苦笑いを浮かべながらやってきた。クラスメイトは帰る準備をしていて、教室は少しざわついていた。

「先輩は僕のことを買いかぶっているんだよ」

「ふうん、そうか?」

 深川はあくまで暢気なそぶりだ。僕は半眼を向けた。

「他人事だと思っているだろう?」

「先輩に愛されているなって思っているのさ」

「……君もだろ。僕の代わりに野球部に入れよ」

 深川は肩をすくめた。

 彼にとって野球は遊びだ。にもかかわらず、誰よりも上手だった。僕には彼のいいところが十や二十は見えていたが、他人はそれよりも先に過剰なまでの自信や鼻持ちならない態度が目についたらしい。嫌な目に合うことも少なくなかった。

 そういう、明確な弱点があるから、僕はまだ彼に手が届くと思ってしまうのかもしれない。

「もう野球はしないよ。一番になれないことは嫌いなのさ」

「贅沢な悩みだな」

「俺はお前にだって、嫉妬していたんだぜ?」

 今度は僕が肩をすくめる番だった。

「ついにおかしなことを言い始めたよ」

「それを言うなら、名島と付き合っているっていう認識の方が、よっぽどおかしいけどね」

 僕は曖昧に笑った。でも、内心では冷や冷やしていた。なんでこいつは勘が鋭いのだろう。

 まあ、確かに現実味のないことを主張している僕の方が、おかしいのは事実なのだろうけど。

 僕は席を立った。深川も帰る準備をしている。その背中に僕は声をかけた。

「今日、ちょっとだけでいいから時間を作ってくれないか?」

「いいけど、名島といちゃつくのだけはやめてくれよ」

 友達のそんな姿は見たくない、と深川はぼやいた。

 頼まれたって、僕も見せたくない。雪と僕の身分は、あくまで恋人ごっこに過ぎないのだ。そこに真実が混じってしまった場合、ごっこはごっこになりえないし、多くの人から本当に恨みを買う羽目になるだろう。

「違うんだよ。先輩の幻想をぶち破ってやらないと。僕が投げるから、君、打ってくれよ」

 深川は今度こそ本気で呆れた様子で肩をすくめ、鞄を肩にかけた。

 昼間に僕の手を引いた雪の横顔は、どうしても忘れられない。凛然とした表情を無理に作っている気がした。彼女は怒ると眉間にしわを寄せるけど、あの時、眉間にしわはなかった。ただ口を引き結んで、前だけを見ていた。

「どうせ勝負するなら、俺から三振を取って、夏の甲子園でも目指せばいいじゃないか」

 そんな気があれば、僕は雪と出会っていない。

 グラウンドは活気に満ち溢れていた。外野を使って選手達がアップをしている。

 こういう時、優等生は役得だ。深川が監督に話すと、即座に許可が出てしまった。おまけに僕はスパイクもグラブも借りられた。

 野球部員達が外野で足を止め、じっと僕達を見ている。その中に藤村先輩もいるだろう。皆、深川に興味津々のようだった。

 準備運動を終え、僕はマウンドへ。そして深川はフリーバッティング用のネットの中へと入っていった。

 久しぶりにキャッチボールをして、少し息が上がっていた。頬を伝う汗をぬぐう。

 少し離れた位置から目が合った。それだけで準備万端だと了承した。

 プレートを踏む。深川は打席でホームベースを一度叩いて、ゆっくりとバットを構えた。

 大きな、それは大きな山を思わせる構えだった。悠然と、しかし体はゆっくりと揺らめいている。

 中学の頃、修学旅行で五重塔を見に行った時、ガイドを務めてくれた和尚さんが、塔の原理を話してくれた。不動のように見えて、実は中で大黒柱がゆらゆらと揺れているという。深川も、それと同じだ。

 体の後ろに回した右手の中で、ボールをくるくると弄ぶ。見なくとも、縫い目の位置は承知している。ボールは使い古されていたが、手入れが行き届いていた。

 投げる球を決め、セットポジションに入る。辺りはしんと静まり返っていた。野球部員達の視線が、僕の背中に集まっていた。

 ゆっくりと足をあげる。体がきしみ、悲鳴を上げていた。体重移動で重心が前に進んでいく。大きく腕を振り上げ、地面に着地すると同時に腕を振り抜いた。

 ぴしっと指先に縫い目がかかる。一球で、現状では最高の球がいった。

 ――かあん。

 深川がバットを振り抜いた直後、白球は空高く舞い上がり、鈍色の雲に紛れて見えなくなった。

 心臓がどきどきしていた。投げ終えた体勢のまま、打球の行方を追っている深川の顔を、じっと見ていた。

 やがて、ガシャンと金網に当たる音がして、野球場よりもずっと離れたところで練習していた陸上部員達の叫び声が届いた。

 振り返る。陸上競技場の一番奥で、真っ赤なジャージを着た生徒達が、それぞれ顔を見合わせながら、何かを叫んでいる。野球部の一年生が一人、慌ててボールを取りに駆けだした。

 僕は大きく溜息をついた。

 いつだって、注目を浴びるのは僕ではない。僕は誰かの引き立て役だ。でも、実を言うとそんなことはどうだっていい。僕は球場の中央にいても、あまり目立たないように生きてきた。矛盾しているかもしれないけど、僕くらい駄目な人間になると、下手に端っこにいるよりも、真ん中にいたほうが他の存在感に紛れて気づかれにくくなるのだ。

 それにしても、よく飛んで行った。ようやく現場に着いた一年生が、ものすごい勢いで謝っている。さしもの陸上部員も、打球の出発点を知って怒る気力をなくしたようだ。

 髪の毛から滴った汗が地面を点々と染めていた。汗をぬぐうことも、動くこともできなかった。

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