12
昼休みになると、僕達のクラスは人口密度が極端に低くなる。深川も同級生達と食堂へと向かってしまった。
そうなると僕は一人だ。教室で目立たないように生きているが、クラス内人口が三分の一になればそれも難しい。こういう時はさっさと外に出てしまうに限る。
ふと窓の外を見ると、窓の表面にうっすらと雨粒がついていた。それはまだ目を凝らさないと見えないほど細かい粒だったが、窓に顔を近づけてみると、はっきりと向こう側で無数の雨粒が地面を濡らしていた。コンクリートの道路が濃い灰色になっている。静かだ。けれども耳を澄ませると、微かな雨音がする。町のざわめきを奪い取ってしまったようだ。
今から行くよ、とメッセージを送ると、可愛らしいスタンプで了解と返ってきた。
案外、女の子らしいところもあるんだな、などと酷いことを思いながら、僕はゆっくりと屋上へ向かった。
雨の日は廊下も混雑している。行き場のない生徒達があちこちで固まり、談笑をしていた。さして面白いことのように思えないのは、友達が少ないからなのか、社交的な能力が不足しているからか、それとも後ろめたいからだろうか。
いつものようにうつむきがちに歩いていく。なるべく息をしないように、細く、ゆっくりと吐き出す。
笑いの波間を歩く時、僕は廊下の木目を見ていた。人の群れの脇を抜け、ようやく一息つける場所へやってくる。屋上は普段施錠されていて、ごくわずかな生徒しか鍵を持っていないという。そんな場所の鍵を何故雪が持っているのか。でも、彼女は屋上へ出入りすることが許された、数少ない生徒だった。
入れもしない屋上にはほとんどの生徒が興味を示さないから、水の滴る静かな音を聞きながら、僕は全く前を見ていなかった。階段の隅に忘れ去られた大きな綿埃に、どこか親近感のようなものを覚えていた。
そんなわけで目の前に人がいても、僕は気づかず、彼が身じろぎをした影の動きでようやく視線をあげ、階段につんのめりそうになって足を止めた。
「……そんなにどんくさい奴だったか?」
藤村先輩が心配そうに目をすがめている。
僕の記憶にあるよりも、幾分か大人びた相貌。顎に僅かな髭が伸び、それが僕と彼の間にある二年間を際立てていた。藤村先輩から見れば、僕は子供だろう。
藤村先輩と野球をやっていたのは短期間だ。二歳年上の彼は、小学六年の頃にはリトルリーグに行ってしまい、それきり高校生になるまで一度も会ったことがない。
……というのは嘘だ。
去年、一度だけ藤村先輩が出ている試合を見に行った。夏の甲子園の予選となる県大会準決勝。相手は昨年、我が校を打ち破った強豪校だった。結論から言えば我が校は勝った。その勢いのまま甲子園に出場し、藤村先輩の名前は全国に轟いた。ターニングポイントとなった県大会準決勝で、先輩は四打数三安打。ことごとく打点に絡み、彼が稼いだ五打点が相手の息の根を止めたのだった。
声援を受けて打席に向かう後ろ姿。
硬球を金属バットで打つ甲高い音。
青空の向こうに消えた白球。
ダイヤモンドを力強く駆ける大きな体。
ベンチ前で荒っぽい祝福を受ける横顔。
何年か会わないうちに、僕と先輩の間にあったものは随分と広がっていたようだ。年の差を理由にできるほど、僕は無知ではなくなっていた。
「まあ、人間、生きていれば衰えることもありますよ」
「そんな年齢じゃねえだろ。お前、野球やめたのか?」
「……そうですね。才能がなかったみたいです」
藤村先輩は、じろりと僕を睨みつけた。
才能を理由にできるほど、努力をしたのか? そう問いかけているようだ。
だが、彼にそう言われて、はい頑張りました、と言える人間はどれだけいるのだろう。
息苦しい。
真っすぐな目が、ただひたすらに僕を責めたてる。やっぱりこの人は、まだ挫折を知らないのだ。どんな壁だって乗り越えられると思っているに違いない。
でも、それは壁を越えたから言える言葉なのであって、越えられなかった人間にとっては罵声と同じだ。
「昔は、もっと明るい顔で笑う奴だった」
この人の眩しさは堪える。鼻の奥がつんと痛んだ。
勝とうと思わなくなっただけさ、と心の中でうそぶきながら、僕はそっぽを向いた。
「今年も、甲子園に行けるといいですね」
「お前と深川がいれば確実だったよ」
「買いかぶりすぎですよ。それより、今日は残念でしたね」
「何がだ?」
「雨。屋上でお昼でもしようと思ってたんでしょう?」
先ほどよりもずっと雨音が大きくなっていた。藤村先輩は眉間にしわを寄せ、かぶりを振った。
「いや、今日はお前に用があってきたんだよ」
心臓が急に縮み、上手く息が吸えなくなった。
どうやら、僕の想定よりも早く、来るべき日がやってきたらしい。




